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アメリカン・ポップス・クロニクル A&M Records

Herb Alpert and Jerry Moss

ハーブ・アルパートは、1935年3月31日カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、彼の家庭環境は音楽に溢れていました。父親の仕事は仕立て屋でしたが、マンドリン奏者としても才能があり、母親はバイオリンを教えていました。ハーブは8歳の頃からトランペットを習い始めていて、15歳の頃には友人のピアニストとドラマーの3人で、コロニアルトリオというバンドを結成して、TVのタレントコンテストなどで演奏していました。

ジェリー・モスは、1935年5月8日ニューヨークで生まれ、ブルックリン・カレッジを卒業して、陸軍の兵役を終えた後、58年レコード・プロモーターのマービン・ケインに雇われ、東海岸のラジオ局を廻り、レコード・プロモーションについて学びました。Coed Recordsからリリースされた、The Crestsの"Sixteen Candles"をプロモートしたのが、彼の最初の音楽活動でした。60年には、カリフォルニアに移住して、同様の職に就いています。

ハーブ・アルパートが最初に成功したのは、ルー・アドラーと組んで、ジャン&ディーンのプロデュース、マネージメントを行い、デビューシングル"Baby Talk"は全米10位のヒット曲になりました。作曲活動も行っていて、サム・クックの"Wonderful World"を書いて、全米12位、R&B2位と素晴らしい結果を残しています。

ハーブ・アルパートは作曲家よりも演奏家を目指していて、ルー・アドラーとのコンビを解消しました。RCAと契約したハーブは、そのRCAでジェリー・モスと知り合い、ハーブのガレージで様々なレコードを分析して、自分達の進むべき道を模索していました。1962年半ば、彼らは100ドルずつを出資して、Carnival Recordsを起ち上げました。7月には、ハーブのヴォーカル曲"Tell It to the Birds"をドーレ・アルパート名義でリリース、Dot Recordsに配給を依頼して、結果2人は約3,500ドルを手にしました。

ハーブ・アルパートとジェリー・モスはその後、メキシコのティファナで初めて闘牛を観た時に、闘牛の雰囲気を味わいながら、「スペイン的なセンス」を生かす方法を思いつきました。彼らは、闘牛の観客の歓声を録音し、ガレージのスタジオに戻ると、友人のピアニストで作曲家のソル・レイクが書いた "Twinkle Star "という曲の録音にその歓声を加えて、アルパートはトランペットのパートを原曲にオーバーダビングしました。そのダビングの微妙なズレは絶妙な効果をもたらしていて、ジェリー・モスはこの曲の新しいタイトルを考え、"The Lonely Bull "とタイトルを変えました。

ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス名義で"The Lonely Bull"をリリースするにあたり、Carnival Recordsは既に他のレコード会社が使っている事がわかり、2人はアルパートのAとモスのMをとって、A&M Recordsに名称変更して、ジェリー・モスの音楽出版社Irvin Musicの一部門としてスタートしました。

シングル "The Lonely Bull"はその年12月に最高位6位を記録、アルバム『The Lonely Bull』は12月に発売されて、翌年アルバムチャートで10位のヒット作になりました。ハーブ・アルパートが作り出したサウンドは、マリアッチの軽快さとディキシーランド・ジャズの魅力、そしてロックのリズムをほんの少し混ぜ合わせたもので、「アメリカーチ」と呼ばれ、すぐに人気を博しました。

1963年初頭、ジョージ・マッカーンはA&Mからシングル"I'm Just a Country Boy"をリリース、Hot100の56位にランクされました。アルバム『Country Boy Goes to Town』は、Festival Recordsの重役フレデリック・C・マークスがA&Mと5年契約を結んだことにより、このアルバはオーストラリアでもリリースされました。

マリンバ奏者のジュリアス・ウェヒターを中心とする、ザ・バハ・マリンバ・バンドのシングル"Comin' In The Back Door"は、A&Mのサブ・レーベルのAlmo International Labelから発売された最初の曲で、全米41位を記録しました。

1964年、フィル・スペクターの下でエンジニアをしていたラリー・レヴィンをA&Mに雇入れました。彼は8人目のティファナ・ブラスのメンバーと呼ばれていました。

ティファナ・ブラス3枚目のアルバム『South of the Border』は、アルバムチャート6位のヒット作でした。

1965年7月には、レーベル初となるA&Rとしてトミー・リピューマを迎え入れました。また、元ザ・テディ・ベアーズのメンバーのマーシャル・リーヴをプロデューサーとして、チェスター・ピプキンをIrving Musicのスタッフライターとして採用しました。

フランク・ワーバーのTrident ProductionsがA&Mと独占販売契約を結んだことにより、ウィ・ファイヴはA&M所属のグループとなり、デビューシングルの"You Were on My Mind"は65年9月25日付けHot100で3位の大ヒットになりました。

ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスは、"A Taste of Honey" が全米7位とTop10入りのヒット、アルバム『Whipped Cream & Other Delights』はアルバムチャート1位を獲得する大ヒット作となりました。

