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5/25㊏ 『阿賀に生きる』トークイベントレポート

『阿賀の岸辺にて』の宝物話の映画作ろうよ。人生の達人で名優ばっかしだ。そのまんま日常生活撮れば映画になるよ。

5/25(土)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて 『阿賀に生きる』 上映終了後にトークイベントが開催されました。

登壇者は旗野秀人さん(『阿賀に生きる』発起人)、小林茂さん(キャメラマン・映画監督、『阿賀に生きる』撮影)、秦岳志さん(映画編集)、神谷丹路さん(佐藤真 妻/韓国語翻訳家)、そして聞き手は山上徹二郎さん(シグロ代表/プロデューサー)が務めました。

【旗野秀人さん(『阿賀に生きる』発起人)】

2人で『阿賀の岸辺にて』の宝物話の映画作ろうよ。人生の達人で名優ばっかしだ。そのまんま日常生活撮れば映画になるよ。

佐藤さんと出会ったのはちょうど今から40年前の1984年、佐藤さんは27歳でした。『無辜なる海』(81年/⾹取直孝監督)という、水俣の患者さんのドキュメンタリーを新潟で上映するといって突然訪ねてきてくださいました。「新潟に行ったらとにかく旗野のとこに行け。タダで酒を飲める、泊めてもらえると言われてきました」と。初対面だったけども私はとっても嬉しくて、とことん2人で酒飲んで、泊まっていきました。
当時私は34歳。バリバリの建築大工でした。

映画に出てくる皆さんは水俣病として認められていない、いわゆる未認定の人たちなんですが、水俣病の患者という以前に人生の達人なんです。
私は21歳から水俣に関わって、10年ほど患者さんと付き合った頃に、人生の達人たちの宝物話が全然掬われないことがが悔しくて、1981年に『阿賀の岸辺にて』というガリ版刷りの聞き書き集を仲間と一緒に作りました。

佐藤さんと出会って、「佐藤さんも結局水俣なんだね。石牟礼道子、ユージン・スミス、桑原史成、表現者はみんな水俣(を撮るん)だ。新潟には表現者は誰もいない。だから2人で『阿賀の岸辺にて』の宝物話の映画作ろうよ。人生の達人で名優ばっかしだ。そのまんま日常生活撮れば映画になるよ。水俣病っていう言葉を使わないで、水俣病の映画を作ろう。土本典昭、小川紳介くそくらえだ!」なんて、私、大工のくせにめちゃくちゃ言ったんですね。それで佐藤さんに聞き書き集を見せたら喜んでくれて、「旗野さん、映画って、3人いればできるんだよ。監督とカメラマンと録音マン」って(笑)。

カメラマンって言ったときに、小林茂さんの名前が2人同時に出たんです。コバさんは柳澤壽男監督の助監督の経験はあったけども、基本的にはスチールカメラマンだったんですよね。『ぱんぱかぱん』というびわこ学園の写真集とかね。でも佐藤さんと、とにかくカメラはコバさんだよねっていうことで決まっちゃったんです。録音の彰ちゃん(鈴木彰二さん)は、彼が学生のときに出会って、卒業したら何するの?と聞いたら「決まってない」と。私は1人で患者さんと付き合ってたもんだから、新潟に来て手伝ってよ。鍼灸師になって患者さんの手助けをしてほしい。と言ったら本当にやってきて、鍼灸師の免許を取ってくれたんです。そんなときにこの映画の話が出て、「鍼灸師になるくらいなら録音もできるはずだ」っていうことで鍼灸師はとりあえず休んで、録音マンになってもらった。それで3人が揃ったんです。


【小林茂さん(キャメラマン・映画監督、『阿賀に生きる』撮影)】

座っているところから外の景色が見えるとても素敵な家で、遠藤さんがみんなにお茶を淹れてくれた。その姿を見て、撮影を引き受けることにしました。

佐藤さんと旗野さんからドキュメンタリー映画のカメラマンをやってほしいと言われたときは、佐藤さんと一晩飲んで、断ったんです。ドキュメンタリー映画の現場というのは、キャメラマンは10年ぐらい助手をしてから本当のキャメラマンになっていくというのが普通なんですね。ところが私にはそんな経験もありませんし、断りました。

ただ、私も信濃川の支流、五十嵐川のすぐそばに生まれたということもあり、映画が始まる前に、新潟のグループと東京の佐藤さんグループが新潟の阿賀野川のすぐそばで集まって頭固めをしたとき、旗野さんが舟大工・遠藤武さんのお家を案内してくれたんです。囲炉裏があって、遠藤さんの座っているところから外の景色が見えるとても素敵な家で、遠藤さんがみんなにお茶を淹れてくれた。その姿を見て、撮影を引き受けることにしました。茶のみのシーンを撮れたらいいなと思いつつもなかなか機会がなく、川舟を作るところも頭からは撮れず途中から撮って良いよと許可をいただいたんですが、川舟が完成してお礼に伺ったとき、みんなにお茶を丁寧に淹れてくれたんです。それでカメラを回しました。その時には佐藤さんとは気心が知れていますから、シーンを撮り終えた時、「これで撮りたいと思ったことは全部撮影できたから、クランクアップしていいよ」と佐藤さんに伝えました。ですから皆さんにとっては遠藤さんのお茶飲みは冒頭の紹介のシーンとなっておりますが、実は最後に撮った画です。

