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鎌倉にて

そうか
「はい?」
海近いんだもんな、自転車で行けるよね
「そうね。子供の頃から海は歩いたり自転車で行くものだった」
うん
「車で行っても停めておく所がないし、何ならお財布とかも持たずに行く感じね」
え?
「だいたい浜で売ってるものは高いのよ。だからお昼なんかには一度家に戻ってくる」
なるほどね

僕はヘヴィオンスのジーンズを履いてきたことを後悔し始めていた。
坂が多い上に日差しが強いので、体感する暑さは倍増しているのだろう。
昼食は彼女が知っている店に行った。
七里ヶ浜駅のすぐ近く。
ご夫婦でやっている食堂で、彼女はとんかつ定食を食べ、僕はせっかくだからと刺身定食を食べた。
彼女は「そんなものなのかしらね」と独り言のように呟いた。

「歩くの疲れたでしょ」

いや?

僕は見栄を張る。
お腹が膨れたので、余計に坂道が恨めしく感じる。

「乗ってく?」

彼女は自転車のサドルをポンと叩いた。
もちろん漕ぐのは僕だ。
上りでは僕が音を上げ、下りでは彼女が叫び声をあげた。

「お尻が痛い」

クッション分厚いよね?

彼女は無言で僕の脇腹を抓った。

夏の日差しで白く浮かび上がる道路。
そしてそこに見えてくる逃げ水。
聞こえてくるのは蝉の声と、風音に途切れ途切れの彼女の声。

両脇を緑が流れていく、その向こう側に吸い込まれるような深い青の海と空。

すべての生命が呼応しているかのように、その瞬間を紡いでいて、その一瞬を命から溢れ出ている水で泉を満たしていくようだった。

至福のとき。

表すのなら、そんな言葉が一番似合う。
時間が止まればいいと本気で思っていた。
僕と彼女は同い年で24歳だった。

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