見出し画像

靴紐【掌編】

 靴紐がほどけた。僕はしゃがみこんで靴紐を結び直す。きれいに結んだ靴紐。今朝磨いたばかりの靴の爪先には、憂鬱な僕の顔が映し出されている。
立ち上がり、爪先を軽くノックする。すると、その音を合図に風が吹いた。街路樹の枝が揺れ、葉が小波のような音を鳴らす。
 今日も僕は会社へ向かう。行きたくないのに向かう。本当は、会社へ向かう道とは逆方向の道を選びたい。しかし、選べない。
 自転車に乗った学生達が僕を追い越していく。彼らも、本当は学校になんて行きたくないのかもしれない。それでも向かっているだから、大人の僕が、会社へ行きたくないなんて思うのは、恥ずかしいことなのだろう。
 そう。僕は恥ずかしい人間だ。
 毎日、上司に怒鳴られている。入社当時からずっと。
 初めは、仕事を覚えていない僕が悪いのだと思っていた。だから、必死で仕事を覚えたつもりだ。それでも、上司は怒鳴り続けた。業務内容に問題がなかったとしても、挨拶の声が小さいとか、ワイシャツに皺があるとか、靴がきれいに磨かれていないとか、気が利かないとか、空気を読めとか、理由は多岐に渡る。今日こそ、上司に怒られないようにと細心の注意を払っても、何かしら僕の失敗を見つけては怒鳴った。
 僕が怒鳴られる姿は、職場では恒例になっていたので、周囲も慣れてしまっているようだった。誰も助けてはくれないし、誰も慰めてもくれない。
 次第に、僕は毎日怒鳴られても当然なくらい、恥ずかしい人間なんだと、思うようになってしまった。自分で自分を責めるようになった。すると、眠れなくなった。腕や脚に湿疹が出来た。
 行きたくない。それでも、会社へ向かっているのは、休んだら上司に怒鳴られてしまう気がして怖いから。休まなくても怒鳴れるのに。どっちみち怒鳴られる。もう、逃げ場なんてない。
 躓いた。足元を見ると、さっき結んだはずの靴紐がほどけていた。僕は再びしゃがみこんで、靴紐を結び直す。爪先に映る僕の顔は、さっきよりも憂鬱で今にも泣きだしそうだ。情けない顔。やっぱり僕は恥ずかしい人間なんだ。
 立ち上がり、爪先を軽くノック。すると、その音を合図に頭上で鳥が鳴いた。青空を悠々と飛ぶ白い鳥。翼からは陽の光が零れ落ち僕の頬に落ちた。あたたかい光だった。あの翼があったのなら、僕も遠くへ逃げられるだろうか。
 再び歩き出す。踵からは鉛の様な重く暗い音が響く。足枷を引きずっているように歩みが遅い。このままでは遅刻してしまう。遅刻したらまた怒鳴られる。急がなければいけない。それなのに、足が重い。重い。重すぎる。
 とうとう、足が動かなくなった。一歩も動けない。歩道で立ち止まっている僕は、通勤や通学の人々の邪魔になっているだろう。だから、動かなければと思うのだけれど、動けないのである。僕を追い越していく人達。おそらく怪訝な顔をしている。僕は恥ずかしくなって、足元を見た。また、靴紐がほどけていた。
 しゃがみこんで、靴紐を結び直す。爪先に映る僕の顔は悲しみと焦りと不安で満ちていた。滴が一粒落ちて、爪先に映る僕の顔を滑った。もう一粒、もう一粒。滴は僕の目から溢れ出し、止めどなく爪先に落ちて行く。
 こんなところで泣いているなんて、僕は本当に恥ずかしい人間だ。恥ずかしすぎて、立ち上がることなんて出来ない。このまま、ずっと、靴紐を結んでいる振りをしていようかとさえ思った。だけど、ここまで、恥ずかしいのなら、もう何をしたって、平気なんじゃないか。
 僕は、靴紐を固く結んだ。そして、立ち上がり、会社とは逆の方向を向いた。足が、動く。踏み出す。腕を振る。走る。逃亡だ。逃げ出すなんて恥ずかしいけど、いいんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?