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あめ
2023年1月17日 17:33
靴紐がほどけた。僕はしゃがみこんで靴紐を結び直す。きれいに結んだ靴紐。今朝磨いたばかりの靴の爪先には、憂鬱な僕の顔が映し出されている。立ち上がり、爪先を軽くノックする。すると、その音を合図に風が吹いた。街路樹の枝が揺れ、葉が小波のような音を鳴らす。 今日も僕は会社へ向かう。行きたくないのに向かう。本当は、会社へ向かう道とは逆方向の道を選びたい。しかし、選べない。 自転車に乗った学生達が僕を
2023年1月6日 16:25
蜜柑の皮に爪を当てると甘酸っぱい果汁が飛んだ。テーブルに雫が一粒。その一粒の水面に僕の顔が映る。感情のない顔。僕はそれほど悲しくはないんだ。 同級生の高村からメッセージが届いた。「明けましておめでとう」 高村とは三年以上会っていない。故郷に帰るたびに一緒に食事をする仲。だけど、三年以上故郷に帰れていないから。こうやって、正月にメッセージを送り合うだけ。「明けましておめでとう。今年こそそっ
2023年1月5日 17:17
薄紫色の縁に橙色の滴がひとつ。小さな雫は次第に大きくなり、やがては獣のように牙を剥き口を開け夜を飲み込んでいく。夜の叫び声が星々に響き渡る。怯えた星は震えあがり姿を隠した。朝だ。朝がやって来たのだ。 雲にまとわりついていた闇は朝が奪い去った。漂白された雲に朝陽が滲む。甘酸っぱい果汁の色をした雲に吸い寄せられ、鳥たちが空へ飛び立つ。鳥の囀りと羽ばたきが地上へと降り注いだ。 朝の光は正しい。僕は
2023年1月4日 16:22
口から吐き出される蒸気は空に昇る。朝陽の果汁に浸され桃色に染まり、横切った小鳥の羽根を撫でた。僕の足音に小鳥の囀りが交ざる。ドラム音のように鳴り響くのは僕の鼓動。 仕事を辞めた僕は、早朝にランニングをするのが日課になった。通勤する大人も通学する学生もいない。世界に一人きりになった気分だ。冬の早朝はとても寒いけれど、走って十分ほどすれば、身体が温まり気にならなくなる。むしろ、冷たい風が眠気を吹き
2021年10月21日 16:10
溢れ出す朱色の光。光に飲まれ滲む窓枠。やがて消失する。崩壊する。まるで洪水のように注がれる夕陽。私の部屋に。壁に飛び散る夕陽の飛沫はシミをつくる。血しぶきみたい。永久に消えることのないシミ。 熱い。手の甲が。押し付けられる夕陽の刻印。もう逃れることなど出来ない。やがて部屋は夕陽に満たされるだろう。私は夕陽の底に沈み溺れるのだ。 揺れるカーテン。炎に包まれる。立ち上る火の粉。天井にぶつかり私に
2021年7月21日 16:31
持っていくべき荷物は数少ない。カーテンもソファも彼と一緒に選んだモノだし。嫌がらせのようにこの部屋から持ち去ってもいいけど、こびりついた彼との思い出は、強力な漂白剤を使ったって、色褪せそうにない。 今日、この部屋を訪れたのは、花火大会があるから。彼と初めてデートしたのが、ちょうど三年前の花火大会だった。今年は、あの子と一緒に花火を見ている彼。二年同棲したこの部屋とお別れをしに来ている私。 お
2021年7月20日 17:14
子供だった僕はジンジャーエールがどんな飲み物なのか知らなかった。ビールを飲む大人に憧れた子供が飲む甘ったるい炭酸飲料、そんな風に思ってた。「ジンジャーエール飲む?」 ミオさんが僕に訊ねた。「は、はい」 正座をした僕は汗ばむ手を太ももで拭いながら頷く。「ちょっと待っててね」 キッチンへ向かうミオさんの後姿。ショートパンツから伸びる白い脚につい目を奪われる。 バイト先の先輩ミオさん。高
2021年7月14日 15:40
睫毛の先に実った雫は、涙だったのか雨だったのか、正体を明かさぬまま頬を滑り落ちた。 家まで徒歩十分。雲行きが怪しいとは思ったけれど、傘がなくても大丈夫だと思った。歩いて三分。分厚い鼠色の雲が白く光った。数秒後、岩が転がり落ちて来るような音が鳴り響く。大粒の滴が次々と空から降ってきた。 たちまち私はずぶ濡れになった。カールのとれた髪の毛。肌に張り付いたブラウス。裾がほつれたスカート。私のありと