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【小説】 透明の家 《第四話 前編》


【802ーB号室:氷川聡】

 


 子供の頃、通信簿が苦手だった。

 テストでは常に学年一位だったし、実技が必要となる科目でも必ず上位には入っていた。色々なコンクールにも入賞し、表彰されることも度々あった。学科評価の数字はいつも最高ランクのものが付いていた。しかし、生活態度のコメント欄にはあまりいい思い出はない。


「氷川くんは、頭で考えてしまうのかしらね」


 当時担任だった女性の先生に、そう言われた。人間が思考する部分が頭以外にあるのかと、その当時は本気で考えてしまった。


 仲良くしてくれる友達はいたが、少なかった。
表情が乏しかったのも原因の一つだったのだろうが、私は友人とふざけあったり、冗談を言い合うことができなかったのだ。
 わざと汚い言葉を使ったり、危険なことをして遊ぶということに対して、面白さを感じられなかった。そんな私のノリの悪さに、血気盛んな年頃の少年たちはどんどんと離れていった。それはクラスの女子も同じだった。

 人間関係以外は模範的な生徒だったので、先生からは気に入られていた。気に入られていたというよりは、気にされていたというべきかもしれない。いずれにせよ、勉強することが好きだった私は、先生方の協力とクラス内での孤立により、それまで以上に学ぶということにのめり込んでいった。
 成績はどんどん伸び続け、気づけば全国でも指折りの進学校に入れるほどになっていた。

 高校はとても面白かった。
 同じくらいの学力の生徒が集まっているからか、授業の進み方がまるで違う。サクサクと先に進めるし、分からないところはみんなで教え合いながら問題を解いた。男子校だったため誰も女子の目を気にしていなかったし、必要以上に格好つけて騒ぐような生徒もいなかった。
 自分も含め個性が強い生徒も沢山いたが、それをいちいち気にするような人間はその学校にはいなかった。これは私にとって本当に幸福なことだった。

 そしてもう一つ幸いなことがあった。
それは、生涯親友と呼べる友人に出会えたことだ。

 その生徒の名前は真田といった。

 もちろん下の名前も知っているが、十数年経った今でも下の名前で呼んだ事はない。不仲だと勘違いする人もいるだろうが、私たちにはそんな事は関係ないくらいの絆がある。

 真田はクラスの学級委員長だった。成績も優秀でスポーツもできた。さらに男の私から見ても整っている顔をしていた。
 彼とは隣の席になったのをきっかけに、よく話すようになった。人との距離の詰めかたが分からなかった私にも気さくに話しかけてくれて、彼のおかげで私の交友関係もスムーズに広げることができた。

 彼とは同じ大学、学部に進学した。
互いに切磋琢磨しあい、若者らしい遊びもした。明るく、人格者である彼に女性が惹かれないわけもなく、彼はいつも熱っぽい視線に囲まれていた。そして中には、彼と常に一緒にいた私に対してそれを向ける女性もいた。

 そんな彼から、久しぶりに連絡が来た。
社会人なっても交流は続けていたが、最近はなかなか都合が合わなくなっていた。私は役職について仕事に割く時間がますます増え、彼は結婚し子供も生まれている。私たちは全く異なる生活を送っている。それでも顔を合わせれば学生の頃に戻ったように、気軽に笑い合うことができるのだった。


『今度大学の同窓会があるってさ!一緒に行こう!』


 彼の表情が容易に想像できるような文体だった。その反面、私の心に暗雲が立ち込める。

 大学での勉強は楽しかった。学生生活も楽しかったし、仲の良かった旧友たちにも会ってみたいという気持ちもある。


 しかし、私の頭には「あの事」がどうしてもちらついて仕方がなかった。


 大学生活の後半、私は女性陣から白い目で見られながら過ごした。根も葉もない噂を立てられたからだ。


 私は女性を傷物にして、捨てた。
簡単に言えば、そんな内容だった。


 当時付き合っていた人はいなかったし、そんな噂が立つようなことにも身に覚えはなかった。

「そいつ、絶対に氷川のこと何にも分かってないだろ!」

 真田は噂を流している見えない人物に対して、烈火の如く激怒してくれた。日頃穏やかで人格者な彼が、自分のためにこんなに怒ってくれている。その事実が俺は心の底から嬉しかった。

 他の友人たちも噂の内容が全くのデタラメであるという事は理解してくれていたし、周囲の女性にも必死に説明してくれていた。しかし、このレッテルは卒業まで剥がされる事はなかった。

