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読書感想 『ヘンな日本美術史』  「表現の本質」

 著者は、現役の画家でもある。

 1990年代に「コタツ派」という展覧会で作品を見て以来、ずっと描き続けている印象がある。

 そのうちに、新聞広告などでも作品を目にするようになり、時々、テレビなどで話をしているのを見ることもあるから、気がついたら著名なアーティストになっていた。

 こうした展覧会↑も一見、柔らかいというか、分かりにくいようなタイトルがあるものの、そこでは特に明治以来の日本の美術について本質に迫るような試みがされていたし、この「ヘンな日本美術史」も「ヘン」という言葉がついているものの、それは、謙遜というか、あたりを柔らかくするための工夫であって、その内容は、やはり「表現の本質」といえるものだった。


『ヘンな日本美術史』  山口晃

 この本は、カルチャースクールで話された内容をもとにしているというが、そこに出てくる作品や、作者たちが、それこそ「日本のふるい絵」であり、「昔の絵描き」であるにも関わらず、その距離感がとても近い。

 というよりも、作品として現存している限りは、あくまでも「現役の絵」であり、まるで「現役のアーティスト」として、著者の山口は書いているように思えてくる。

 例えば、誰でも一度は教科書などで見たことがあるはずの「鳥獣戯画」について、著者は「上手さ」が目についてしまって好きではなかったという正直な感想から、実物を見て、その印象までが変わったという話から始まる。

「鳥獣戯画」の一番の面白さというのがどこにあるのかと云えば、それは構成の妙でしょう。甲乙丙丁の四巻一揃いで見る事により、現実と空想が混じり合う、この独特の世界を堪能する事ができます。 

(「ヘンな日本美術史」より)

 最近は否定されているが、日本のマンガの始まりなどと言われている「鳥獣戯画」が、そういう面白さを持っていることも知らなかったし、この作者として「鳥羽僧正」という名前もどこかで覚えていたのだけど、今はそれ自体が根拠が薄いものであり、それよりも、複数の人が、それも完全に同時期ではなく、最初の絵巻に、時間が経ってから、あとの作者が次の絵巻を描き足していく、というスタイルで描かれた作品ということも、初めて知った。

 要するに、近代以降の絵画では前提とされている「作家性」が前に出た作品の在り方ではなく、そういうものは割とどうでもいいと考えられている訳です。これらを描いた人たちも、恐らくそんな事はどうでもよかったはずです。
 複数の人が参加していって、結果として一つの作品とされる。後から描いた人は、同じ「鳥獣戯画」と呼ばれて一括りにされるとは恐らく考えていなかったでしょう。

(「ヘンな日本美術史」より)

 こうしたことは「ふるい絵」に関してのことのはずだけれど新鮮だったし、それらを知った後では、おそらくは「鳥獣戯画」も違って見えてくるのは間違いないと思えた。

現代とのつながり

 著者の思考はかなり自由にあちこちとつながる、というよりは、著者本人が現役の画家であるため、その作品を通して、過去も現在も同じように考えられる、ということかもしれない。と読み進めると思えてくる。

 例えば、墨の線と塗りだけで描かれた上に、詞書、というその場面の説明として文字までもが画面の中に共存する「白描画」について、こうした論が展開されている。

 画面の中に空間を構成するために様々な技法を凝らすと云うよりは、意識が画面の外に出ていて、画面そのものを作り出す方に意識が行っている。言うなれば、一段上の視点から見ている訳です。
 絵を見る人の意識が画面の外とつながっていたとも言えるもので、そのように考えると(こういう言い方は嫌なのですが)、非常に現代的なものです。
 けれども、こうした方向が良い面ばかりと云うとそうでもなくて、現代は逆に外に出ようとしすぎて行き詰まっている感じもします。喩えるならば、みんながスタジアムの中で野球などのゲームをしていて、昔はそのゲームが作品として成立していました。しかしある時、誰かがスタジオから解説者がゲームを評している事をひっくるめて作品化しました。それが、サインをしただけの便器に「泉」というタイトルをつけて作品として発表したマルセル・デュシャン(一八八七〜一九六八)だったりする訳です。
 一度その方向が生まれ、皆に「やり方」が分かってしまうと、今度はその外側、さらにその外側……と、どんどん外へ外へと向かう。そうした側面が現代美術の不幸な所でもありまして、そのうちにこれ以上行く所がなくなり、みんな地球の裏側により集まらざるを得なくなって、そこで窒息死するのではないかと私などは踏んでいる訳です。


 その点、白描画絵巻と云うのは、一方で画面の外の視点を獲得しながらも、中側の視点でも新たな領域へ踏み込んでいる。それが詞書と云うものです。この詞書があることによって、全く違う次元の空間が立ち現れてくるのです。(中略)
 文字情報を入れたいだけだったら、文字の部分だけ隣にでも貼り付ければいい訳です。
 にもかかわらず、文字を絵に取り込み、さらに行くと文字で絵を描いてしまう。

(「ヘンな日本美術史」より)

 こうして著者の思考は、「白描画」を起点として、何百年もの時間を行ったり来たりしているが、様々な異論がすぐに出てくるのは予想がつくものの、この引用部分の中の「現代美術」の「外へ外へ」という指摘は、現代美術が好きで見ている人間にとっても、納得がいく指摘だった。