12月15日、A&Mはハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの『Whipped Cream and Other Delights』と『Going Places!』でRIAA初のゴールドアルバム認定を受けました。ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスのシングル"A Taste of Honey"がグラミー賞で初の4冠を達成しています。

1966年は、A&Mの契約アーティストが一気に増えた年になりました。モンキーズのヒット曲を書いていたトミー・ボイスとボビー・ハートを筆頭に、チェックメイトLtd.、セルジオ・メンデス&ブラジル'66、サンドパイパーズ、フランク・ゴーシン、クリス・モンテス、クロディーヌ・ロンジェらと契約しています。

11月6日、A&M Recordsは、ハリウッドのラ・ブレア通り1416番地のチャーリー・チャップリン・スタジオに、事務所を開設しました。フィラデルフィアには東海岸の拠点を設けて、ハーブ・アルパートが一手に引き受けていました。

ティファナ・ブラスのアルバム『What Now My Love』もNo.1を獲得、この年彼らの3枚のアルバムが18週1位の座にいました。

シングル曲では、クリス・モンテスの"Call Me"に"The More I See You"、セルジオ・メンデス&ブラジル'66の"Mas Que Nada"、ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの"Zorba the Greek"、サンドパイパーズの"Guantanamera"
などが、イージーリスニング・チャートで人気があり、チャート上位を獲得していました。

1967年、A&M RecordsはイギリスのPye Recordsとライセンス契約を結び、ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスのファーストシングル "Casino Royale"が発売され、全英チャートは27位でした。

また、この年A&Mはステレオ・シングルの提供を始め、そのラインナップには、クロディーヌ・ロンジェの"Here, There and Everywhere"、メリー・ゴー・ラウンドの"Live"、TJBの"Wade in the Water"、ニック・デカロの"Amy's Theme"、クリス・モンテスの"Because of You"、セルジオ・メンデス & ブラジル'66の"For Me"などがありました。

A&Mはクリード・テイラーのCTIレコードとディストリビュート契約を結び、最初のアルバム、ウェス・モンゴメリーの『A Day in the Life』は、ビルボード・ジャズ・アルバムで1位、R&Bアルバムで2位、全米アルバムチャートでは13位とヒットしました。

8月にはRondor Musicが設立され、バート・バカラック、アントニオ・カルロス・ジョビン、ウェス・モンゴメリー、クロディーヌ・ロンジェ、メリー・ゴー・ラウンド、ジミー・ロジャースの6枚のアルバムをリリースしました。

トミー・ボイスとボビー・ハートの"Test Patterns"やメリー・ゴー・ラウンドの"You're a Very Lovely Woman"などのプロモーション・フィルムを制作し、テレビ局に送りました。他にもティファナ・ブラス、ブラジル'66、クリス・モンテスなどのフィルムが作成されました。

この年にA&Mと契約したアーティストは、バート・バカラック、フィル・オクス、ロビン・ウィルソン、ウェス・モンゴメリー、ライザ・ミネリ、パレードなどがいました。

米国での契約アーティストのほとんどが、ミドル・オブ・ザ・ロードとして括られる傾向にあり、ジェリー・モスはジャンルの幅を広げるために英国に渡りました。そして、英国のグループとしては初となるプロコル・ハルム、またRegal Zonophone Recordsと販売契約して、ザ・ムーヴ、ジョー・コッカーとも契約しています。

1968年、A&M Recordsにとって初の全米1位のシングル、ハーブ・アルパートの"This Guy's in Love with You"が発売されました。バート・バカラック&ハル・デヴィッドの作品で、アルバム『The Beat of the Brass』も1位を獲得しています。

この年のおもな契約アーティストは、アーティ・バトラー、タミコ・ジョーンズ、イーヴィー・サンズ、デオダート、ジーン・クラーク、フライング・ブリトー・ブラザーズ、ディラード&クラーク、ロジャー・ニコルズなどがいました。

1969年、これまで2年ほど音楽業界から身を引いていたフィル・スペクターは、69年初めにA&M Recordsとプロデュース契約に合意しました。A&Mは、フィル・スペクター・プロダクションのロゴを入れた広告を何度か出し、また、彼がA&Mの下で行ったすべてのレコーディングにこのロゴを入れて、スペクターとの契約を宣伝していました。この契約によって、スペクターは、彼のレコーディングを数多く手がけてきたエンジニアのラリー・レヴィンと再び一緒に仕事をすることになりました。スペクターはペリー・ボトキン・ジュニアに編曲を依頼しました。

スペクターとA&Mの付き合いは約半年間続いて、彼はロネッツのシングル "You Came, You Saw, You Conquered"といくつかの未発表シングルをプロデュースしました。スペクターがA&Mで最も成功したアーティストはチェックメイトLtd.で、アルバム『Love Is All We Have to Give』とそこから3枚のシングルを出しました。"Black Pearl"は全米13位、R&B8位で、A&Mにとってその年最大のヒット・シングルとなりました。

