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「生きる」ということについて

記事をクリックしてくださり、ありがとうございます。

こうやって、あなたがこの記事をクリックできたのも、そもそも私がこの記事を書けているのも「生きている」、この世界に「存在している」からです。

いきなり少し脱線しますが、「世界に存在している」ってあんまり使いたくないんですよね。マルクス・ガブリエルによると世界は存在しませんから。

まあ、それは置いといて、生きるとは何かという問いは、哲学において大きな問題の一つです。そして突き詰めていくと最終的には「時間論」、私は存在しているとして、そもそも過去や現在、未来は存在するのか、私が存在する過去は存在したのか、というような時間論に最終的に突き当たると思います。

しかし、今回は「「生きる」ということについて考えてみた」なので、時間論には言及しません。そして、あくまで個人的な考えであり、分かりやすさを重視した書き方をしていることを了承してもらえればと思います。


「生きる」とは?

さて、前置きがとてーも長くなってしまいましたが、「生きる」とは何なのでしょうか。自然科学的に言えば、心臓の動きによって血液の循環を維持し...、のような表現になるのでしょうが、生が存在するためには、死が存在しなくてはならないと思います。

悪が存在しなければ善は存在しません。罪が存在しなければ罰も存在しないでしょう。これらと同じで、死が存在しなければ生は存在しません。死の無い生は生とは呼べないでしょう。

つまり、「生きる」ということは、死というゴールに向かってゆくことだと私は思っています。

「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ。」-寺山修司

この言葉は私のとても大好きな言葉で、「生きる」ということを最も美しく表した言葉だと思います。


「生きる」意味とは?

どうせ死んでしまうのだから、この世界から消滅することを運命づけられているのだから、当然「生きる」ということには意味なんてありません。それは生きている間、死ぬその瞬間までそうですし、生きている間には、不条理や理不尽が付きまとい、うまくいかないことや思い通りにならないことだらけです。

それはなぜか。

それは生まれたその瞬間からそうだからです。あなたはこの世に生まれて来ることを望んだでしょうか?あなたは自分の顔や体、頭脳などを選択できたでしょうか?あなたは両親や、生まれた環境を選択できたでしょうか?そう「生きる」ということは生まれたその瞬間から、不条理で理不尽なのです。


自ら生を捨てるとは?

察しのいい方は、ここで一つの疑問に突き当たるかもしれません。

「意味がないのなら自ら生を捨ててもいいのでは?」

たしかにそうかもしれません。そして、これについては説明できないのが現状です。言えることがあるとしたら、人間はうまくできていて、死への「恐怖」というストッパーが付いている、ということくらいでしょうか。このストッパーが外れ、生を捨てることを希望する人間を、論理的に説得する方法は今のところ存在しないのです。なので、自ら生を捨てることを「いけないこと」とも、その反対に「いいこと」とも一方的に断定することはできないと思っています。これに関してはこれから、哲学が納得できる答えを出さなければならない問題なのかもしれません。


答えとは?

ここまで読んで、意味がないのにも関らず、捨てることには良し悪しの明確な答えがないうえ、社会的には「いけないこと」とされている。じゃあどうすればいいんだよ。と思った方も居るかもしれません。

答えはもう出ています。

なぜなら、あなたは今生きているからです。

あなたには、あなたなりの生きる目的や目標があるから、今生きているのではないでしょうか。矛盾するようですが、「生きる」ということ自体に意味や理由は存在しません。しかしそのうえで今生きているということは、個々人に何らかの目的や目標があるからではないでしょうか。ゲームがしたい、見たいアニメがある、お金持ちになりたい、欲しいものがある、家族を幸せにしたい、世界を変えたい。どんなに小さかろうと大きかろうと、非現実的だろうとなかろうと、そんなのは関係ありません。

そんな目標や目的がないけど、ただ死ぬのが怖いというストッパーがあるからただ生きている?無責任な綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、それはまだ目標や目的が見つかっていないだけでは?「生きる」ということに意味がないことを認識したうえで、「生きる」ということに完全に絶望していれば、もう既に自ら生きることを捨てているのではないでしょうか。


さいごに

なぜ、こんなことを書いたかというと、自分の考え方を書きたかったというのもありますが、これを読んでくれたあなたに、少しでも気を楽にして生きてもらえればな、と思ったからです。

彼女に振られたって、陰口叩かれたって、仕事でミスをして上司に怒られたって、仕事をクビになったって、どうせ「生きる」ことに意味なんてないですし、「生きる」ということは不条理と理不尽の連続で、最後にはどうせ死んでしまうのですから。

だからこそ、ほんのたまーにやってくる良いことや、毎日の本当に小さな小さな良いことを、「幸せ」と感じられるのではないでしょうか。

だからこそ、嫌なことがあっても、「「生きる」ってこういうことだもんなぁ」と、開き直って、気を楽にしてみては?

だからこそ、もう少しだけ、自分のことを好きになって、信じてみては?

悩むことは当たり前だし、「生きる」うえで起こる不条理や理不尽なことを、「これも人生」、「これが人生」と味わう、楽しむことができるようになれたら最高だろうなと思います。

これが私の人生哲学です。

納得できない部分や不完全な部分もあったかもしれません。そこは、はっきり言って私の考え方が未熟なところです。そして、分かりやすいように、哲学用語や哲学者の名前、難しい表現は使わないように書いてみました。もし、この記事を読んで哲学に興味を持ったという方が居たら、是非、哲学の解説サイトでも、哲学の入門書でも図鑑でも、見たり手に取ったりしてみてはいかがでしょうか。哲学は、必ずあなたの生きるうえでのヒントになると、約束します。

最後まで読んでくれたあなたの心に、私の言葉が少しでも触れることができたのなら、うれしい限りです。


では、今回はこの辺で。

また次の記事で、お会いできることを楽しみにしています。



追伸

私は「生きる」とは何かという問題に、19歳の時に突き当たりました。14歳からの5年間、自分なりに色々な努力をしてみても、失敗ばかりで、生きるということを辞めようか悩みました。今回書いたのは、その時に導き出した、自分なりの「生きる」とは何かという考えです。この考えは、今でも自分の芯の一部となっています。

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