スタッフは一番若くて20歳、私が一番上で35歳。佐藤監督も長編第1作で、彼とはよく喧嘩もしましたが、そんなふうにして若いスタッフで撮りました。今から思えば、この映画に出てくれる人たちの掌の上で遊ばせてもらったんだなというふうに思います。だんだんと登場人物に近い年齢になってきても相変わらず私たちはあんな境地にはなれないんですが、彼らはやはり人生の達人だったなといつも思っています。


【神谷丹路さん(佐藤真 妻/韓国語翻訳家)】

亡くなった後もこういう形で皆さんに見ていただけるような作品を残すような映画監督になるとは、出会ったときには全く思いませんでした。

私が最初に真と出会ったのが85年だったと思うんですね。「これから新潟の映画を撮るんだ」ということを盛んに喋っていて、「それ面白そうだから応援するよ」なんて話していました。86年に結婚して、映画ができたのは92年。私はその間ずっと仕事しながら、「この映画ができたらこの人はまともに働いてくれるのだろう」というつもりで、私も映画を楽しみに応援していました。映画というのがこんなにもお金がかかるものだということを全く知らなかったんです。
しかし映画が出来上がっても普通にお勤めして働く人にはならず、なぜかその後も映画を作り続けて映画監督という—しかも、亡くなった後もこういう形で皆さんに見ていただけるような作品を残すような映画監督になるとは、出会ったときには全く思いませんでした。
今回こうして日本全国でいろんな新しい方に見ていただく機会作っていただいて本当に感謝しています。彼も空の上の方から今日のことを見ていて、苦笑いしながら皆さんと一緒に映画を観ているんじゃないかなと思ってます。

『阿賀に生きる』の頃は私もまだ若くて子供もいなかったので、撮影に一緒に付いていったりしました。餅屋のおじいちゃんの餅つきの日、小林さんがあの小さな加藤さんの家の中をカメラを持って走り回っている様子なども扉の影から映らないようにちょっと顔出しながら見てたことや、遠藤さんのおばあちゃんが「お前さん、写してんだがね」という場面があったと思うんですけども、あのときコバさんのカメラの後ろに私もいたんです。そんなことを、観るたびに思い出します。

彼が亡くなって17年、今もその時と同じ家に住んでますけれど、彼がまだ家の中にずっといるような、そんな気配を日々感じたりもしています。

(山上)今回上映の6作品の中には入っていませんけれども『我が家の出産日記』や『保育園の日曜日』など、佐藤真作品の多岐に渡るジャンルの中でもプライベートフィルムに準じるような映画が何本かありますが、丹路さんは出演者でもあり、ずっと制作の側にいたんではないでしょうか。
そうですね。映画監督の家族っていうのは、これはこれで大変な苦労がいろいろありまして(笑)。本人が家庭の中にカメラを持ち持ち込もうとしていた時期もあったりして、家族は大変でしたけど、それも今では懐かしい思い出ですね。


【秦岳志さん(映画編集)】

こうしたら多分うまくいくとわかっているけど、あえてそれはしない。毎回毎回困難にぶち当たったときに、新しい可能性をできるだけ見つけようとチャレンジしていく姿勢も学びました。

私は後半の3作品(『花子』『阿賀の記憶』『エドワード・サイード OUT OF PLACE』)の編集を担当しています。 『花子』が私自身初めて映画の編集をした作品で、佐藤さんと一緒に仕事をした最初の作品でもありました。それまでBOX東中野という劇場でスタッフをやっていて、そこで劇場の仕事以外に映像制作、テレビの番組制作や予告編制作をしていたんですが、テレビの仕事が嫌になってフリーランスになったときに佐藤さんから声をかけていただいたんです。ちょうどその頃、個人で持ってるようなレベルのパソコンである程度のクオリティの編集、ノンリニア編集ができるようになったので、独立してひとりでやっていたら、映画美学校の佐藤さんのクラスでノンリニア編集の講義をしてほしいと呼ばれたのが、最初のダイレクトな繋がりでした。

『阿賀に生きる』の当時は学生で、すごいヒットしていてどこの上映会に行っても入れないという状況で観た記憶があって。佐藤さんのことはすごく尊敬していたので「私にできることだったら」と講義をしたことがきっかけで、『花子』の編集を担当することになりました。
『花子』はビデオで撮影をしてノンリニアで編集して最後フィルムで仕上げているんです。私はノンリニア編集のオペレーターとして呼ばれたのかなと思って行ったら、まず素材を端から一緒に観て、佐藤さんから何か指示があるのかなと思っていたんです。でも指示などは何もなく、私に「どう思う?」と質問されました。ちょっと戸惑ったんですが、オペレーターとかではなくて、もう一緒に映画を作る仲間なんだ、年齢差もあるし、映画の編集なんて初めてだったのに、そういうふうに扱ってもらえたことは、その後の私の糧になっています。

その後の作品でも関わらせていただいてびっくりしたのは、作品を作るごとに絶対同じことをしないんです。こうしたら多分うまくいくとわかっているけど、あえてそれはしない。毎回毎回困難にぶち当たったときに、新しい可能性をできるだけ見つけようとチャレンジしていく姿勢も学びました。『花子』や、その前の『まひるのほし』を見直した時に感じたのは、あそこに出てくるアーティストの皆さんに佐藤さん自身憧れてたんじゃないかなということです。あのくらいの勢い、あのくらいの創作の現場を私達自身で作り出せないかというのを毎回試行錯誤していたような気がしています。


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