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桜の季節、誰かが誰かを待っている。

noteをふいに訪れていると、誰かが

誰かのためだけを想っている言葉に

であうことがある。

ふだんは、わたしはわたしのことしか

考えていないようなにんげんなので。

宛先がいつも誰かであるひとに会うと、

どうしようもないぐらい、恥ずかしく

なってしまう。

じぶんの心を整えるために書いてきたので

たぶんわたしの言葉はいつも宛先はじぶん

だったような気がする。

だから、いっそもうじぶんのことは置いておき

たいと思うことがある。

「わたし」や「じぶん」から遠く離れたところに

いたくなることもある。

そういう時にもういちど読みたいのが、

わたしの好きな写真家、畠山直哉さんの言葉。



いっそ「記録」は過去ではなく、未来に属していると
考えたらどうだろう

畠山直哉さんの『話す写真』より。


という言葉に続いて

そう考えなければシャッターを切る指先に、
いつも希望が込められてしまうことの理由が
わからない。

と、綴られていた。 

この希望という言葉の宛先はきっと

誰かであるはずだ。

ご自分も含まれているだろうけれど、

きっとそのじぶんは微量じゃないだろうか。

そしてこの畠山さんの言葉を「折々のことば」で

紹介されていた鷲田清一さんも、こう綴られていた。

写真だけではなくて、いろいろなひとたちの

仕種やふるまいの中にも、


きっと密やかな祈りが込められている。

折々のことば
2015年・5月20日


と、閉じられていた。

読み終えたとき、ふいに腑に落ちた。

すとんと心地よくどこまでも下降してゆく

感じに包まれた。

写真のシャッターを押す指にこめられた

希望を鑑賞する鷲田清一さんの言葉のなか

にも、ひとしずくの祈りのようなものが

込められていて。

日常のあらゆる場所に祈りのはじまりの種が

こぼれおちているものなのかもしれないと

そう思った。

いつだったかデューラーの絵を観ていた。

ドイツの南に位置するニュルンベルクの

街をカメラの視線のままに見下ろしていると

そこに中世が息づいている気がしてくる。

ぼんやりとみていたら虚を突かれたように

出会った「祈りをささげる手」。

これは、「聖母の戴冠」という今は消失して

しまった作品の一部を再現したものだと

番組では解説されていた。

ひとりの人の手。

祈りをささげる時の手だけがクローズアップ

されて描写されている。

手の甲の血管や爪、袖口の折り返し。

右手の小指から下にのびるあたり、左手とは

触れ合っていなくて、隙間がある。

そして右手の小指は少し曲がって、表情に

みちた祈る指のかたち。

顔の表情があるわけでもないのに、その

両の手から誰かの声がこぼれてくるような

一枚だった。

ありとあらゆる想いが重ねたてのひらの

その形のなかに包み込まれていて。

その日見た、「祈りをささげる手」

わたしの中に染み入るように響いてきた。

祈りの形が、こんなにも美しいものだと

教えてくれた一枚に出会えた。

この手を見ていると、じぶんの心のこと

ばかりに気にかけていたことに

気づかされる。

祈りの手は、いつもじぶんよりも誰かのために

あるものかもしれないと思うから。



指とゆび 胸のずっと奥で ふれあうせつな
葉桜の らせんの形 祈りのかたち


いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