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『まひるのほし』トークイベントレポート ゲスト:関根幹司さん(『まひるのほし』出演・撮影協力、シゲちゃんの絵の先生)

「これはもう彼の芸術活動ですよ。街で繰り広げるパフォーマンスです。止めるんじゃなくて、支援したらどうでしょう」

シゲちゃんは僕にとって生きる哲学、恩師のような人です。
『まひるのほし』を作るにあたって佐藤真監督に「関根さん、作品制作を映像に撮っているだけじゃ映画にならないんだ。どうしよう」と言われて。でね、シゲちゃんの話をしました。
 
実はこの時、シゲちゃんは就職が決まってました。そのくらい落ち着いていたんですね。映画でも職員とやり合っているシーンがあったと思いますが、当初は…施設は朝9時から始まるんですが、毎朝犬の遠吠えのような音が聞こえてくるんですよ。「ワオーン」って。犬の遠吠えであってほしいな…と思っているとだんだんその音が近づいてきて、これはもう犬じゃないや、と思っているうちに、その「ワオーン」が「バカヤロー!」って言葉だとわかる。ものすごい勢いで怒鳴りながら施設にやってきたシゲちゃんを職員や僕が玄関に出迎えに行くわけですが、まず肩につかみかかってきて−−当時、肩が真っ黒になっていない職員はいなかった。僕は両肩に彼の歯形がついてます。 生まれて初めて目の前で人間の顔が4色に変わってくのを経験しました。真っ赤な顔して「バカヤロー!」って怒鳴りつけられて、その後だんだん顔色が失せていって透明になるんじゃないかと思うくらい真っ白になる。さらに真っ青になって、チアノーゼ状態、酸欠状態で真っ黒になって、そこで正気づく、というのが毎朝のことでした。
 
なぜそんな怒鳴っているのかというと、朝施設にやってくる時に若い女性に声をかけるんです。特にミニスカート、ロングブーツ、茶髪の女性が彼の目標で、そういう女性がいると「すいません」と声をかけるんですが、基本無視か逃げられます。そうするとその女性の後ろから「バカヤロー!」と怒鳴りつけて、そのテンションで施設にやってきて、ほぼ1日をそのテンションで過ごすという状況でした。警察沙汰にもなっていますし、近所からもクレームが散々施設に来るのでどう止めさせるか、日々職員間で頭を悩ませていました。

自転車に乗るシゲちゃん


彼はうちにくる前、高校生の頃から有名人で、もう彼を受け入れる施設がないと言われていたんです。僕も「どうするんだろうな」と思ってたらうちに相談に来ちゃって。お母さんに「行く場がないんです」と言われて、「しょうがない受けましょう」ということで受けちゃったんですけど。日々そんな状況で、怒鳴るのをどう止めさせるかを散々検討して彼にもいろいろな対応をしたんですが結局止められなくて。映画にも出てきましたが、シゲちゃんが手紙を書いていたさとえちゃんが、「関根さん、これはもう彼の芸術活動ですよ。街で繰り広げるパフォーマンスです。止めるんじゃなくて、支援したらどうでしょう」と言ったんです。もうそれしかないね、ということで、それからは朝さとえちゃんが彼の家に自転車で迎えに行って、交差点で女性に一緒に声をかける。僕も行きましたけど、昼休みに平塚駅でビラと名刺を配る。西尾繁という名前と工房絵の連絡先を書いた名刺を作らせて、うちのパンフレットと一緒に配ったりしました。
 
さとえちゃんへの手紙、というのは最初はさとえちゃんに向けたものではなく、あいさつを無視されて怒鳴りつけた女性に対する「あいさつしてください、シゲちゃんと呼んでください」というメモだったんです。シゲちゃんが持っていた渡すあてのないメモの束を、さとえちゃんが「それを私宛にしてよ」と毎日受け取るようになって、「毎日8時54分に電話をください」とメモに書いてあったので、さとえちゃんは毎日家からだろうと北海道旅行先であろうと、職員会議中であろうと8時54分になると何処にいようと彼の家に電話をかけていました。1年経って、だんだん成果が出てきて、「あれ、今日シゲちゃん休み?」というくらい静かな、犬の遠吠えがない日が増えてきた。日々怒鳴りつけるという状況がほぼなくなって、それで作品展をやろうということになりました。
 
「これアートじゃないでしょう障害者のこだわりにすぎないじゃん、こんなもん発表してどうすんだよ」と言われるんじゃないかと心配でしたし、当時は基本「障害者なんて」「アートなんて」という空気がありました。アート作品として発表していいものか、賛否両論あるだろうし大批判を食らう可能性もあるなと思っていましたが、ビデオもメモも案外ウケて、それほどのマイナスの反応はありませんでした。でも、名刺配りにしても作品展のビデオメッセージにしても、シゲちゃんという存在を知ってほしかったんです。要するに、シゲちゃんの取扱説明書ですね。シゲちゃんは女性をナンパしたかったんじゃなく、女性に挨拶したかっただけなんです。彼が求めてるのは挨拶、「おはよう」と言ったら「おはよう」と返ってくる、それだけだったんです。でも毎日迎えに行って平塚駅頭で挨拶していると、だんだん挨拶してくれる人が増えて、それで彼が落ち着くようになった。作品展に彼を連れて行って「こんな感じだよ」と展示を見せたら、彼は「そうか」と言ってくれて、翌日「関根さん、もうメモ書く必要なくなったし、毎日電話もいらないよ」と言われました。満足したんだろうと思うんですが、それを僕は彼から言葉として聞きたくて「なんで?」と尋ねたんですが、彼は「疲れたから」としか言わなかった。
 