 誰から発生し、なんのためにそんな噂が流されたのか。今も依然として謎のままである。
 ただ、あのときに向けられた女性たちの冷ややかな視線や、潜めるような笑い声は今でも時折夢に出てくるのだ。そんな時はいつも寝汗をぐっしょりとかき、飛び起きるようにして目が覚める。

 私は、指で画面をタップしながら『ごめん』とひとことだけ送った。
するとすぐに次のメッセージが届いた。


『みんなお前に会いたいって言ってるよ。俺もだけどな!』


 馴染みの顔が思い出される。

 縋り付かれて夜通し勉強を教えたお調子者な友人、バイト代を貯めて買った新車に乗せてくれた努力家な友人、恋の相談などされたことのない私に熱心に好きな人への想いを語っていた情熱的な友人。かけがえの無い思い出が瞬時に脳裏を駆け巡る。

 いろいろな場で目覚しく活躍している旧友たちが一堂に会する機会は、そう多くは無い。せっかくのチャンスをみすみす見逃したくはないという考えもあった。しかし。

 なんて返したらいいのだろうかと画面をぼーっと見つめていると、ポンッと着信音が鳴った。

画面に目を落とす。旧友たちと撮った学生時代の自分の写真が、そこには映し出されていた。


『ゆっくり考えてみてよ。待ってるから』

 彼の優しさを感じた。こういう配慮が私に少しでも身についていたら、あんな噂は流されなかったかもしれない。そんなことを考えながら、写真に写ったひとりひとりの顔を拡大してじっくりと眺める。


『みんなお前に会いたいって』

 その言葉が嘘ではないということを私は知っている。真田はそういう人間だし、そう信じられるくらい私の学生時代の記憶は特別なものだった。私の中にある恐怖心に、暖かな思い出がゆっくりと覆いかぶさっていく。

 私は何度も指を彷徨わせながら、数十分かけてようやく返事を送った。私は期待と不安がぐるぐると渦巻く頭を枕に預け、まだ先である同窓会に思いを馳せながら眠りについた。





「こちらをお持ちください」

 小さな白い座布団の上に置かれた指輪が差し出される。
指先でつまみ上げ、目の高さまで持っていくと、表面には流線状の模様が刻まれており、中央に小さな宝石がついていた。
 それはとてもシンブルな結婚指輪だった。

 言われた通りに左薬指にその指輪を嵌めてみる。
いつもとは違う、締め付けられるような感覚に違和感を覚えた。

「きつくはございませんか?」

「大丈夫です」

 自分の薬指で、指輪が輝いている。不思議な感覚だった。

「こちらはレンタル品となっております。紛失した場合はお声がけください」

「失くさないよう、気をつけます」


 腕にはめた時計をみる。針は出発時間を指していた。
海さんは静かに微笑みを湛えながら、入り口まで見送りをしてくれた。



「どうぞ楽しんでいらしてくださいね」



 そう言って頭を下げて見送られると、まるで自分が立場ある人間になったかのように錯覚する。私は同じくらいの角度でお辞儀をして、マンションを後にした。 

 彼女は初めて対面した時から不思議な雰囲気の漂う人だった。

今まで会ったどの女性よりも静かで、落ち着いていて、そして機械的だった。必要なことだけを聞き、必要なことだけを答える。場を和ませるための会話も穏やかなもので、突拍子のない事は言わない。

 そして何より、私と同じくらい表情の変化が乏しかった。
私と違うのは常に常に穏やかな笑顔をたたえているところだ。こちらがどんなに世間ずれしたことを言ったとしても、それを崩さない。安心して話せる雰囲気を作り出すのが上手い人だった。


 会場までの道すがら、私は卒業後のことを思い返してみた。

 大学を卒業した私は製薬会社の研究職として働きだした。
すると突然、女性に好意を寄せられることが多くなった。ミステリアスで知的だと持て囃され、事あるごとに声をかけられたり食事に誘われたりした。その現象に、私はひどく困惑した。

 大学時代はあんなに白い目を向けられていたのに、働き出しただけでどうしてこうも対応が違うのか。

 面白みのなさは『ミステリアス』に、ガリ勉なところは『知的』に変換されたそのメカニズムが、私にはわからなかった。
 そしてその『分からない』ものは私の中で恐怖となり、心のさらに奥深くに根を張ってしまったのだ。


「結婚すればいいんだよ」


と、真田に相談した時に言われた。


「結婚したら女の人も寄ってこないでしょ」


 軽やかに笑う彼の笑顔は眩しかった。
 そもそも結婚というものは男女の人間関係の先にあるものだと思っていたので、女性に恐怖を抱いていた私にとっては、目から鱗がこぼれるほどの斬新なアドバイスのように感じた。しかし、そこまでいくための方法がわからない。