アイク&ティナ・ターナーの『River Deep, Mountain High』は8月に発売されたアルバムで、1966年に録音されていたものの、このアルバムがアメリカで発売されるのは初めてで、スペクターがウォール・オブ・サウンドの手法を使った最後の作品として知られています。

ハーブ・アルパートがオリジナル・ティファナ・ブラスの最後のアルバム『he Brass Are Comin'』を発表、4回目のTJB TVスペシャルに出演し、ワールド・ツアーを行いました。3月、アルパートはティファナ・ブラスを解散しました。

A&Mからオフ・ブロードウェイ・ミュージカル『The Boys In the Band』で、初の2枚組アルバムと初のオリジナル・キャストによる録音がリリースされました。また、『Butch Cassidy and the Sundance Kid』で初のサウンドトラックを発売、音楽はバート・バカラック、歌はB・J・トーマスです。

69年にはカーペンターズ、ハンブル・パイ、シスター・ラブ、クインシー・ジョーンズ、ジョージ・ベンソン、そしてIsland Recordsからフェアポート・コンヴェンション、フリー、スプーキー・トゥース、ジミー・クリフ、キャット・スティーブンスと契約しました。

ウッドストック・フェスティバルの成功の後、A&Mはジョー・コッカーの最初のアメリカ・ツアー「The Mad Dogs and Englishmen Tour」を資金援助しました。ツアー終了後、プロデューサーのデニー・コーデルとジョー・コッカーは、このツアーのレコードを出すことに乗り気ではなかったのですが、すでに多くのA&M資金を投資していたジェリー・モスは、優秀なプロデューサー兼エンジニアのグリン・ジョーンズを雇って、ツアーの録音をレコード化することに挑みました。グリンは4晩で2枚のレコードの曲を選んでミックスし、コッカーとコーデルはそれを受け入れ、アルバム『Mad Dogs and Englishmen』は100万枚を超える大ヒットを記録しました。

1970年代から80年代にかけて、A&Mはシンガーソングライター、リズム&ブルース・シンガー、コメディー・アーティスト、スティックスやスーパートランプなどのロックグループなどを揃えていきました。ピーター・フランプトンは、1976年のアルバム『Frampton Comes Alive!』で1000万枚以上のセールスを記録しています。カーペンターズ、キャット・スティーブンス、キャロル・キング、クインシー・ジョーンズ、キャプテン&テニール、カナダのシンガーソングライター、ブライアン・アダムス、ポリス、スティング、エイミー・グラント、ジャネット・ジャクソンらがマルチプラチナム・アルバムを獲得しています。また、キャプテン・ビーフハート、チューブス、ジョー・ジャクソン、スザンヌ・ヴェガ、ジョン・ハイアット、ネヴィル・ブラザーズなど、音楽的に多様なアーティストをラインナップしていました。

ハーブ・アルパートは、散発的なレコーディング活動を続けていて、1978年にはトランペット奏者のヒュー・マセケラとのコラボレーションによるアルバムをHorizonレーベルからリリースし、高い評価を得ています。アルパートはまた、ディスコ調の"Rise"で自身2枚目の全米No.1シングルを獲得し、この曲も100万枚以上を売り上げ、その年のグラミー賞で7度目の最優秀ポップ・インストゥルメンタル演奏賞を受賞しました。

アルパートとモスはレーベルを成長させ続け、A&Mは音楽業界で最も尊敬されるレーベルのひとつとなりました。A&Mは「音楽が最優先される、ビジネス界で最も上品な会社の一つとして知られるようになった」と評されています。

(2022/04/11)

Songwriters Series #01 (2022/03/19)
Songwriters Series #02 (2022/03/26)
Songwriters Series #03 (2022/03/31)
Songwriters Series #04 (2022/04/05)

Folk Rock 1965-1969 (2022/04/17)

ch.1

1.1959年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
2,1960年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
3.1960年のヒットソング (2021/12/31)
4.インストゥルメンタル・ヒット (2022/01/04)
5.60'Sポップスの夜明け (2022/01/05)
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ch.2

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5.1961年のNo.1 R&Bソング (2022/01/25)
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ch.3

1.サーフビート・ゴーズ・オン (2022/01/29)
2.A Sunday Kind of Love (2022/02/01)
3.夜明け前の月光 (2022/02/03)
4.West Coast R&B (2022/02/05)
5.くよくよしないぜ (2022/02/06)
6.誰にも奪えぬこの想い (2022/02/10)

ch.4

1.ビートにしびれて (2022/02/13)
2.Power Blues & Sophisticated Soul (2022/02/18)
3.I'll Go Crazy (2022/02/20)
4.Do You Wanna Go With Me (2022/02/23)
5.I Got Lucky (2022/02/25)
6.The Lovin' Touch (2022/02/28)

ch.5

1.The Boy I Love (2022/03/03)
2.Flip and Nitty (2022/03/06)
3.Tedesco and Pitman (2022/03/08)
4.Twilight Time (2022/03/10)
5.This Could Be The Night (2022/03/12)
6.1964年のNo.1ヒットソング (2022/03/15)

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