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「映画『デビルクイーン』の背景に見え隠れするブラジルカルチャー」中原仁(音楽・放送プロデューサー/選曲家)×岸和田仁(日本ブラジル中央協会ブラジル特報編集人)トークイベントレポート
軍政下の言論活動や文化活動が抑圧された時代
その隙間をぬって作られた映画の1つが『デビルクイーン』
中原:長年ブラジルに赴任されていてブラジルをよく知ってらっしゃる岸和田さんから、まずはこの映画が誕生した1973年、70年代前半のブラジル社会、 政治的な背景も含めてお話いただけますか。
岸和田:ブラジルの軍事政権がクーデターで権力を握ったのは1964年で、民政復帰するのが1985年。ですから、
「成功したオタク日記」発売記念!オ・セヨントークイベントレポート
性加害で逮捕されたK-POPスターの熱狂的ファンが、推しの逮捕から映画『成功したオタク』を制作・公開するまでを赤裸々に綴ったエッセイ&ノンフィクション『成功したオタク日記』。
本書の発売を記念して、著者でありドキュメンタリー映画の監督でもあるオ・セヨンが再来日し、映画上映後にトークイベントを開催いたしました。
セヨン:皆さんこんばんは。私は『成功したオタク』の監督、オ・セヨンです。よろしくお願い
人の声自体を「できごと」として捉える 濱口竜介(映画監督『悪は存在しない』)
佐藤真の映画ではカメラが人物の前に回ることが多い。対立でもなく、対峙でもなく、被写体の前で立ちすくむカメラ。そんな印象を受ける。
答えのない過酷な生を、人々の声が和らげる。佐藤真はインタビューすることを恐れない。インタビューの一つ一つが説明に堕することがないのは、人の声自体を「できごと」として捉える感性ゆえだろう。
一度お会いしたかった。
濱口竜介(映画監督『悪は存在しない』)
生きていると佐藤真監督の映画のことを不意に思い出す。 深田晃司(映画監督)
生きていると佐藤真監督の映画のことを不意に思い出す。阿賀の景色、花子の笑顔、パレスチナの難民たち。それら映像の記憶の断片はノスタルジーから遠く現在と生々しく接続している。
「佐藤真監督と『阿賀の記憶』のこと」矢田部吉彦(前東京国際映画祭ディレクター/映画上映プロデューサー/映画文筆)
会社辞めたのだったら、次の映画のプロデューサーをしませんか?
現在はポレポレ東中野と呼ばれている映画館は、かつてはBOX東中野という名前だった。そのBOX東中野で、佐藤真監督が「ドキュメンタリー考座」と題された映画レクチャー講座を開いていた。2001年くらいだっただろうか。佐藤監督がセレクトした古今のドキュメンタリー映画の名作を皆で見て、その場で佐藤監督が解説をする。全10回ほど開催される「考座
佐藤さんの新しい映画を見ることはできない。でも、やかんの湯を沸かす囲炉裏の火が消えそうになったら、誰かがそこに薪をくべることならできる。 杉田協士(映画監督)
佐藤さんの新しい映画を見ることはできない。でも、やかんの湯を沸かす囲炉裏の火が消えそうになったら、誰かがそこに薪をくべることならできる。
いつでも泊まりに来なさいと声をかけられたように錯覚してしまう。
パレスチナ難民キャンプで、阿賀野川の流れる村で、佐藤真さんのチームが声をかけられたように、佐藤さんの映画からもそのような声が届きそうな気がしてしまう。
佐藤さんの新しい映画を見ることはできない。で
無意識に持っている枠、既にある解りやすさに落とし込もうとするような軽率な手つき、考えの無さを見逃さなかった 飯岡幸子(撮影監督/『すべての夜を思いだす』『偶然と想像』)
佐藤さんは、生徒たちが撮ってきた映像に対して、こうしなさいああしなさいということを全く言わない人でした。
初めてカメラを持ったような私達が撮ってきた、振れていたりピントが外れていたり、そもそも何を撮っているのかすらよくわからないような映像を、どうやら佐藤さんは本気で見ていた。そして、撮った本人も気が付いていないようなその映像の面白さや美しさを見逃さず、同じように、撮り手やドキュメンタリーという形
絶望の中で希望を見ようとしたサイードに励まされる 川上泰徳(中東ジャーナリスト)
エドワード・サイードの生涯と彼の言葉をたどりつつ、映画はパレスチナ人とイスラエルのユダヤ人の経験に分け入っていく。イスラエル占領下のヨルダン川西岸で、レバノンの難民キャンプで、そして、イスラエル国内のアラブ人の町で、パレスチナ人たちはサイードと同じく「居場所のない存在」を生きている。一方で、ホロコーストによって親戚のほとんどを失ってパレスチナに移住してきたキブツのユダヤ人や、イスラエル建国でシリア
もっとみる「あの旅で変わったよね!」と嬉しそうに私に言ってくれた大人 秋田祥(映画上映企画)
スクリーンを目の前に、20歳のときにした一人旅を思い出す。自分で自分が大きく変わったことを感じて興奮していた、そんな特別な旅からもどった私に「あの旅で変わったよね!」と嬉しそうに私に言ってくれた大人は佐藤さんだけだった。
京都の大学で「ドキュメンタリー映画の地平」を噛み砕いて教えてくれていた佐藤さんとの記憶は、些細な会話が多い。私が作品と真剣に向き合い始めたのは佐藤さんがいなくなってからだったけ