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「でんでらりゅうば」 第21話

 そのとき、突然背後から物音がした。ゴト、ゴト、というその音は、玄関の正面にあるクローゼットのなかから聞こえてきた。段々近づいてくると、敷板のようなものの上を誰かが歩いている音であることがわかった。
「!」
 安莉は恐怖に弾かれるように、咄嗟とっさに玄関に上がると、でき得る限りの速さで階段を駆け上がった。そしてドアを閉め、内側から鍵をかけた。
 階下に聞こえるその音は、どんどん近づいてきて、大きくなり、人の実態を感じさせるまでになった。ギイ、とクローゼットの扉を開ける音がすると、誰かが出てくる気配がした。そして、ゆっくりと階段を上がってくる足音が聞こえた。
「……何……? 来ないで……」
 震えながら、祈るような気持ちで目を閉じた。
 足音は、階段を密やかに上がってきた。ゆっくりとだが、確信を得たような歩の進め方だった。安莉は鍵をかけたドアを両手でしっかり押さえながら、得体のしれない恐ろしさに耐えていた。
 ガチャ、と、鍵を開ける非情な音がした。相手はこの部屋の鍵を持っている。安莉はゾッとした。あのクローゼットは秘密の抜け穴になっていて、侵入者はそこから出入りしていたのだ。
 ――あの抜け穴から入り込んで、鍵を使ってドアを開けて、あの紙切れを置いていったんだわ――。
 そう思うと、益々血の気が引いていくような気がした。そして、抑えようとする安莉の努力も虚しく、強い力でドアは押し開かれた。
 
