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【社会】自己責任社会に生きる~全てが1人の責任か~

始めに

「自己責任」という言葉を聞いたことはある人がほとんどだと思います。この数年くらいよく聞くようになった言葉であると思います。そのことについて今日は書いてみたいと思います。

「自己」が「責任」の所在をより明確にする

この自己責任という言葉から連想されることは、とても冷たいということです。それこそ鋭利な刃物のような感じがします。まあ「責任」という言葉自体にその人・自分というニュアンスも入っているような気がしますが、そこにあえて「自己」という言葉を付け加えることで、より一層ひゃっきりとさせている感はあります。責任の所在を明らかにしているように感じます。それによって合体して出来た「自己責任」という言葉は、より先鋭化しているように感じます。

全ては自己責任なのか

いよいよ本題に入りますが、全ては自己責任であるのかということです。あえて、自己責任という言葉のイメージを書いてみました。私自身の意見としては、自らが自分の責任について語ることはあっても、それを他人から自己責任だろうと言うのはおかしいと思います。他人から言われることによってその人の責任なんだからしょうがないでしょう。みたいな感じになってしまいます。実際にそうなのかもしれませんが、わざわざそれを赤の他人が指摘する必要はないのではないでしょうか。

また、そもそも人間は社会的な生き物と言われています。どれだけ裕福な人でも、全てを自分の力ですることは出来ません。お金という交換するものを通じてそれらを買っているのであって、全てのモノやサービスは自分以外の誰かがいるお陰で成り立っているのです。そう考えた時、例えば「自己責任」という言葉がよく使われる「格差」や「貧困」、また社会的な失敗などいについて、自己責任とは言い切れない面が大きいと思います。むしろ、他人に向かってよく真実も知らないのに「自己責任」と言うのは非常に恥ずかしいことではないかと思います。

「自己責任」という名の「空虚」

人に対して自己責任というのは、とても空虚なことだと思います。他人に対して持てる自分と持てない他人を比較して、その優越感に浸っているのかもしれません。しかし、それらは私からすると非常に空虚な感情のように思います。自己責任と言って一言で切り捨てれば簡単です。自分とのつながりを切ってしまうことは簡単です。しかし、わざわざその言葉を他人に投げかける必要なないように思います。他人は他人。自分は自分。の精神でよいのではないかと思います。

社会の行き詰まりの矛先に

自己責任という言葉がなぜこれほどまでに蔓延するのか。一つの言葉には、やはりみんなが豊かに生きていける時代ではなくなってきていることば大きいと思います。格差が生まれ、段々と貧しくなっているように思います。社会が断絶し分断が生まれることによって、ある種の恐怖心が生まれているのではないかと思います。みんな余裕がない。そんな状態になると、当然誰か弱い人を攻撃するようになると思います。

この30年近くの不況、ゼロ成長が生み出したものは、きっと日本人が日本人を攻撃するという、末期的な精神性なのかもしれません。およそ、高度経済成長の時代には考えられなかったことです。その意味でも経済が成長し、みなが今日よりも明日の方がきっと良いはずだと感じられる社会になることが求められていると思います。お金がなくなると本当に不安になります。sおれはある意味しょうがないことです。我々が持っている生物学的な欲求の一つである「金欲」にはかなわないものですね。

他にも、SNSの発達によって匿名で簡単に人を口撃できるようになったことも大きいでしょう。それによってますますそういった傾向に拍車がかかります。

終わりに

漠然した「不安」か「希望」か。将来何か希望を持ちたいものです。そのためには、お金は必要ですし、それが全てではないにしても、一生懸命に働いて、稼いで、遊ぶという基本的なサイクルをしっかりと回していきたいです。給料が何とか上がらないものか、、、


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