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むさしの写真帖

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「写真っていうのはねぇ。いい被写体が来たっ、て思ってからカメラ向けたらもう遅いんですよ。その場の空気に自分が溶け込めば、二、三秒前に来るのがわかるんですよ。その二、三秒のあいだに… もっと読む
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むさしの写真帖

むさしの写真帖

古いデジカメについて書いています。
ただしこれらの記事は2018年前後のものであるので、カメラのほとんどは手許にないのをご承知おきください。

追記: ネタが尽きたので写真、カメラにまつわること。またアラカンおじさんの日常について書いたりします。(2023年霜月朔日)

極楽寺にて

極楽寺にて

あれ?
「なに?」
ええと ……
「なによ?」
実家ってどこだっけ?
「はい?」
んー
「ホントにさ」
うん
「人の話を聞いてないというか、全然覚えてないよね」
そう?
「そう」

——

「ね」
うん
「一度行ってみる?」
どこに?
「実家」
え?
「菓子折りでも持ってさ」
え?
「お嬢さんを僕にください」
え?
「冗談よ」

——

「あ」
なんだよ
「今『ほっ』としたでしょ」

——

蝉し

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北陸にて

北陸にて

承前

「大学卒業して何になるの?」
まだ決めてない
「そっか」

ひとしきり花火を楽しみ、嘘のように静まり返った浜で僕らは三人並んで缶ビールを飲んでいた。
左手には発電所の灯りが煌々と輝いていて、それらが波に反射して煌く様は都会のネオンのようでもあり、星がさんざめく夜空のようでもあった。

彼女はトモミという名前で、スナックを経営しているママさんの娘で、短大を卒業した後で町に戻ってきたということ

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君を呼ぶ

君を呼ぶ

「こういう字なのよ」

彼女はトートバッグから取り出したロディアにボールポイントで書いてくれた。
彼女の書く文字を見たのは初めてだった。
癖のない均整のとれた文字だった。
自分の名前なのに、書き飽きてない事からくる、ほんのりとした緊張が感じられた。

ふむ
「書きにくいし、読みにくい」
そうなのかな
「だから『ひらがな』で書くようにしてるの」

またボールポイントを取り上げる

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極楽寺にて

極楽寺にて

「ね」
うん
「また来る?」
ここ?
「そう。また来たいと思う?」
うん、思うよ

鎌倉は山も海も近い。
自ずと坂道が多いから徒歩だけでは辛いだろうし、古くて狭い込み入った道路がたくさんあるから自動車では生活しにくいだろう。

でも京都などと同じく古都ならではの落ち着きというか、流行りなどには左右されない独特の時間の流れがある。
僕はそういう空気が嫌いではない。

「名古屋にも行ってみたいな」

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鎌倉にて

鎌倉にて

そうか
「はい?」
海近いんだもんな、自転車で行けるよね
「そうね。子供の頃から海は歩いたり自転車で行くものだった」
うん
「車で行っても停めておく所がないし、何ならお財布とかも持たずに行く感じね」
え?
「だいたい浜で売ってるものは高いのよ。だからお昼なんかには一度家に戻ってくる」
なるほどね

僕はヘヴィオンスのジーンズを履いてきたことを後悔し始めていた。
坂が多い上に日差しが強いので、体感す

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北陸にて

北陸にて

承前

郵便受けにあったそれが、彼の結婚式の招待状であることに気付くのに暫く時間がかかった。
相手の名前を見て、さらにそれが誰だか分かるのに数分かかった。

は?

僕は年賀状をひっくり返して友人宅の電話番号を確認した。

「お?もう届いた?」
うん
「出てくれるんだろ?」
出るさ、出るけど、お前相手って…
「あー、あのトモミちゃんだよ」
あれからずっと付き合ってたのか?
「まぁ … そういうこと

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とうこ

とうこ

完璧な物なんて無い。
村上春樹なら「完璧な絶望なんか存在しないようにね」と付け加える所か。

彼女は全く眠れなくなった僕にそう言った。
でも本当は彼女の方こそ、そう言って欲しかったのかも知れない。

彼女はくしゃくしゃに丸めて放り出してあった T シャツを拾い上げて洗濯機に投げ込み、シンクに溜まっていた洗い物を片付け始めた。

僕は何だか空恐ろしい気持ちになって、必死に喋り始めた。
彼女にそう言わ

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五口のコーヒーとシェットランドスゥェーター

五口のコーヒーとシェットランドスゥェーター

コーヒーを飲んでいる彼女を見るのが好きだった。

彼女はデミタスサイズのコーヒーを、ほぼ 5 回に分けて飲む。
時間をかけないので、飲み終えたときに、まだカップが温かい。
最初の 2 口は立て続けに。
飲み込んでから一息ついて 3 口目。
一度ソーサーに戻して、コーヒーの残ったカップの様子を楽しんだ後に 4 口目。
別れを惜しむように、最後の 1 口。

そのシークエンスを思い出すのに、彼女はいつ

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7月7日

7月7日

「もしもし」
もしもし
「はい」

少し声が掠れて聞こえた。
気のせいかもしれない。

ええと
「はい」

僕らはケンカをしていた。
少なくとも僕はそう思っていた。
いつもなら僕が謝っておしまいなのだが ( これは緊急避難ではなく、大方の場合において僕が悪かった )、今回のは謝って終わる話ではなさそうだった。
僕はケンカの切っ掛けを思い出して、この諍いがここまで大事になるという事が理解できないでい

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