 ――そこには、恐ろしい形相の人間が立っていた。いや、人間と言っていいのかどうか、安莉にはわからなかった。肩を覆うほど伸びた一本残らず真っ白な髪、まるで死人のもののような青白い皮膚、昔の病人が着るような白い木綿の着物と羽織を着て、足袋を履いている。狐の口元のように先へいくほど細く尖った顎は、人の気持ちなど通じ得ぬ異界のものの怪奇を感じさせ、その上こちらを見据えている目は、血の涙を浮かべているかのように、白目から瞳まですべて塗りつぶしたような、禍々まがまがしい真紅色をしていた。
「…………」
 本当に恐ろしい思いをするときには、人は声も出ないものだ、と、そのとき安莉は初めて知った。全身を痛いほど駆け巡っている悲鳴とおぞましさは、どうやってみても、喉から声として出すことができなかった。
 その人間は、表情のない鮮血のような色のまなこで安莉をねめつけ、その迫力でもって居間の隅まで後ずさらせた。すとん、と、転ぶように安莉が床の上に尻餅をつくと、その向かいに来て儀礼張って正座をした。
「俺が、恐ろしいか」
 男は言った。血の涙を浮かべたような目をして、けだもののような、妖怪のようななりをしているが、言葉を発すると、それが普通の人間の男のものだということがわかった。
 安莉はまだ声を出せず、瞬きさえできずに、動作だけで微かにうなづいた。
「こんな姿の俺が目の前に現れたら、怖がるやろうと思っとった。顔見ただけで、気絶されたけの」
 男は続けた。
「もしかして、あのときの……?」
 杏莉は言った。以前浴室の換気窓から覗き込んでいた赤い目を思い出していた。
「覚えとうや?」
 安莉は無言で何度もうなづいた。
「そうたい。やけん、もう二度とお前を脅かしたらいけんと思うて」
 声を聞くごとに、男への恐ろしさが薄れていった。それは不思議な感覚だった。この異形の者は、思いのほか心ある人間なのかもしれなかった。
「やけん、お前のおらんところでこっそりメモを残して、できるだけ早う逃げさせようとしよったんよ」
「……逃げさせる……?」
「そうたい。余計な詮索しよると、村んから何をさるっかわからんたい。気がついて逃げようとした者には、あいつら態度変えよっけな」
 男は、これまでに村人たちにあらがって犠牲になった先住者たちについて語った。
「いいか、攻撃しようとすれば、攻撃さるっど。おとなしゅう、何も気づかんふりしとるのが一番たい」
 あの口紅の持ち主であった女は、村人の思惑に気づいて逃げようとして捕まり、ひどく抵抗したので殺された。ダウンジャケットの持ち主の男は、追手を振り切って逃げたが、山のなかで迷って凍死し、雪に埋まっていた。
「村んなかにはいっつも誰もおらんやろ。畑仕事しよるって言われとうやろ? あれは嘘たい。半分ん人間は本当に畑に出とうけど、もう半分は、たいがい逃亡者の痕跡、、を探しに出とうとよ」
 山のなかで万が一誰かに死体や遺留物が発見されるようなことがあれば、村で行われていることが公になってしまう恐れがある。それを隠し通すためには、村の人間はどんなことでもするというのだ。
「あんたん前は、二人だけやないったい。もう代々、昔っから、何十人も犠牲になっとるとよ」
 誰ひとり、生きてこの村から出られた者はいなかった。冬に逃げた者は大抵雪の下に埋まっているので、春になって捜索に出た村人が見つけると、地面に穴を掘って誰にもわからないように埋めた。または、逃げる途中で追手に捕まり殺されると、その場に穴を掘って埋められた。
 帰らない者を探しに家族や友人が村を訪れることもあるが、村人が本当のことを喋るはずはない。
 安莉は恐怖に打ち震えていた。村に人間が見当たらないのは、日常的にそんなことを行っていたからだったのだ。
「いっとき皆で寄ってたかって訪ねてきよったろ? あれは、あんたに親しい身内がおらんのを確かめるためやったたい」
 男はすべてを見透かしているかのように言った。
「情報入れてくれる者も、俺にはおらんわけやないけんね。……村長むらおさなんかは、実際は俺の味方たい」
 気味悪がって、安莉が早く村を出ようとすることを期待して、抽斗の奥に口紅を忍ばせたりクローゼットにダウンジャケットを架けておいたりしたのだが、上手くいかなかった、と男は言った。
「……それにしても、最初から、罠にかけようとしていたっていうわけね」
 安莉は茫然として言った。にこやかに話しかけてくる村人たちの、ひとりひとりの顔が浮かんだ。
「もう誰も信じられない……」
 安莉がうつむくと、男は悲しげな顔をして眉間に皺を寄せた。
「俺のことは信じられるか? お前を助けようとしよったとよ。あの紙を見たか?」
 必死に励ますように、男が言う。安莉は顔を上げた。
「見たわ。すごく怖かった。……でも、それで、あの紙に〝詮索するな〟とか、〝おとなしく生活していろ〟とか書いてあったの?」
「そうたい。言葉が足らんかってすまんかった。俺んとこには筆記具がないけん、ここに来て、お前の紙と鉛筆使って書かんなんとやったけん、時間がなかったたい」
「筆記具がないって?」
「書かせてもらえんとたい。俺は、生まれたときから座敷牢に閉じ込められて育った。星名せいなの跡取りやとに、頭も体もどっこも悪いところはなかとに、こげん外見で生まれてきたけんが、世間の目から隠されたたい。子どもんころから、誰にも会わんと、キツイ生活してきたたい。夜の間しか外に出してもらえんような生活よ、想像でくっか? 
 そんなやったけ、いっぺん俺が、自分の窮状をみんな書いて、県庁に直訴状を送ろうとしたことがあったたい。それをあの阿畑んやつが、検閲みたいなことしやがって、差し止めて焼き捨ててしもうた……。そんでそれ以来、俺は何ひとつ筆記具を持っちゃいかんことになったたい」
「そんなことって……信じられない!」
 安莉は顔をしかめた。この二十一世紀の世の中に、そんな人権侵害のようなことが許されるわけがない。だが、目の前の男は安莉を気の毒そうな目で眺めてこう言うのだった。
「この村んなかではな、村のためやったらどんなことでもまかり通るたい」
「村のため……」
 青ざめながら、安莉は応えた。それでは、自分が建物ごと雪のなかに埋められたのも、村のためということか。だがいったい、村のためとは何なのか? なぜこの村は、人を監禁し、抵抗する人間を殺すのか。

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