 結婚というもの本質を知らなければ、そこにたどり着けない。
そう考えた私は、真田や会社の既婚者に『結婚』について尋ねてまわった。

 「いいよ~、結婚!幸せ!」という人もいれば、「独身時代の方が楽しかった」という人もいた。学生時代からの恋人と結婚した人、結婚相談所で紹介されて結婚した人、お見合いで結婚した人。出会い方も人それぞれだった。

 丁度よく、つい先日結婚したという方が社内にいたので、その人にも話を聞いた。私はこの人がいなかったら一生結婚することはなかったと思う。
なぜならば、その人こそがこのMaison Clairを紹介してくれた人物だったからだ。

 話を聞いた私は、すぐに入居申請をした。通常よりも高い値段に躊躇することがなかったのは、目的達成のための最短ルートだと思えたからだ。

 入居後はコンシェルジュである深海さんがすぐに手配をしてくれて、あれよあれよという間に結婚が決まっていった。相手は仕事熱心な女性で、落ち着いた感じの女性だった。品のある華やかな雰囲気の人で、どうしてこの人がここにいるのかと疑問に思うくらいの女性だった。

 今回、こうして同窓会に来れたのは、真田の言葉に背中を押されたからだけではない。

左の薬指に付けたこの指輪。

この何でもない小さな輪っかによって、女性に必要以上に近づかれないようにすることができること。そして無駄な警戒心を与えないこと。それができることが安心材料となったことも大きな要因だった。


「よっ!久しぶり!」


 電車から降り会場に向かう途中、背後から肩を叩かれた。振り向くと、ジャケットを羽織った見慣れた男が片手を上げて立っていた。真田だった。


「あ!いいね!ピカピカの指輪!」

 挨拶を返す前に、左手を掴まれ目線の高さまで持っていかれた。ニコニコしながら指輪をしばらく眺めると、

「すごいよなぁ。出会ってすぐに結婚だなんて」

 感慨深そうにため息を吐いていた。


「運命の人だったんだな」、とか「氷川に女っ気がなかったのは、きっと彼女を待ってたからだったんだよ」とか、一人で楽しげに盛り上がっている。彼は思いのほかロマンチストらしい。まさかこの指輪がレンタルであるとは微塵も疑っていないのだろう。

 真田は会場に着くまで、旧友たちのことを一人一人思い起こしながら笑って話をしてくれた。おかげで薄ぼんやりしだした大学時代の記憶も、皆に会うまでに鮮明に思い起こすことができた。


「お!ここだ!」


 歩いていた足がピタリと止まる。
 顔を上げてみると、目の前には煌々と明かりを灯しているグランドホテルがそびえ立っていた。たじろぐ素振りも見せずに、意気揚々と中に入っていく彼に私もついていく。

 煌びやかなシャンデリアの下をくぐり抜け、絨毯で覆われた階段を上り、指定されたホールへと向かう。廊下の先に受付が見えた。もうすでにたくさんの人が集まっているようで、その横の開かれた扉からは賑やかな声が漏れ出していた。

 受付をしている同級生に挨拶をする。誰もが笑って再会を喜んでくれた。男女2名ずつで受付をしていたが、女性たちから邪険に扱われることも、白い目で見られることもなかった。


「おわっ!氷川!久しぶり!」

「氷川っ!元気だった?!」

「え?氷川?氷川じゃん!」


 会場に入った途端になじみのある顔が一斉に集まってきた。皆一様に歳はとっていたけれども、学生時代の面影は全くといっていいほど消えていない。まるで突然、大学時代にタイムスリップしたかのようだった。


「おーい!俺もいるんだけど?」

 真田がわざとらしくふてくされた調子でおちゃらけて見せると、

「いや、真田より氷川の方がレアだし」

「氷川……、立派になって……」

「なあ、氷川、今度一緒にキャンプ行こうぜ!」

と、コントのような一連のやりとりをするところも学生の頃と変わらない風景だった。


 私たちが会場に入った後、すぐに同窓会開始の音頭が取られ、乾杯の声が高らかにホールに響いた。友人たちに連れられ、一斉にビュッフェコーナーに向かう。

 「これも食え」「あれも食え」とぽんぽんと皿に料理を盛られ、そのままテーブルに引っ張り戻された。真田や友人たちは関を切ったかのように今の近況や昔話について語り出し、皿に盛ったご馳走に手をつける間も無く時間が過ぎていった。


