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毎日更新、しんどいです
ここ最近、noteの日記を毎日更新しようと頑張っていたのだけれど、もう既に苦痛を感じはじめている。
思い返せば、なにかを毎日継続することが昔から苦手だった。多分、「飽き」に対する耐性が異様に低いのだと思う。
毎日の継続があるからこそ、過去の自分という相対的な比較対象が生まれ、自己変革の原動力を得ることが出来る…という理屈を解ってはいるのだけれど。どうしてもその前に「飽きた。もうこれ以上やりたく
終わりのない個人への責任追及
「責任の追及は、個人ではなく仕組みに対して行うべきだ」という言説を聞くことが、ここ最近多くなった気がする。
この言説自体にはおれも賛成なのだけど、ニュースは常に個人への責任追及の話題でいっぱいで、その結果SNS上では行き過ぎた誹謗中傷が飛び交う世紀末と化している。責任追及自体の是非を問うような風潮は、ほとんど見られないように思う。
ふと思ったのが、"感謝"と"責任追及"は表裏一体の関係なのでは
現状維持のための変化
ここ最近、新しいことに首を突っ込んで自分から自分の首を絞めにいくケースがとても多い。一昨日の日記で書いた仕事もそうだった。
本当はのんべんだらりと暮らしていきたいけれど、同じことを繰り返してばかりだと、じわじわ世界に取り残されて実生活にも支障が出てきて、のんべんだらりと暮らしていけなくなるというジレンマ。
成長のための変化ではなく、現状維持のための変化を起こそうとして試行錯誤を繰り返している。
嘘という手段を持つ幸福
昨日、実家で夕ご飯を食べていた時のこと。インターホンが鳴ったので出てみたら、プロバイダ切替の営業さんだった。「電線の工事が終わって通信速度が上がったが、いまお持ちのルーターだと残念ながらその性能を100%発揮できない。その切り替えのご案内に伺いました」という感じの、ありがちなトークスクリプトを披露してくれた。
しかし驚いたのは、その営業さんの話し方や雰囲気。若くて男前で、喋り方がハキハキと気持ち
哲学対話の開催をやめた理由
1年ほど前から今年の5月まで、「はじめての哲学対話」「大阪ゆる哲学対話」等の名前で哲学対話を主催していた。が、今年の5月をもって開催をやめることを決めて、先に11月まで予約していた会場もすべてキャンセルした。
おれはなぜ哲学対話の開催をやめたんだろう。面倒、億劫、飽きた・・表面的な理由はいろいろと思いつくが、根本の理由は「他者とはけして相容れない」ということを1年かけてようやく納得できたから、と
理不尽によって生かされている
「自分ができないことを人にやらすな」という不満がある一方で、使用者目線で考えれば「自分ができないことを人にやってもらわないと組織を拡大or維持できない」というのも、れっきとした事実なのだろうなと思う。
組織という仕組みは、そもそもの存在原理自体が理不尽なのだなと気がついた。一方で、その理不尽への対処という役割に欠員が出ると、別の人員がそこにあてがわれる。つまり、経験したことのない仕事に挑戦する機
感情を交えず淡々と?
先日、上司が口にした「俺は感情を交えずただ事実だけを淡々と話してるだけ」という主張、未だに違和感を覚えている。というのも、彼の話し方は「感情を交えない」というよりは「無表情」に近くて、聞く側からしてみると結構な威圧感があるからだ。
感情を交えない理由は「私情を挟まないことで事実をスムーズに伝達するため」だそうだけれど、逆にその無表情によって聞く側が委縮してしまって、伝達がうまくいっていないケース
感情から怒りが消えると、後には「暇」だけが残った
振り返ってみると、小さい頃から俺は自分の「怒り」の感情に苦しめられていたと思う。
周囲の理不尽に対する怒り。自身の不甲斐なさに対する怒り。思い当たる怒りはたくさん出てくるけれど、その怒りをうまく利用できた記憶はあまり思い出せない。大概、自身の怒りに翻弄されて、当たり散らかすかのごとく行動することが多かったように思う。
そんな俺のここ最近の行動方針は、専ら「怒らないこと」であった。俺の人生におけ
仕事とは「道端に落ちているうんこ」である
自分には先延ばし癖がある。
子どもの頃、夏休みの宿題を期限内に終わらせられたことは一度も無かったし、現在に至っても仕事そっちのけでYoutube見たり漫画見て無為に時間を消費してしまう。そして、期限当日にキレ散らかしながら死ぬ気で徹夜してなんとか間に合わせるという行き当たりばったりな生活を、大人になってからも懲りずにずっと続けている。
こんな自分に対して「いつまで経っても学習しないアホ」と自己
生きる意味も目的もわからない
生きる意味も生きる目的もわからない。
「いずれは必ず死ぬ」と考えると、すべてが無意味に思える。
でも不思議になことに、まったく辛くはない。
生きる意味がわからないというより、見出す必要が無くなったんだろうか?
これまでは「死」という絶対的な存在を受け入れ難かったので、(時に苦しみながら)生に意味を見出そうとしていた。
それが、「死ぬのも意外と悪くないじゃん」と感じる現在に至っては、生に意味を