表現の本質

 さらには、さまざまな作品を語り、そこから少し逸れているようにも思えながらも、やはり、「表現の本質」に関するような言葉も、この書籍の中に、ごく自然にあちこちに散りばめられている。

 例えば肖像画について。

 手間を一〇掛けられるとして、それを満遍なくやろうとすると、その絵は全体の完成度が五くらいにしかならない。同じ一〇の手間のうち、顔に八を掛けてその他の部分は残り二でどうにかしたものの方が、完成度は七、八と上がってくるのです。
 極論してしまえば人物像は、顔、そして余力があれば手を描けば何とかなります。

(「ヘンな日本美術史」より)

 また、美術教育に関して。

 普段絵をあまり描かれない方に接すると、「上手く描けないから」と自分の絵が下手である事を恥じている一方で、少し絵をかじっているくらいの人の「小上手い」絵を絶賛していらっしゃるのを見かけます。それを見るにつけ、私はこの国の美術教育は間違っているのではないかと心底思います。
 実はこうした中途半端な「上手さ」と云うのは、プロから見れば一番どうしようもないもので、それならば下手さを受け容れて好きに描いていた方が余程マシです(もちろん、技術的に途上であることがいけないと申しているのではありません) 

 日本の美術教育はせいぜい中学までで、高校へ行くともう選択制で、大人で学ぶ人はほとんどいません。
 ですから、ある中途半端な部分だけを教え込まれる。もう少しトータルで、社会的な教養にしていかないと、絵と云うのは多くの人にトラウマとしてか残らない物になってしまって、こんなすごい宝があるのに気付かないことになってしまう訳です。それは非常に勿体ない事です。

(「ヘンな日本美術史」より)

 そして、「洛中洛外図」などの俯瞰図に関して、自らも画家であるからこその言葉をつづっている。

これはどこかから見たままを描いた絵ではあり得ません。様々な視点から見える風景を飲み込んだ上で、それらを合成して描いた「地図」なのです。地図と云うのは、見なければ作る事ができないものではありません。 

(「ヘンな日本美術史」より)

 絵描きは基本的に嘘つきです。ただ、その嘘は観た人の心の中にこそ、「本当」が焦点を結ぶように事実を調整した結果なのです。どれくらい上手に嘘をつくか、嘘をつく事で自分の描きたいものをどれだけ表現できるかと云う事を追求している。
 それを現実の風景だとして、どこから見たものなのかを追求することは、私には余り意味のあることだとは思えません。(中略)今でもたまにテレビ番組で、ヘリコプターまで出して「天橋立図」は」どこから見たものなのか?と云ったものをやりますが、あれも私に言わせればヘリコプターに乗りたいだけなのではないかと……まあ、この辺で止めておきましょう。  

(「ヘンな日本美術史」より)

 さらに「新しさ」について。

 全く新しいことをやろうとすると、むしろ古さの方に取り込まれてしまう事が多い。これまでと全く異なる事と云うのは、比較する対象がありませんから、それを見た人は、既存の古いものの類型として判断せざるを得ないからです。
 それが悪いとは申しませんが、見る側と云うのは、自分のそれまでの経験に当てはめてしまう事が多いですから、そうなると無理やり「これは、あれの二番煎じだね」と云うような解釈をされてしまいます。
 その一方で、新しさを装った古さというのもある。ハリウッド映画などがその典型です。彼らは目先の「新し薬」をちょっと付けて、本当に古くさい、百年も前から同じ事をやっている。でも、多くの人がそれに手もなく飛び付いてしまうのは、それが必要とされていると云う所もあるのでしょう。
 ですから、新しさと云うものを分かるのは非常に難しい。インターネットなんかも最初に出てきた頃は、多くの人はその新しさが分かりませんでした。

 後の時代に名を残す人などが、若い頃には誰々の真似だと言われたり、できそこないなどと言われたりする事は結構あって、やはりそれらも新しさ故なのですが、その新しさが発見されるまでには時間が掛かる事が多いのです。

(「ヘンな日本美術史」より)

 そして、「画家の思い」について。

 そもそも、美しい絵を描こうと意識した瞬間に、その絵の到達点はぐんと低くなってしまいます。基本的に描く人間は絵の向こう側を思いながら描かなければ、まともな絵は描けません。
 描く前には、物凄い到達点が見えていて、そこに行きたいと思って描くのですけれどもーーそして描いている時には、そこに到達できそうだと思っているのですけれどもーー自分の技量や画材の不足などの原因で大抵はその遥か手前で終わります。
 描き終わってみれば、もうこのマイナス部分しか見えなくて、俺はまだまだなどと思ったりするのです。北斎にして「天があと十年、いや五年、命を永らえさせてくれれば、本物の画工となれただろう」と言ったと云うのは別に謙遜ではなく、描いている人間なら誰しもこう思っているはずです。

(「ヘンな日本美術史」より)

 ここで引用した箇所も、全体から見たら、ごく一部に過ぎない。

 日本の美術史に残るさまざまな作品や作者についてだけでなく、こうした「表現の本質」に関わる思考まで書かれているので、決して「ヘン」ではなく、むしろ「もう一つの正統」といってもいいとは思うのだけど、実作者である著者は、そうした大げさな言い方を好まないだろうから、こうしたタイトルになったと思われる。


 日本の美術に興味がそれほどなくても、何かしらの表現に関わっている人であれば、必読の本だと思います。
 そして読むことで、日本美術への見方も、おそらくは変わってくるのではないかとも思っています。






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