本当に知ってほしい自分の価値観とは?

「無名のド素人が小説を5000冊売る」プロジェクトを開始してから、今日でちょうど2週間が過ぎました。たった2週間なのに、ずいぶん長い時間が流れたような気がしています。意外な方から協力のオファーを頂いたり、無理かなと思っていた方が快諾してくださったり、これまでの自分の視野の半径が広がったようでもあり、本当に感謝しています。

「寿司ロールで乾杯!」が本になるまで頑張ります!

なかでも、私にいつも的確なアドバイスをくださる方がいて、じつは先日その方から鋭い質問を受けました。

カワカミさんが他人に本当に知ってほしい価値観とは何ですか?

どうしてこのプロジェクトは小説でないといけないのか? 小説以外の方法でも私が他人に伝えたいことはやれるのではないのか? 

この質問を投げかけていただいた時、私は自分が今までどうして小説を書くことに魅せられてきたのか、その理由を再確認できました。

確かに私は小説を書くことへの想いが強すぎて、今回のプロジェクトを立ち上げるのに、なぜ小説を選んだのかのそもそも論について説明するのを怠っていたように思います。なので今更ながらですが、私が小説を書くことを選んだ理由をお話したいと思います。

1 私には生涯をかけて追及したいテーマがあるから。

2 そのテーマは文学、あるいは小説という手段を通して最も表現できると思うから。

以上です。

生涯をかけて追及したいテーマは、外国人と日本人のふれあいです。私はこのテーマを生涯かけて追及したいと思います。それは小説を通して最も表現できると思うからです。

私はこれまで小説をたくさん書いてきましたが、どの作品にもこの一貫したテーマがあって、私のストーリーには多くの肌の色や国籍や民族や宗教の異なる人々が登場しています。

外国人と日本人のふれあいがテーマと言うと、国際交流会でも開いたらいいじゃないか、とおっしゃる方もいますが、もちろん私は子供の頃から数々の国際交流会に参加してきました。そして交流会の域を飛び出して、自分自身が海外に行ってみようと思い立ち、ニューヨークの大学へと進みました。人種のるつぼと言われるニューヨークは、実際に暮らしてみると、人種のるつぼという言葉ではとても表現できないほど、多くの人種や民族、性のあり方や、異なる言語が飛び交う街で、私はその街で社会学を学びました。

アメリカは多様性の国ですが、同時に人間同士の対立の国でもあり、本場アメリカで学ぶ社会学は刺激的ではありましたが、社会学は私に心からの満足を与えてはくれませんでした。学術書や文献がどんなに人種や性や民族や宗教の異なる人間について分析し、答えを出していても、私の中ではいつも何かモヤモヤとしたものが心に引っ掛かっていました。それで、ある時ふと、こんなふうに思ったのです。

真実というものは、行間にあるのではないか?

どんなに多くの文献や学術書が雄弁に社会を語っていても、ページに載っていない部分にこそ、人間の現実があるのではないか。もっと拡げれば、テレビで流されるニュースなども、じつはそこに立ち表れてこない部分にこそ、人間の本当の姿があるのではないだろうか。そう思ったのです。

私がアメリカにいた時期が、世界の変動期であったことも影響しているかもしれません。911をアメリカで体験し、アフガン空爆やイラク戦争の開戦、世界がめまぐるしく悪い方向へ流れていくのを体験しながら、私はますます書きたいという気持ちを深めていきました。

私には人種や宗教の異なる友達がたくさんいるのに、どうしてこの国は彼らの出身地域と戦争をしているのだろう? この国は人種差別の国なのに、どうして私自身や私の周りには、肌の色の異なるカップルが多くいるのだろう?

こんな至極単純な疑問が私の中に渦巻いて、どうやったらそれを言葉にできるか悩んでいました。差別や戦争という大きな領域と、友達や恋人という身近な領域はあまりにも矛盾していて、これらが同時に存在することが当たり前であるけれども、不思議でなりませんでした。こんなリアルを社会学の文献が描けるわけがない。でも小説ならできるかもしれないと思いました。

ジャーナリストのように公平な視点を意識しながら書くのではなく、私と私が出会った人々をモチーフにしながら、自分の主観を大切にしながら書きたい。この変動を続ける広い世界で、あえて「私」という小さな視点で切り取ることで、かえって広がってくる世界というものがあるのではないか。広い世界を大きく捉えるのではなく、あえて小さく切り取ることで世界が広がる。逆説的だけれど、小さな個人の真実を(個人が勝手にこれが真実だと思うことを)描くことで、私がずっとモヤモヤしていた行間の狭間に辿りつけるような気がしました。

しかしここからが長い道のりでした。あまりにも私小説的だと、かえって読者を惹きつけません。海外生活をテーマにしたエッセイは世の中に溢れていて、エッセイなのか私小説なのか境界線があいまいという私小説も多く存在しています。なので、私の中でモチーフを一度分解して、再び登場人物を作り直していくという作業を繰り返しました。すると、私が実際の世界で出会った人々は、まったく違う架空の人々になり、自分の中で親近感が薄れたなと思いきや、読んでみるとかえって人間としてのリアリティが増す、という逆転現象が起きていました。

さらには舞台設定も変えることを決めました。私の原風景はいつもアメリカで、小説の舞台もいつもアメリカでした。このアメリカという設定がかえって小説世界を狭めているのではないかと思い至ったのは、じつは昨年です。そうです。つい最近まで、私は自分の小説=アメリカ、という図式に強くこだわっていたことに気づいたのです。なので、この設定そのものをやめることで、小説がもっと伸び伸びしたものになるのかもと、考えるようになりました。

多様性に溢れる世界はなにもアメリカだけではなく、今すでに各国で、そしてこれからますます、世界中がそうなるでしょう。日本も移民を受け入れようと検討する案が国会で話し合われていますし、すでに地域によっては小学校の生徒の半分が外国籍という学校もあります。なので地域設定をもっと自由に広げて、あるいは架空の国にしてもいい。その方が読者を楽しませることができるのかもと考えるようになりました。

なので舞台を近未来のニッポンに設定しました。近未来では多くの肌の色や民族・宗教の異なる人々が、ニッポンで暮らしています。

自分の中でのこだわりや思い込みを捨た方が小説は自由になる。自由になることで、より追求したいテーマを表現できるのではないかと思いました。もちろん小説は「イズム」では作れないので、筆者の主義主張を訴えるための手段ではありません。むしろ読者に色々想像したり考えたりして、楽しんでもらうためのものです。

文体も変えました。これまでの純文学風の静的な感じから、軽快なエンタメにすることで、長いページ数でもストーリーを追いながら気軽に読み進められるようにしました。逆説的ですが、色々と変えていくことで、自分の追及したいテーマがより深まった気がしています。

この小説出版プロジェクトの詳細は以下になります。ご興味のある方はご協力お願いいたします。

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