「シゲちゃんコレクション」を披露するシゲちゃん


映画の中でシゲちゃんのお父さんがお母さんの話をしていますが、お母さん、本当にものすごく大変でした。我々のところにも「シゲちゃんをやめさせろ」と近所中や、同じ施設の保護者からもずっと言われていました。うちの施設は保育園と併設だったので、保護者が毎朝玄関口でギャンギャン騒いでるシゲちゃんを見て「怖くて入れないから辞めさせて」「シゲちゃんを辞めさせないならうちが辞めます」というような状況でした。お母さんもどこに行っても同じような状況にさらされて、本当にもう、どこにも行く場がなかった。
 
そういった、いろいろなシゲちゃんの話を佐藤監督にしました。佐藤監督は「それだ」って。彼らの作品、彼らの表現、制作の様子を撮るんだけれども、その裏にある彼らの日々の生活、作品の裏に、実はそういう生活をみんなが持っているんだということを伝えられたら、もう映画が撮れると言ってくれた。
 
シゲちゃんが亡くなったのは5年ぐらい前ですかね。映画撮った次の年に就職したんです。すごくいい社長と出会って2年ぐらい働いたのかな、多分社長がいい人だったからでしょうね。残念ながら会社が潰れちゃったんですよ。それでまたうちの施設に戻ってくることになって、ボールペンの組み立てとか、水着シリーズを書いたりして過ごしていました。さっき僕、シゲちゃんは生きる哲学になってると言いましたが、当時は本当に日々戦いで僕もどうしたらいいかわからなかったんですよ。でもね、クレームも多かったけど、ある日施設のそばを歩いていたらお婆さんに声をかけられて「おたくのシゲちゃんにはいつもお世話になってます」と言われたんです。「なんでですか?」と聞いたら「毎日挨拶して、声をかけてくれてすごく助かってるんです」って。女性を怒鳴りつけて街中で騒いで警察沙汰になっている一方で、おばあさんに毎日声掛けて感謝されている。
 
保育園の話に戻りますが、保護者から「シゲちゃんを辞めさせないならうちが辞める」と言われたとき、保護者会総会を開いてみんなに説明をすることになりました。事前に園長と申し合わせて「うちは彼を受け入れるという法人だから、その方針が嫌だと言うなら、嫌だという人に辞めてもらいます」と言おうとしていました。総会で「シゲちゃんを辞めさせろ」という意見が出て、そろそろ言うか…とタイミングを見計らっていた時、一人の保護者が手を挙げて「必要なんじゃないですか」と言ったんです。「保育園児が、社会にこういう大人がいると知ることは必要なことなんじゃないですか」と。そうしたらタタタターって続々手があがって、その意見の方に賛成する人の方が、辞めさせるという意見より多くなった。最終的に「毎朝1分挨拶をするだけだ。1分彼に時間を割けばいいだけじゃないか。みんなでそうしましょうよ」と話し合って、挨拶をしてくれるようになった。クレーム対応、警察とのやり取り、近所でのやり取り、保護者会総会でのやり取り。彼がもたらした色々な場面で、新たな福祉のありかたを考えさせられる。そういう意味では今の僕の福祉に対する考え方を作ってくれたのが彼だったんですよ
 
ほとんどの施設では絵を描くのはある種「余暇の時間」で、週1回の絵画クラブのようなものです。でも僕は彼らの絵を見て、「すげえな、これは売れるよ」「これを仕事にできる」と思って施設の申請をしたんですが、当時厚生省はアートを仕事として認めてくれなくて却下されました。本人は家で絵を描いて、施設でも描いてるんだけど親からは「うちの子の描く絵はアートじゃない、ゴミですよ」と言われて、絵を描いていることを伏せることしか考えていない。「うちの子がこんなことしているなんて。僕はこんなことしかできない障害者でございますって言ってるようなもんだ」とか、「絵なんて絶対やらせないでくれ。ボールペン1本組み立てられるようにするっていうのが施設の訓練でしょう」と散々言われたんですが、僕としてはすごいかっこいいと思ったし、売れるという確信みたいなものがあってアートの施設を始めました。シゲちゃんのような、いわゆる絵や造形物ではない、普通だと「作品」と呼ばないようなもの—どうしても一般的に言えば「問題行動」ですから、あれをどう止めるか、と言うところで終わってしまう。そういう意味では、アートとの出会いによって生き方の幅が持てたと思います。
 
1992年に工房絵を立ち上げて、その後独立してstudioCOOCAというアートに特化した施設を立ち上げました。僕はこの5月いっぱいまで社長職を退いたんですが、studioCOOCAは平塚にありますので、ぜひ遊びに来てください。


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