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生き下手でいい

高校生になって少し経った頃、なぜ学校の勉強をしなければいけないのか分からなくなった。だから1年と2年の時は授業も上の空で、テストの順位はひどく悪かった。
なぜ古文を学ばないといけないのだろう。
僕みたいな人間は「なぜ」がすぐに出てくる。
きっと生き上手な人はこんなこと考えないのだと思う。
物事に対する「なぜ」が頻繁に出てくる人はどのくらいいるのだろうか。

何の疑いもなくルールを“ルールだから”という理由で押し付けてくる人を見ると嫌になることがある。「それはルールなので」とわざわざ口にしてくる人もいるから尚更だ。
なぜ疑問を持たないのだろう。
たぶんそういう“常識のある人”は古文の授業中に「なぜ古文をやらないといけないのだろう」と考えたことはないだろうし、生きる意味について考えたこともないのだと思う。

なぜツーブロックの髪型がダメなんだろう。
なぜ靴は白色じゃないとダメなんだろう。
なぜ授業中にお茶を飲んだらダメなんだろう。
なぜ学校でスマホを触ってはいけないのだろう。
なぜ分かりにくい授業で寝てはいけないのだろう。
そんなことを思いながらも、守って過ごしていた。反抗するわけでもなく“普通に”過ごしていた。

高校を卒業して数年経つが、未だにあれらのルールは謎だったと思う。
これ以上色々と書きすぎると「規制の中で自由を学ぶためだ」「社会について学ぶためだ」「ルールは守るためのものだ」と“まともな人”が出てきそうなのでやめておく。
ルールを単純にルールだと受け入れられる人はスゴイと思う。尊敬はしないが、ただただスゴイなーと思う。
僕の場合は、そのルールの「意味」や「理由」を知りたくなる。
いちいち意味や理由を考えてしまうのだから、生き下手なのだろう。だからといって生き上手になるのはやめているし、なれないだろうから諦めている。
たぶんこれが僕なのだろうし、この「なぜ」がなくなってしまうと僕ではなくなる気がする。

そして、そんな僕の「なぜ」を話す場所が、このnoteという場所なのだろう。これまでも沢山の「なぜ」を話してきたし、これからも沢山の「なぜ」を話すと思う。こんな僕のnoteをいつも読んでくれる皆さんに感謝だ。

まだ20歳なのに4歳のいとこを見ていると「この子が大きくなる頃には、もっと生きやすい社会を作ってあげないとな」と思うことがある。僕1人で社会を変えることなんて出来ないけれど、なぜかそんなことを思うようになった。もうただのオッサンだ。
生き上手になれないオッサンだ。
だから“良いオッサン”っぽい言葉で終わろうと思う。
僕らで未来を良くしていこう。

いつも読んでいただきありがとうございます!☺️