「うおお!氷川!結婚したのか!」

 友人の一人が大声でそう叫ぶと、周囲にいた同級生たちの視線がバッとこちらに集中した。

 それほど仲の良かったわけでもない同級生たちにも、祝いの言葉をかけられる。中には女性も混ざっていた。声をかけられた時、微かに肩が揺れてしまった。

 そのわずかな動きすら真田には隠せなかったらしく、さりげなく間に入ってフォローをしてくれた。女性陣も昔のように甲高い声で跳ね回るのではなく、落ち着いた大人の話し方になっている。

 白い目で見つめられることも、ヒソヒソと噂話をされることもない。それもそうだ。学生だったのは、もう十年以上も前なのだ。誰だって成熟し落ち着くだろう。


 あの時から前に進めていないのは、私だけだったのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎる。体の中にあった重い石が少しずつ風化して小さくなっていくのがわかった。



 同窓会は終始和やかなまま進んでいった。私は少しだけ外の空気を吸いに会場のベランダへ出た。笑い声や驚嘆の声がそこかしこから聞こえる。

 煌びやかな会場、ほろ酔い気分の同級生、笑顔で会話に花を咲かせている同級生たち、次々に出てくる珍しい料理。酒を飲んだわけでもない。ましてや、こういう場が好きなわけでもない。
 なのにどうしてか、私の心はふわふわと浮いているようだった。

 夜風が頬を撫でる。少々肌寒いくらいのそれは、場の雰囲気に酔っている私の頭からじわりじわりと熱を奪っていった。


「氷川くん」


 女性の声だった。背後からかけられたその声に聞き覚えはなかった。しかし、礼儀として振り向かないわけにもいかない。


「久しぶり。元気だった?」


 顔を見ても、やはりピンとこない。卒業してから時間も立っているし、女性は化粧や着るもので印象が変わる。ずっと女性を避けて生きてきた私に判別がつくわけもない。


「……忘れちゃった?」

 相手が寂しげな表情を見せた。私がとっさに「申し訳ありません」と返すと、「他人行儀なのは相変わらずなのね」と返された。

「……結婚、したんだね」

 左手の薬指を指差す。偽物の指輪が室内の照明を反射して、きらりと光った。

「あ~あ。あの時ちゃんと告白してればなぁ」


 彼女は夜空に目線を向けながら言った。着飾り、派手目な化粧をしている彼女は、ドラマ顔負けの台詞を吐いている。

 私はこの人と親しくした記憶はなかった。というよりも、女性と特別親しくした記憶がなかった。なのにどうして私に向けてそんなことを言うのか、まったくと言っていいほど意味がわからない。



「……私なの」

 一言も喋らない私を無視して、彼女は続ける。



「あの噂流したの、私なの」




 ざあっと夜風が庭の木々を揺らす。カラカラと音を立てながら木葉がベランダに舞い降りてきた。二人とも微動だにせず、ただ目線を合わせ続けた。



「……」



 指先すら動かせない。


 こんなに寒いのに、背中を汗が伝っていくのがわかった。



「氷川くん、いつも真田くんと一緒にいたでしょう?」


 喉の粘膜同士が貼りつき、焼け付いたように痛い。


 上手く唾が飲み込めない私を気にも止めずに、彼女は微笑みながら会話を続ける。


「真田くんもすごい人気だったけど、氷川くんも人気だったんだよ?気付いてなかったでしょう?」


 じんわりと額に滲み出してきた汗が風に晒され、額が冷える。


「だからね?悪い虫がつかないようにするには、どうすればいいかなって考えて……」


 ふさふさとした睫毛を恥じらう少女のように伏せている。



「そしたらみんな信じちゃって!」



 彼女は笑っていた。



 そこには何の後ろめたさも、罪の意識も感じられない。まるで晴々とした太陽の下にでもいるような、ただただ明るい笑顔だった。
 室内の明かりをキラキラと反射している彼女の瞳は、作り物のガラス玉のようだ。



 食道を酸っぱい胃液が駆け上ってくる。喉が内側から締め上げられているような感覚に、私はとっさにベランダから飛び出していった。

 扉を乱暴に押し開けて個室に駆け込み、便器を抱える。折角のご馳走は、無惨にもホテルのトイレに流されていった。

 もう何も出なくなるまでそれを続けていた私は、清掃の行き届いたトイレの壁にもたれながら、ただぼんやりと水の流れる音を聞いていた。

 ここに向かっていく途中に真田の呼び声が聞こえた気がする。
 だけど、会場に戻る勇気は私にはなかった。私は誰にも別れを告げることなく、旧友たちとの再会の場所を後にした。

(続)




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