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【長編小説:無料】明日へ向かって(全100話)

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プロローグとエピローグを含め全100話です。製薬会社の研究所で風土改革に奔走する契約社員さんの物語です。10年前くらいに書いた長編小説です。マガジンにて全て無料で掲載していきます…
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明日へ向かって プロローグ

明日へ向かって プロローグ

 何の悔いも残らないお別れなんてないね。
 竹井小夜子の挨拶を聞きながら、森下希美はふと母の言葉を思い出した。空に浮かんだ鰯雲が遠く夏の終わりを知らせていた。夕暮れで茜色に染まった居室で小夜子は退職の挨拶をした。
 会社生活五年間の思い出を振り返り、ときおり目を潤ませながら鼻に皺を寄せて無理に笑おうとする小夜子を見て、もうこの笑顔も見られなくなるのかと思うと、急に寂しさが込み上げてきた。
 小夜子

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明日へ向かって 1

明日へ向かって 1

 その朝、森下希美は颯爽とした気分で高津製薬研究所の門を通った。通門証をカードキーにかざして薬物動態研究所の自動扉を開くと中に入った。入口の左手にあるエレベーターホールの前で折よく榎本部長と一緒になった。
「今日からよろしくお願いします」
 希美の挨拶に榎本は、いまさら何をそんな改まって、と笑い飛ばした。
 希美には、今日から新しい一日が始まるのだという意気込みがあった。小夜子が退職する頃とときを

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明日へ向かって 2

明日へ向かって 2

 長原は小夜子が入社したばかりの頃のことを思い返していた。スラリとした長身の小夜子がこの居室に初めて訪れた日のこと。この長原とあまり変わらない背丈の新入社員は、勝気な性格で主任研究員になったばかりの長原に対してまったく臆することなく自分の意見を主張した。仕事以外では軽い冗談を飛ばす長原だが、研究員としての能力は、部下はもとより上層部からの信頼も厚く、彼の発言は薬物動態研究所の方針にも大きく影響して

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明日へ向かって 3

明日へ向かって 3

 研究所での契約社員の仕事は主に実験補助である。入社以来しばらく長原と小夜子の実験を補佐してきた希美であったが、あるときから分析装置も触らせてみたところ、希美は装置の原理から職人技ともいえる測定ノウハウに至るまでたちまちマスターしてしまった。希美は分析することの楽しさ、とりわけ混合物から目的とする化合物を単離するというクロマトグラフィーの虜になった。
 液体クロマトグラフィーの装置自体はいたって単

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明日へ向かって 4

明日へ向かって 4

 榎本部長の朝は早かった。その日、希美は、これまでより一時間早く家を出た。今日から新しい一日が始まるのだという緊張した心持ちがあった。少し朝の早い研究所は人気もなく、しんと静まり返っていた。
 更衣室で作業着に着替えて、トイレへ寄った。
「おはようございます」
 小鳥のさえずりのように甲高い声だった。声の主は、女性清掃員であった。
「おはようございます」希美も明るく挨拶した。
 ゴシゴシとモップを

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明日へ向かって 5

明日へ向かって 5

 希美は今の研究所で働くようになって、ようやく労働の喜びを知ったといっても過言ではなかった。
 就職活動は大学院二年になっても中々思うように進まず、卒業間際になって滑り込むようにして大阪にある食品会社の開発に入社が決まった。大学のあった四国から実家に帰ってまた母と一緒に暮らせる上、小さな食品会社ではあったが、商品の開発ができるということを楽しみにしていた。やる気に満ち溢れた社会人生活のスタートを切

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明日へ向かって 6

明日へ向かって 6

 失業保険を受け取り始めた頃までは大した焦りもなかった。やりたいことはいろいろあったが、ハローワークやインターネットで求人案内を見ていても、自分が心底やりたいと思えるものはなかった。そのうちやりたいことのイメージはどんどんぼやけていって、気がつけば退職してから一年が過ぎようとしていた。
 希美の母香枝は、そんな娘を見て、過保護に育てすぎたのかと嘆いた。希美が高校三年のときに父義男が鬼籍の人となって

