【小説】 透明の家 《第四話 後編》
足元がおぼつかない。
誰かの足と差し替えられたのかと思うほど、上手く歩くことができない。
胃が焼けるようにあつい。頭はぐるぐるとしているし、焦点も定まらない。いつもよりも明るく見える街頭の光がチクチクと視神経を刺激して、自分の醜態を嘲笑っているかのように思えた。
自分が酒に耐性がないということは知っていた。だけど正気のままではいたくなかった。だから会場から離れた居酒屋にふらりと入り、酒を煽った。
どの種類の酒が度数が高いかは分からなかったので、ただひたすら飲酒量を増やすことに専念した。一通りの種類を飲んだ。最初は笑顔で酒を持ってきてくれていた店員の表情が、時間と共に硬直していくのが印象的だった。
首元のボタンを一つ外す。熱の溜まっていた首元が外気にさらされ、どうにか意識を保つことができる。こんなにだらしのない格好をしたのは、生まれて初めてかもしれない。顔見知りに見られたら面倒なことになりそうだ。私はできるだけ暗い道を選び、夜の闇に紛れるようにして家に向かった。
幸いにもエントランスに深海さんの姿はなく、誰にも遭遇することなく自分の部屋の前まで行くことができた。しかし、共同玄関に手をかけて、はたと気付いた。鍵がない。
ジャケットの胸ポケットに手を入れる。指先に触れるはずの鍵の感触がなかった。他のポケットも探してみたが、やはり見つからない。
普段ならエントランスのカウンターに合鍵を申請すればすぐに解決するものを、酒の入った私の霞みがかった頭にはそれが思い浮かばなかった。ただただ、己の不能さに打ちひしがれていた。
ドアを背もたれにして、その場に座り込む。外からは見えないようになっているこの場所からは夜空は見えない。天井に埋め込まれた優しい色合いの照明に、小さな羽虫が求愛をするかの様に飛び交っている。その様子をただぼんやりと眺めていた。
「……何故」
言葉は自然と口から零れた。何故、俺だったのか。何故、周囲の女性は彼女の言葉を信じたのか。何故、彼女は好意を寄せた相手を陥れるような行動を取ったのか。何故。何故。
ギュッと足を引き寄せ、顔を埋める。行先のない怒りや悲しみが私の拳を硬くさせる。夜風が体から熱を奪っていくたびに、私は体を震わせた。その反面、沈殿したへどろのような感情が、私の脳髄に熱を籠らせる。
「……氷川さん?」
どのくらいそうしていたのだろうか。
気がつけば、私はその体勢のまま眠ってしまっていたらしい。
声をかけられ、私は顔をあげた。三船さんだった。
「……お疲れ様です」
とりあえず返事をしなくてはと思い、いつも通りの挨拶をした。彼女は少しだけ眉をひそめて、「お疲れ様です」と返してくれた。
「あの、どうしたんですか?こんなところで……」
ああ、私がここにいたら彼女が部屋に入れないか。すぐに膝を立てようとしたが、重心がぐらついて立ち上がれなかった。今にも倒れそうになっている私の腕を彼女が支え、「無理しないで」と再び床に座らせた。
休日だというのにスーツを着ている。どうやら仕事帰りだったようだ。そういえば以前、新しいプロジェクトのリーダーになったのだと話していた。こんな状態の頭でも彼女の勤勉さに感心できるくらいの余地はあった。
「氷川さん、もしかして酔ってます?」
「……今日、同窓会で」
「あ、そうだったんですね!でも氷川さんってお酒……」
「飲めません」
「じゃあ、同級生たちに無理やり?」
「……いえ。一人で、自分で飲みました」
状況が想像できないというような表情で私を見つめる。その視線に耐えられなくなり、私は目線を逸らした。早く退かなくてはと思い、再び足に力を入れようとした時、
「ちょっと、お話ししませんか?」
と、三船さんが予想外の提案をしてきた。
私の返答を待たずに彼女が隣に腰掛ける。
彼女の体が冷えてしまうのではないかと思い、一度は断ろうとした。
しかし、手に下げていたビニール袋から取り出した肉まんを手渡され、それをまんまと受け取ってしまった。温かく湿った湯気が、顔をふわりと撫でる。
「……同窓会だったんです、今日」
手にした肉まんを見つめながら話を始めた。
「はい」
「昔の友人たちにも会えて」
「あら、楽しそう!」
「料理も美味しくて」
「いいですねえ!」
「そしたら、昔好きだったと女性に告白されました」
「えっ……」
三船さんの相槌が止まった。
「私は学生の頃、根も葉もない噂を流され女性陣に無視されていたことがあるんですが、その噂を流したのは彼女でした」
「……は?」
「悪い虫がつかないように、と彼女は言っていました」
思い起こすだけで胃が収縮する。
私は口元を手で押さえた。
「彼女、笑っていたんです。屈託もなく、明るく」
ぎりっと爪が顔に食い込む。
「……私には彼女の気持ちがわかりません」
くぐもった声でそう呟き、ギュッと体に引き寄せた両足に顔を埋める。まるで子供がすねている時の様な姿勢だ。この年になってこんな体勢を取るとは思わなかった。
「……気持ち悪っ」
三船さんが吐き捨てる様に言った。
「……すみません」
「氷川さんのことじゃありません。その女の人のことです」
珍しく地を這うような低い冷たい声だった。
