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上京して半年。

「キーン」と耳を鋭く“あの音”が襲う。いつも不意打ちで仕掛けて来るから、有名人が週刊誌に撮られる時もこれくらい急なのかもしれない。
渋谷を歩いていると、モスキートーンを鳴らしているところがある。「ああ!」と同時に声を上げて“あれ”が来たことを確認し合う。
そして早歩きで離れる。
東京にはモスキートーンを流している場所が所々ある。僕の地元にはなかった。
流している理由は幾つか想像できるけれど、僕にとってメリットはない。
ただ、僕は1人だとAirPodsをしながら街を歩くからモスキートーンに気づくことがない。
モスキートーンが聞こえるのは、誰かといる時で、それは“1人じゃない”を証明している。

いつか聞こえなくなってしまうのだろうか。
モスキートーンを嫌がり「今来てる!鳴ってる!」と笑い合うこともなくなり、気づかなくなるのだろうか。

すべてのものは変わっていく、そう思う。

「久しぶりに会った人が昔と変わっていないと嬉しいよね?」
友人がそう言っていた。
たぶんそれは“安心”するからで、自分の好きだった感じの人が“その感じ”のままいてくれたら、そりゃ嬉しい。
だけども、変わってても僕は良いと思う。
「うんうん、まあ変わってたとしても良いなーって思う。そりゃ、気が合わないくらい変わってたら寂しいけどね(笑)」と答えた。

東京に来て、天津飯の味付けが違うと知った。王将で天津飯を頼むと「どの味にしますか」と言われ、オドオドしてしまった。
東京に来て、電車代が地方より安いと思った。水道光熱費にヒーッ!となっている僕には有難い。
東京に来て、いや、社会人になって、全てのものが自己管理になった。
変わろうとしなくても、近いものも遠いものも変わっていって、「環境」のスゴさにポカーンとしてみる。
顎が疲れるまでポカーンとしたのなら、自分にとって何が幸せか考えてみる。と言ってみたものの、最近はそんな時間を取っていない。
だって幸せだから。

幸せを見るのが得意になった。
“ここにあるもの”を見ると、幸せであることを直視できる。
数年前までそれが下手くそで下手くそで、本当に下手くそだった。
もちろん今だって、頭がぐるぐるして「あー、やだなー」ってことは沢山あるけれど、幸せだと認識する時間は大切にしたい。そうしなければ、僕は、ないものねだりにすぐ苦しめられる。

変わっていく友人だって、変わっていく環境だって、面白がっていたい。
いつだって天津飯の頼み方が分からないままでもいいし、分かってもいい。
変わることを面白がれる余裕を持ちたい。
あ、東京の電車は安いままが良い。

街を歩くと、不意打ちで鳴る音に耳を塞ぐ。
顔を合わせて「まただね」と確認し合う。
そんな取るに足らないコミュニケーションが心地いい。別に何も変わらなくていい。この時間が永遠と続けばいい。
どんな背景だって無視して、そこにいる人たちで時間が流れればいい。そんなことを思う頃には、また別の何かが変わっている。
ポカーンとしているうちに、すべての何かが変わっていく。知らなくていいことを知って、勝手に寂しくなったり、余計なことを考えたりする。それらを手でパッパと払えるほど、人は都合良くできていない。
だけれど、聞こえていたはずのものが聞こえなくなったら、その時に思いっきり悲しもう。だから今は、この時間を楽しもう。そう自分に言い聞かす。
だって、幸せなのだから。
また「キーン」と鳴る。
ああ、まだ聞こえてる。


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