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明日へ向かって 7

明日へ向かって 7

 景気は回復するよりもむしろ悪化していた。再就職には不利であることは重々承知だったが、今ここでやり直さなければこの先何もないだろうと思い、希美は退職願を提出した。
 ゆっくり考えて根気よく探せば、必ずいい就職先が見つかるに違いないと思った。しかし、退職してから一年が過ぎようとしても何も決めるどころか見つけることすらできないでいた。看護師や薬剤師といった資格が必要な職種の募集はたくさんあった。希美は

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明日へ向かって 8

明日へ向かって 8

 夜になって食卓を囲んでいると、自然と父の話になる。
「がんだと聞いても、煙草もやめてくれへんし何にも変えようとせえへんねやから」
「そうね、どうせ死ぬんだから好きにさせろってね」
「昔からそうだったのよ。新婚旅行だって熱が三十八度もあるのにやめなかったんだから。お父さん、予定を変えるのが大嫌いだったの」
「そのくせ、お姉ちゃんが結婚するときは、結婚式の当日は昼間から急にお酒飲み始めて荒れて大変や

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明日へ向かって 9

明日へ向かって 9

 今の研究所で働くことになったのは、まさに天命だったと希美は記憶している。ハローワークに行った帰りに偶然大学の同級生にばったり出会った。
 人通りの多い道で突然背中を叩かれて振り返ると懐かしい同級生の顔があった。
「えっ!さゆりじゃない。こんなところでどうしたん?」
 さゆりは、大学の同級生で同じ研究室の出身でもあった。彼女は学卒で地元の山口県に帰って就職したが、一年前に結婚して退職していた。

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明日へ向かって 10

明日へ向かって 10

「スライドって作れる?」
「このエクセルファイルって分かるかな」
 次の日から、榎本部長の机にちょこちょこと呼び出されては、細かい仕事が手渡されたが、そのひとつひとつに丁寧に応えていくことが希美には楽しかった。
 榎本からの新たな依頼をこなす一方で、希美は長原の実験補助も続けた。居室で事務作業をするかたわら、実験を手伝い、機器室で測定装置を操作するというハードな毎日を送っていた。多少忙しくてなると

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明日へ向かって 11

明日へ向かって 11

「へえ、浜松なんていいじゃない」
 家に帰って出張のことを告げると母香枝はいかにも呑気そうに言った。
「遊びやないし、だいいち三日間も何すんのやろう」
「そんな細かいこと気にしないで、おいしい鰻食べといで」香枝は笑った。
 話はそう簡単でもなかった。部長の代わりということも気になった。わたしなんかで務まるのだろうか。榎本は、森下さんなら大丈夫と笑っていたが、どんな研修なのか中身さえ聞かされていない

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明日へ向かって 12

明日へ向かって 12

 希美が榎本の代理でセミナーに参加しているちょうどその頃、高津製薬では会社全体を揺るがす大きなニュースが報じられていた。
 高津製薬と三河製薬の合併が決定した。三河製薬は、旧財閥系三河ホールディングスに属する国内有数の大手製薬メーカーである。高津製薬の研究所が閉鎖に追いやられ、肩たたきが始まるに違いないという暗い噂が瞬く間に研究所内を駆け巡った。
 合併なんて預かり知らないことだとばかりに長原は周

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明日へ向かって 13

明日へ向かって 13

 希美のグループについたスタッフは、城戸あゆみといった。希美がセミナー会場に入ったとき、自分とさして年の変わらない女性を見つけて安堵していたのが彼女だった。やや軽装気味の服装から勝手にスタッフではないと思い込んでいた。
 当日のドレスコードは軽装でよいと榎本から聞いていた。参加者の中にはネクタイこそ締めてはいなかったがスーツ姿の男性が数名いた。女性はセットアップのジャケットにスカートというややフォ

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