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チキンライスだって蕎麦だって居酒屋だって、親孝行とは親孝行である

今年も変わらずGWがやってきて、東京で特にやらなければいけないこともない私が、数ヵ月ぶりに地元に帰って父親と2人で飲みに行った帰りにふと思ったことをただ書き連ねるだけのことをするだけだから、大したことは書けるわけもないよ。

2024年も既に4ヵ月が過ぎて、生活環境が変わったり、今までとは違う趣味を始めてみたり、今まで苦手だった食べ物を食べてみたら、あれ、意外と食べれるかも、って思い始めたり、いろんな人がいるだろう中、私はのんびりと地元に帰り、今年は去年よりも涼しいんじゃないか?などと気ままに父親に向かってぼやいていた。
夜ご飯どうする?と聞くと、飲み行くか、と父親。
良いね、と私。
家の近くだったらあそこか、と父親。
ほんなら電話して聞いてみるわ、と私。
6時からなら空いてんねんて、と私。
そうしよう、と父親。

予約した時間より少し早く着いた居酒屋は、GWにしては少し空いていて、心配して電話しなくてもよかったのでは?と思いつつも、入れないよりはいいかと話しながら2人ともビールを注文。
実は、少し前から血糖値が高いと医者から指摘を受けていた父親だったのだが、(正確な数字を書くと心配する人もいるかもしれないので漠然とした表現で)改めて聞くと心配を通り越して興ざめするほど数値が高かったらしく、下手をすると入院しなければいけないほどだったそうだ。
それが今日話を聞くと、食事制限から飲むものまでかなり気をつかって、たった1ヵ月でほぼほぼ一般的な基準値あたりまで数値を下げたらしく、今では見た目も変わったと分かるほどすっきりとしていた。
なんだ、それでビールが頼めるのか、なるほどな、と思う。

…いや、待てよ。そんな食事制限なり飲むものまで気にして(ビールなんてものはもちろん禁止飲料である)正常値まで血糖値を下げた後のビールってさぞうまいのではないか?
そう思い、軽く乾杯し届いたビールに口を付ける父親を恐る恐る見る。

ああ、それはそれは確かに旨そうだった。その口角は目に見えて分かる程確かに上がっていて、旨そうだった。
いくつになっても、自分の子供がどれだけ大きくなっても、そして血糖値がどれだけ高くなってそして低くなっても、どうなってもビールは旨いものなんだな、と私は思う。

さすがに下がってくれた血糖値もそう長くは低くいてくれないだろうと、注文は身体に比較的良いもの(良くはないが悪くもないもの)を頼むようにしながら、届いたもずくやサラダをつまみながら話す父親との会話は、決まって中学や高校の頃の私の野球部での話だ。
あの試合は今思ってもいい試合だったよな、だとか、結局お前たちの代はいいチームだったよな、だとか、張本人だった私でも思い出すのに時間がかかるような、そんなことがポンポンと出てくる。
ああ、そんなこともあったっけな、と私が言うと、なんで覚えてないんだよ、と呆れられる。
意外とやってた方より見てる方が覚えているもんなんだな、とちょっと不思議に思う。

そうこうしていると田舎ならではで、近くの席の人と当たり前のように会話が始まる。
田舎の世間話に付き合ってくれたのは、父親と私のように、母親と娘の2人で来た親子だった。
話を聞いていると、その娘はどうも最近20歳になったらしく、来年成人式を迎えるのだという。
それならお酒も飲めるね、と聞くと、お店には母親を車に乗せながら来たのだと言う。
母親にお酒を楽しませてあげるために、自分がお酒を飲めなくとも、送ってあげることができる娘がいるんだな、と感心するふりをしながら、お前が同じ年の頃はそんなことやってくれなかったな、と父親は私に突き付ける言葉を超スローカーブで投げてくるのだった。
ぐうの音も出ない私はそんな光景を見ながらふと思った。
ああ、この娘は今、親孝行をしているのだ。
母親と2人で居酒屋に赴き、自分はお酒を飲まずとも2人でご飯をつまみながらケラケラと笑いあっている。
娘当人にはそんな気はなくとも、母親からすると、はたから見ていた私からは特に、あれば見るからに親孝行だったのだ。
チキンライスという歌に、親孝行って何?って考えようとすることがもう親孝行なのかもしれない、という歌詞がある。
確かにこの歌詞の意味は分かるところはあるが、私にとっての親孝行といえば、居酒屋で見たあの娘だった。
あの娘がやっていたことは、たとえお会計を母親が払ったとしても、私にとっては紛れもなく親孝行だった。

そんな親子とも別れて、店を後にした父親と私は、明日の昼ごはんにそばを食べに行くと約束した。
以前父親が知り合いと行って、天ぷらが美味しい蕎麦屋だという。
それは楽しみやな、と返しながら、明日の蕎麦は私がごちそうしなきゃな、と、ふと思った。

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