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人間の形成要因〜誘導灯の回しがいつもより2.8倍速いな〜

誰もが朝目覚めた時に自分とは違う誰かになっていまいか、と思って生きてるわけではない。

この場合私は例外である。
雨の日も、風の日も、もし自分が違う誰かとして生きていたらと、1日を36時間にするように叶わぬ希望を抱いていることに気づくことが多々ある。

しかし本当に自分ではない何者かになることを望んで生きていることが正しいのだろうか。
言うまでもないが、誰かに憧れることは間違っていることではないと私は思う。
明確な目標を抱くことは、ゴールテープを切るまでの道のりを形作っていくような、あくまで有益なものだと捉え考えている。

しかし、「生き方」という点に着目した場合は話が別だ。
生き方、なと偉そうな言葉を叩いているが、人は自分一人では生きていくことができない。
形成されることができない、といった方が正しいだろう。
ここではその人の内面的な意識、思考、観点、捉え方を指している。
そういった人の潜在的な部分の形成においては、その人物の外的要因として最も大きな「自分とは違う誰か」が強く、確固たる論理的な理由を備えて関与していると私は考える。

小説の感想を求められた時、近くに新しくできた猫カフェの雰囲気を求められた時、引っ越すならキッチンがIHかガスのどちらがいいかと尋ねられた時、(Netflixに加入した方がいいかと聞かれた時、と記載しようと思ったが、どうでもいいが過ぎると思いとどまった)人は皆「自分の考え」としてそれらを相手に投げ返す。
良し悪しのみを答える者もいれば、具体的かつ明確化された意見を、あくまで自分の観点からと形付けて話す者もいる。
ただ、その意見や観点とは、これまでその人が関わり影響を与え合ってきた「自分とは違う誰か」たちの存在が、いわゆる反射的かつ無意識的にそう答えさせているのではないかと考えざるを得ないのだ。

人は学ぶ。
意識的にも無意識的にも、物事の善悪をはじめ、それがもたらす影響や反応、そこから移り変わる次のケースまで、人は自分の力で学んでいく。
大人になった今、学びや育みといった我々の生物学的な機能は意識せずとも働き、場合によっては停止させ、意図して学ぼうという姿勢は子供の頃と比較して大分少なくなっているのではないか。

しかしだ、人間の感受性は年齢を問うことなく、買いたての日記のように目新しいページが次々と目紛しく埋め尽くされていく。
それを意識していないだけなのだ。
最近やけに父親からの電話の口調が弾んでいるな、普段訪れる喫茶店の常連が妙に浮かれて話しているな、交通整備をしているお兄さんの誘導灯の回しがいつもより2.8倍速いな、など、振り返り思い返していくと、ひまわりの種が芽を生やし花を開くように、自分の中にも何か新しい学びや育みのようなものが生まれていくことに気づくことができるのではないだろうか。

今の自分を形づくり、人として形成しているものはその人自身という考えは避けては通れないが、自分の周りにいる「自分とは違う誰か」たちの影響も、少なからず多からず今の自分たちの潜在的自分を作り上げていっているのだ。

毎度結びが想定とは斜め45度ずれる。

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