ムダなもの多すぎてない? (1)経済と精神/不破静六
これから5回に渡って「無駄なものから離れて本質的に生きる」といったテーマで連載をしていく。
第1回目の本記事は、次のような読者に向けて書いたものである。
貯金ができなくて困っている
物欲が止まらないので何とかしたい
稼げずにヤキモキしている
これらの悩みについて直接的な解決方法を示すことは不可能だが、心の持ちようをいくらかでも変えるきっかけとなったら幸いである。
ブッダの弟子・目連の最期
泣く子も黙る仏教の始祖ブッダの周りには、十人の有名な弟子が集まっていた。その中に、目連(もくれん)と略称される、摩訶目犍連(まかもっけんれん)がいる。
彼はもう一人の舎利弗とともに、ブッダから最高の信頼を受けた弟子とも言われている。特に神通力に優れており、神通第一との呼び名もあるほどだ。
そんな目連の最期は壮絶なものである。
この逸話に対する久留宮氏(インド哲学者)の解釈は以下の通りである。
つまり、良いことをしたとしても、それがすなわち徳を積むことにはつながらず、むしろ前世からの悪業の結果生じた好ましくない現実を受け入れるのが大切だということだ。
目連ほどの偉業はできないにせよ、例えばお金がないと右往左往する悩みを捨てて、その事実をまず正面から受け止めて、現状のままで最低限の暮らしを甘んじてみる。
不足で不便な生活から新たな知恵と創造が生まれ、それがより良い人生のきっかけとなる。
ゴミから縫い合わせた糞掃衣
曹洞宗の祖である道元が著した「衆寮箴規」は、禅宗のお坊さんがお寺での共同生活でどのように過ごすべきかを教える規則集である。
この中に次のような記述がある。
つまり、お寺での生活ではお金などの不浄な財を蓄えてはならないと述べている。ブッダの弟子である迦葉尊者の例をあげて、彼は元々無類の大金持ちだったにも関わらず、出家した後は髪は伸び放題で糞掃を身にまとい、乞食生活を死ぬまで続けていたと教える。そうした高名な僧でさえそうなのだから、君らがこれを守らないことなどあり得ようか、というのである。
糞掃もしくは糞掃衣(ふんぞうえ)とは次のようなものである。
東京国立博物館には、日本最古の糞掃衣が保管されている。
物欲というものは、この世に対する執着から生まれる。
より良い生活をしたい、もっと魅力的な人物に思われたい、そうしたこだわりは死ぬまで終わることがなく、人は無限の欲望地獄に閉じ込められる。
自らの理想を掲げ、それに向かって努力することは素晴らしいことだが、地に足のついていない夢想を背負いこみ続けると心身ともに疲弊してしまう。
時には糞掃衣のことを思い出し、家の着古した服をバラバラに切り刻み、自分でリメイクしてみてはどうか。
それによって、お金に代え難いつくる喜びを見つけることができるかもしれない。どうでも良いと思っていた服が新しい命を帯びて、あなたに訴えてくるかもしれない。
そうしたリメイク品に触れた時、ふと心に清々しい風を感じるだろう。
またそうした古着をリサイクルしたものを手に取るのも良いだろう。たとえばこちらのブランドは如何?
捨てられた衣服から生まれた袈裟や、信念を貫いた目連の死が教えるのは、苦難を乗り越えて得られる心の清浄と解脱である。
生の苦悩や社会の矛盾に直面しながらも、それらを超越したときに初めて、人は内なる純粋さを取り戻し、本当の意味での自由、すなわち解脱に到達することができるのだ。
辛いことにぶつかった時、すぐに楽な方向へ流れるのではなく、例えばちょっとした瞑想を試して、困難に立ち向かう勇気を養うなどしてみたい。
フィリピンに比べ豊かであるが…
そうした苦難に耐える姿勢は、何でも手軽に手に入る現代日本においては特に重要に思える。
写真家の橋口譲二は、日本に住む17歳たちの姿を捉えた写真集を発表した。
その中に、フィリピンと日本のハーフの子のこんな言葉がある。
豊かな国ではハングリー精神がしぼむ。
少なくとも2000年代においては、日本はフィリピンに比べ豊かであった。
こうした欲しいものを手軽に手に入れられる環境には感謝すべき。
しかし、それは同時に、物事があまりに容易に達成できるために、私たちの労を軽視してしまう危険性をはらむ。豊かさが、かえって行きすぎたお荷物となってしまいかねない。
物質的な豊かさがもたらす楽さに慣れ過ぎてしまうと、人間としての精神性や努力する心が緩んでしまう。
人工知能が発達し、ChatGPTやStable Diffusionなどの生成AIが社会にとってなくてはならない存在となりつつある超現代。
敢えて困難や不便な道を歩むような、人間性に根付いた確固たる哲学的修練が求められている。
アダム・スミスの「見えざる手」
豊かさの本質に迫るため、いちど古典経済学の源流にさかのぼってみる。
各個人が私益に基づいて行動することこそが、市場経済全体で見れば公益を利することにつながるという。
その際、個人は決して好き勝手に振る舞うというのではなく、あくまでも自分の利益が最大限になるようリスクも熟慮した上で行動するものと想定されている。
思想家の千坂恭二氏は、次のように述べる。
あるがまま、お金が流れるままに任せるのが本来あるべき姿。
それに抵抗して、たくさんの金銭を自分のもとに集めて貯蓄しようとか、あるいは逆に自分の欲望の赴くままに手持ちを消尽してしまうとか、そういった人為的な営みは自分の首を絞める。
江戸時代に書かれた『町人常の道』には、商いの本質が次のように説明される。
江戸時代の商人に広まったこの思想は、アダム・スミスの理論とも通底する部分がある。
足るを知ることができぬままでは、経済の豊かさが逆に人々を怠惰にさせ、精神性の衰退を招くというパラドックスに直面する。資本主義が見せる豊かさの夢を盲信すると、結果として思想的努力や危機管理能力がゆるんでしまう。贅肉を落としたスリムな、そして生命力に満ちた経済哲学が渇望される。
まとめ
目連はすでに決まった運命に甘んじて殉教した。迦葉尊者は仏道に入って執着心をドブに捨てた。
経済と精神性の複雑な関連性は、物質的な豊かさとそれに伴う社会的病理、それとは対照的な廃棄物から産まれる精神の浄化を通して、私たちに何物かを示唆する。
経済的に豊かな社会における分かりやすい豪奢さといったものより、苦難を乗り越えた先に得られる心の純粋さや解脱こそが、真に価値があるのではないか。
外側に目を向けて物欲に駆られる前に、まず内側を見つめ、捨てられる物に想いを馳せよ。
そして金銭の動くがままに任せて世を渡る。
貯金がなくとも、大金を稼げずとも、成り行き任せでじっと現在に向き合えば、いずれは風向きが変わる。その営みが、やがては社会全体の公益を増やしていく。
たえず流れ続ける。それがお金の宿命なのである。
【註】
(*1) 目連の最期については、以下のサイトを参考にした。
次回は「ムダなもの背負いすぎ? (2)恋愛消費」を1/27(土)に更新予定。