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【掌編】辛口ジンジャーエール

 子供だった僕はジンジャーエールがどんな飲み物なのか知らなかった。ビールを飲む大人に憧れた子供が飲む甘ったるい炭酸飲料、そんな風に思ってた。
「ジンジャーエール飲む?」
 ミオさんが僕に訊ねた。
「は、はい」
 正座をした僕は汗ばむ手を太ももで拭いながら頷く。
「ちょっと待っててね」
 キッチンへ向かうミオさんの後姿。ショートパンツから伸びる白い脚につい目を奪われる。
 バイト先の先輩ミオさん。高校生の僕にとって、大学生のミオさんはかなり大人の女性だ。ずっと憧れていたミオさんの部屋にいる僕。そんな現実をいまだに受け入れられない。こんなに手が汗ばむのは、気温が三十六度あるからなんだろう。部屋のクーラーが効いてきたら、冷たいジンジャーエールを飲んだら、きっと手汗も収まるはず。
「はい、どうぞ」
 ミオさんがグラスを二つ持ってきて、テーブルに置いた。泡立つ黄昏色の飲み物。
「いただきます」
 グラスを持つ僕の手は微かに震えていた。手の震えをミオさんに気付かれないように、慎重に口に運ぶ。
 舌の上で弾ける泡は、僕が知っていたジンジャーエールとは少し違った。
「辛い……」
 思わず呟く。
「辛口だからね。高校生にはまだ早かったかな」
 ミオさんが笑う。子供扱いされて悔しい。
「いや、でも、美味しいです」
 なんて強がってみる。
「でしょ。普通のジンジャーエールは甘すぎて嫌なの」
 ミオさんは平気な顔をして、グラスの半分ほど一気に飲んだ。
「今日はどうして……」
 僕は質問しようとした。どうして僕をここに呼んだのか。ミオさんには同棲している彼氏がいるって聞いてますけど。
「ちょっと待って」
 ミオさんが僕の質問を遮り立ち上がった。同時に玄関のドアから音がする。鍵を開ける音だ。
 彼氏だ。やばい。ジンジャーエールを一口飲んだけなんですけど。
ドアに駆け寄るミオさん。ドアが開けられると同時に裸足のまま外へ飛び出した。そしてドアが閉められる。ドア越しに聞こえるミオさんと男性の声。二人の声は徐々に大きくなっていく。お互いに興奮気味で言い争っているのがわかった。
やばい、やばい、やばい。ベタだけど、ベランダから逃げようか。ここは三階。飛び降りるのは無理だとしても、まずは二階に降りてみたら何とかなるんじゃないだろうか。
ベランダへ続く窓を開け、外を確認する。うん。何とか大丈夫そう。
僕は玄関へ向かいスニーカーを手に取る。
「ふざけんな、殺すぞ」
 ドア越しに男の低い声がした。それからドアを叩きつける音。
 ミオさんが殺されそう?それなのに、僕はここから逃げ出そうとしてる?それって、正解なのか?
「やめてよ!」
 ミオさんの叫び声がする。再びドアを叩く音。
 心臓が脈打つのがわかる。百メートル走のスタート前、乾いた銃声が聞こえる直前のあの瞬間に似ていた。
 深呼吸をする。そして、体当たりするようにドアを開けた。
 飛び出した僕の身体は、何か大きなものにぶつかった。目をつぶっていたので、それがミオさんの彼氏だったことは気づかなかった。態勢を崩した彼氏と僕の身体が宙に浮く。階段から落下していたのだ。
 落ちる僕の目には、ミオさんの驚いた顔が映る。それから、白くて長いきれいな脚。それから、それから……。
「殺してやる!」
 父親の声。母に馬乗りになり首を絞めている父の声。
 あの時の僕は何も出来なかった。手足が震えて声も出ない。助けたいのに身体がまったく言う事を聞かない。
 僕はなんて無力なんだ。僕はなんて弱虫なんだ。僕がもっと、もっと、大人だったら……。
 
 病室で目覚めた僕の傍にいたのは、ミオさんではなく母だった。あの時、僕は母を助けることが出来なかった。幸いにも母は一命をとりとめ、父とは離婚したのだけれど、あの時の後悔がずっと消えずにいた。
 目覚めた僕を母は泣きながら抱きしめてくれた。あれから、女手ひとつで僕を育ててくれた母。大分痩せてしまったけれど、あの時より笑うようになった。
 死ななくてよかった。母を泣かせることだけはしたくなかったから。母の為を思えば、ベランダから逃げ出すのが正解だったのかもしれない。でもミオさんを助けられなかったら、また後悔が増えることになる。
 母が泣き止むと
「心配かけてごめん」
 心から謝った。
「事情は聞いたよ。ミオさんから」
 母は答えた。
「二人は無事?」
「無事だよ。男の人はケガしたけど大したことないみたい」
「そっか」
「好きな人を守ろうとしたんだろ」
「そういうんじゃ……」
 好きって言うか憧れの人だよ、なんて説明するのも気恥ずかしい。
「あんたも大人の男になったね」
 母は僕の頭を軽くポンと叩いた。
 あの辛口ジンジャーエールはどうやら僕を大人にしてくれたらしい。

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