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君を呼ぶ

「こういう字なのよ」  

彼女はトートバッグから取り出したロディアにボールポイントで書いてくれた。
彼女の書く文字を見たのは初めてだった。
癖のない均整のとれた文字だった。
自分の名前なのに、書き飽きてない事からくる、ほんのりとした緊張が感じられた。  

ふむ
「書きにくいし、読みにくい」
そうなのかな
「だから『ひらがな』で書くようにしてるの」  

またボールポイントを取り上げると、漢字にルビを振った。
漢字での画数の多さに比べて、ひらがなにするととても画数が少なく、あらためてひらがなの優秀さに思い至った。
ぼくがそう言うと、彼女は(それはあなたの名前も同じだわ)と笑った。  

とうこ
「はい」

彼女の返事は、ほとんどが「はい」だった。

それ以外に返事のしようがないわ  

いつだったか、ぼくがそれを言うと、苦笑しながら彼女はそう答えた。
例外は怒らせた時だ。
その時は分かりやすく返事をしないので、ぼくは素早く善後策を練るだけだ。

恋人同士という間柄になってからも暫くは、彼女の名前に漢字があるのを知らなかった。
どんな字を書くのだろう、と尋ねたのである。

ひらがなを意識して発する音と、漢字を意識して発音するのとでは違った印象になる気がする
「そう?」
うん
「高校の頃ね」
うん
「同じ芸術のクラスに、同じ漢字で違う読みをする名前の子がいて」
うん
「どういうわけだか、わたしの名前まで彼女と同じ読みだと思われてしまったのよ」
うん
「初めのうちは、その都度訂正していたのだけど、週に一度の事だし」
面倒になった?
「そう」

「だから高校の時のクラスメイトの何人かは、未だにわたしの名前を誤解したまま」
卒業アルバムとかには読み仮名までは載らないのか
「載らないわね」
彼女は少し笑う。

「わたしね」
うん
「その子が大嫌いだったのよ」
そうなっちゃうのか
「理由なんかないの。同じ漢字の名前だからという事だけなのよ」
うん
「そのことにある日気がついて」
どうして彼女が嫌いかについて?
「そう」

彼女は椅子に座り直した。
冬の日の午後で、スカイライトからは斜めになった陽光が差し込んでいる。
その桟の形通りに降り注ぐ陽光は、幾筋かの乳白色のビームを作り、その中の一つが彼女の着ているグレイのスェーターの肩口を指していた。
彼女はコーヒーカップに残っていたコーヒーを飲み干して、すいませんと店員に声をかけて、お代わりを頼んだ。
ぼくを見て(あなたは?)と表情で尋ねる。
じゃあ、とぼくもお代わりを頼んだ。

「それで」

彼女は話を戻す。

「途轍もなく自分が嫌になったのよ」
ほう
「どこかで自分はそういうタイプではないと分類していたのね」
タイプ?
「そう」
うん、ごめん、よくわからない
「誰かを嫌いになったりする場合に、外見だとか、当人に関係ない事が理由にはならない」
うん
「そういう人だと思っていたの」
うん
「それで」
それで
「漢字の名前共々、当時の自分は今でも嫌いになってしまったのよ」

そこで言葉を切ると、いい?と言ってバッグからタバコのパッケージを取り出し、ぼくが返事をする前に火を点けた。

とうこ
「はい」
ぼくも先天的な事や、本人がどうしようもない事には眼をつぶるけれど
「うん」
漢字を思い描きながら君を呼ぶと
「はい」
少し興奮する
「それはどういう興奮なの?性的に?」
そう
「少し前から気がついていたけれど」
うん
「あなたは変態だわ」

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