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静寂の西瓜、脆弱な私

終戦記念日に思いを馳せて

今年、初西瓜。夏の想い出。備忘録。

戦争と映画。

ひいおばあちゃん。

8月15日 ⸺

普段は自ら好んで西瓜を食べることはないのだけど、実家にあったから食べてみた。神経質でもあり面倒くさがりの私にとったら、種を避ける作業に若干の苛立ちを感じた。だから、東京の1人暮らしの家では絶対に食べない。

でも、その作業に集中していたお蔭で8月15日が終戦記念日であることに気付いた。マインドフルネスってやつ。普段ヨガはやっているけど、まさか西瓜の種取りでマインドフルネスになれるとは思ってもみなかった。

マインドフルネスとは、「今、この瞬間の自分の心身・周りの状況に集中し、自分の思考・感情・行動などについて善悪の判断や評価をせず、ありのままを観察する方法」という意味。

いつもは考え事のしすぎで迷路のようになっている私の頭の中は、スイカのお陰でとても静寂になった。そして、戦争の被害にあった曽祖父と曾祖母に思いを馳せた。

地元の高校で校長先生をしていた曽祖父は戦争で亡くなったらしい。英語の教師をしていた曽祖母はそれがキッカケで生活に困り、知り合いのお金持ちだった家系の名字を引き継いだ。名字を引き継いだだけで、再婚をした訳ではない。当時の戸籍法はよく分からないが、どうにかしてそうなったらしい。それが私の家系のルーツ。

そんな曽祖母は10年前に100歳を迎える手前で老衰で亡くなった。とても立派な終え方だと思う。それ故、悲しいという気持ちで涙を流すことはなかった。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいだった。曽祖父の姿は写真で何度か見たことがある。そのセピアに染まった写真は、曾祖母の思い出話と共に色んな感情を魅せてくれた。

私は歴史的な事実と、曽祖父が亡くなったという事実しか知らない。そんな表面上の理由だけで哀しいと思っている自分は、曾祖母に対してとても失礼なのではないかと時々思っていた。なぜなら、その写真を見ながら話す曾祖母はいつも笑顔だったから。そのことに関して、曾祖母の哀しい表情は一度も見たことがなかった。よく、「恩給があったから助かった」と話してくれた。いつも通り、同じ話を何度もする曾祖母を愛しく感じる瞬間でもあった。

もし、曾祖母があの時あの選択をしていなかったら?1秒でも選択に迷っていたら?

私は今ここにいなかったかもしれない。

最愛のパートナーを戦争で失くした喪失感は計り知れない。今この時代に生まれた自分は今後も戦争を体験することはないと思うし、だからその喪失感の属性を探り当てることができない。将来的に親や妹、その他の近い身内を亡くすことは必然であっても、曾祖母が感じ得た喪失感を味わうことは絶対にない。

そう思うと涙が止まらなくなった。本当に哀しくて切ない。そして、溢れんばかりの涙と共に感謝の気持ちも止まらなくなった。未来永劫に私たちが幸せに生きていられるように、よくぞ家系を守り抜いてくれたと。

時代柄、残された家族共に自害する選択もできたと思う。それでも少しの希望も捨てずに100歳になる直前まで生き、老衰で亡くなった曾祖母はとても立派だ。

そんなふうに曾祖母の生きた証に思いを馳せると、自分がどんなに脆弱かを感じることができた。いつも些細なことで悩み、涙していたんだなと恥ずかしくも感じた。私が常に恋愛で悩むことなんて、曾祖母の経験からしたら毒にも薬にもならない。

今後の人生で何があったとしても、曾祖母が経験したことより絶対に辛いわけがない。それが確定している時点で、何事も乗り越えられると強く思った。

そして、映画『夏の終わりに願うこと』を観て、身内の死と向き合うリアリティを改めて痛感した。7歳の少女が、余命が長くない父親との最期の夏を静寂と共に体感するストーリー。なんとなく、物静かなその少女に自分の幼少期を重ねてしまった。子供ながらに周りの大人に甘えたいという純粋な気持ちと、外野からの言葉に「こいつら何言ってるんだ?」ってなるやつ。子供でも、大人さながらの意志をちゃんと持ってる。私もそんな少女だった。

大切な人が死に際に教えてくれることはたくさんある。その人がくれる愛を如何に噛みしめるか。そこには、哀しんでいるだけの暇はない。色んな感情を故人になり得る人と、これでもかというスピードで味合わなければいけない。まるで、パラレルワールドに連れて行かれ、時空が歪みまくっているかと言わんばかりのスピードで。

その映画と曾祖母は、身内を亡くすことには哀しみ以外の気持ちも確かにあると教えてくれた。私の傍に曾祖母のような素敵な女性がいてくれてよかった。夏の終わりに、そんな素敵な映画にも出逢えて良かった。次に身内を亡くした時のための心構えができた気がする。年齢的にも次は誰になるかは分からないけど、感情の予行練習みたいな。

でも、もっとたくさん話したかった。

ばあちゃん、ありがとう。これからも不器用で脆弱な私を見守ってね。今日も明日も明後日も、この静寂の中で頑張って生きるね。