「は?好きだから、他の人にとられたくないから、悪い噂を流して評判を落とす?なにそれ?正気?自分勝手すぎる。嫌がらせじゃない、それ。相手がどう思うかなんて考えたこともないんでしょうね。なのに自分は愛して欲しいなんて、都合が良すぎる。拗らせた独占欲、気色悪い。それを自覚してないのもどうかしてる。気、狂ってません?その人。うわあ、気持ち悪い!」
見たことのない三船さんだった。
こんなに人を蔑んでいる彼女は初めて見た。
いつもだったら夜中にこんなに大声を出すような人ではない。
しかし彼女は本当に腹立たしいといった様子で心のままに捲し立て、会ったこともない相手に対して罵詈雑言を吐いている。もしかして彼女も酔っているのかと思ったが、そういうわけでもないようだ。
息継ぎもなく一気に話していた彼女は、軽く息を整えて「……すみません」と小さく恥じ入る様な声で頭を下げた。
「い、いえ……。その、怒ってくださってありがとうございます」
呆気に取られてはいたが、本心からそう思った。自分のためにこんなに怒ってくれるのは、真田以外では初めてだった。
「もしかして、女性が苦手になったのって……」
「はい。その経験からですね」
「万死に値しますね、その人」
正面を見据えたまま真顔で肉まんに食らいつく。いつも愛想のいい人だから、余計に凄みが増していた。私も手の中の温かい塊にかぶりついてみた。頬の肉から侵入してきた熱がじんわりと脳を温めていく。
熱が籠るのは先ほどと同じ状況だったが、今度はやんわりと包み込まれている様な、安堵感を含んだ優しい熱だった。
「……女の人でも女の人の気持ちは分からないものですか?」
「あはは!同じ性別だからってだけで理解できたら、世の中平和でしょうね」
男の人もそうでしょう?と聞き返された時、自分がいかに愚問を投げかけていたかを自覚した。
「私も聖人君子じゃないので、理解できないなと思う人はいます。ただ価値観が違うというだけならば距離を取るだけですが、自分勝手な欲で誰かを傷つけているとなると話は別です」
気づけば彼女の肉まんは、あと一口分しか残っていない。もしかして彼女は相当空腹だったのではないだろうか。仕事終わりに食べようと買ってきた肉まんの一つを私に分け与え、彼女は疲労と空腹の中、こんな地べたに座って私の話に付き合ってくれている。そして私のために、親身になって怒ってくれている。
「しかも十年以上、それに苦しめられてきた訳でしょう?なのに悪びれもなく笑って話すって……」
どんな神経してんのよ!と、なにもない空中にシュッシュと拳を突き出した。
「……くっ、ふふ……」
私は自分より素面なはずの彼女の奇行に、思わず声を漏らしてしまった。久しぶりに聞いた自分の笑い声は、聞き慣れないせいか随分と不格好な音に聞こえる。顔を隠したまま肩を揺らしているため、彼女の表情は見えない。
なにも話さないところを見ると、私のこの様子に困惑してるのだろう。
彼女のためにも早く笑いを止めなくては。しかし、込み上げる笑いを止めることがいかに大変なことかということを、私はこの時、初めて思い知らされた。
「……そんなに面白かったですか?」
恐々とした声で彼女が尋ねる。
「すみません。ちょっと、ツボに入ってしまいました……」
「ええ?……どこが?」
「すみません」
顔をあげて見た彼女の顔に、親友の面影が重なった。
努力家で人望があり、他者への気遣いが自然とできる人。そして、誰かのために真剣に怒ることができる人。彼らは性別こそ違えど、同じような素晴らしさを持っている。そして、今日告白してきたあの人も、目の前にいるこの人も同じ性別だ。
「はああ……」
私は手で顔を覆いながら、天を仰いだ。
十数年のあいだ胸の奥に溜まっていた淀が、夜の乾燥した空気の中に吐き出される。膨れた風船の口を開く様に、肺を限界まで収縮させて長く長く息を吐き出す。そして、空っぽになった自分の内側を今夜のひんやりした酸素で胸いっぱいに満たした。
もう二度と濁ったりしない様にと、願いを込めて。
「……三船さん、ありがとうございます」
頭を下げると、彼女は穏やかに微笑みかえしてくれた。
「部屋の鍵、もらいに行きましょうか?」
彼女はすくっと立ち上がり、コートをパンパンと払いながら言った。
「いえ、私一人で行けますから……」
もう大丈夫だろうと思い立ち上がろうとすると、再び視界がぐにゃりと歪んだ。私は酒の威力というものを甘く見ていたらしい。見かねた三船さんが再び私の半身を支える。
「あはは!そんな状態じゃ無理ですよ。こんな時くらい頼ってください。パートナーじゃないですか」
『パートナー』。
恋人でも、友人でも、同僚でも、夫婦でもない。この建物の中でだけで通用する不思議な価値観を含んだ単語。その響きは胸の中で幾重にも反響し、驚くほどすんなりと心に馴染んでいく。
「……ここに来て良かった」
「え?」
口の中で呟いた言葉は、彼女の耳には届かなかったらしい。こんなに胸の奥が熱いのは、きっと酒のせいだろう。私は聞き返してくる彼女に首を振り、片腕を支えられながら、我が家の鍵をもらいにエントランスへ向かった。
(続)
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