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【展覧会感想】 『梅津庸一 エキシビジョンメーカー』 東京・ワタリウム美術館    2024.5.12~8.4

 個人的なことだけど、アートに興味を持ち始めて、20年以上になる。それまで、全く興味がなかったのだけど、いわゆる現代アートを急に見るようになった。

 それは明らかに、この展覧会↑以降のことなのだけど、それ以来、言葉にすると恥ずかしい表現だと今も思うけれど、何しろ「ウソのない作品」を見たいと思って、今まで足を運ぶことがほとんどなかった美術の展覧会や、入ったことのなかったギャラリーにも行くようになった。

 それから20年以上が経つけれど、その間、ずっと作品を制作し続け、私のようなただの観客にまで届くほどの活動を継続している人は、それほど多くない。さらには、そのように活躍を続けているという表現が合っているとしても、初期の作品にあった切実さが減少してしまうことも、それが年齢を重ねたり、もしくは社会に認められる中での、自然な変化なのかもしれないが、かなり見てきたような気がしている。

 それらも含めて時間の経過や人間の成長や老化としか思えない変化のことも考えさせられてきた。


梅津庸一

 最初は何を制作しようとしているのか、何を伝えたいのか、ちょっとわかりにくかったのだけど、そのうちに、美術史とは何か?アートとはどういうものか?作品を制作するというのは、どんな意味があるのか?そういった、人によっては学生時代にしか考えないようなことを、ずっと考え続けているのかもしれない、といったように思えていたのが梅津庸一だった。

 梅津庸一は1982年山形県生まれ。東京造形大学絵画科卒業。ラファエル・コランの代表作《フロレアル》を自らの裸像に置き換えた《フロレアル(わたし)》(2004〜07)や、同じく自身がモデルとなり、黒田清輝の《智・感・情》(1897〜90)を4枚の絵画で構成した《智・感・情・A》など日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させた自画像をはじめとする絵画作品を発表。

(『美術手帖』より)

 さらに、アーティストを育てる、という意味合いもあって、最初は「予備校」という名称がついていた「パープルーム」を主宰して、アートグループ(という表現が正確かどうかわからないが)を10年続けているところが、とても困難なことだけに、とても特徴的なことだとも思っている。

 自宅で20歳前後の生徒5名とともに制作/生活を営む私塾「パープルーム予備校」(2014〜)の運営、自身が主宰する「パープルームギャラリー」の運営、テキストの執筆など活動領域は多岐にわたる。一貫して美術が生起する地点に関心を持ち、作品の内側とそれを取り巻く制度やインフラの両面からアプローチしている。

(『美術手帖』より)

 「パープルーム」の作品を見に、神奈川県相模原に何度か行ったこともある。

 そのあり方は、決してスマートというのではなく、アートのグループでありながら地に足がついた不思議な地道さを感じるから不思議だった。

変わらない姿勢

 振り返れば、コロナ禍でほとんど外出もしないで、だから、アートを見る機会がとても少なくなって、同時に、特に私設の美術館などは経営が危機的になり、そのことを知って、少しだけど支援をしたことがあった。

 その時に送ってもらった招待券で見に行けた展覧会が、梅津陽一の個展だった。

 この10年間は、主に「パープルーム」としての活動が多く感じていたから、その個人の作品の膨大さに、改めて作る側の人だということがわかり、同時に、制作し続けているから、「パープルーム」での活動も継続しているし、さまざまな美術をめぐる制度に対する批判も的確なことが多いのだと思った。

 そして、デビューして20年ほど経っているのに、これだけアートに関して、根源的に考えようとしているのは、貴重な姿勢だと思い、愚直なほど真面目なアーティストは、やはりとても稀だし、年月が経っても、その信念のようなものが持続しているのも、すごいことだと思った。

エキシビジョンメーカー

 梅津陽一が、時々、キュレーターとして展覧会に関わってきたのは知っていた。

 ただ、それこそコロナ禍だったりすることもあり、なかなか行くこともできなかったが、いつも「問い」を投げかけるような企画をしようとしていたらしい、というのは、そのレポートを読んでも、少しわかるような気がした。

 それは、とても一貫した姿勢でもあって、その成果については正確に判断する観客としての能力は足りないのは自覚しているけれど、でも、こうしてずっと美術史や、美術そのものに対して、根源的なところも含めて考えさせてくれるのは、観客としては、ありがたいことだった。

 そのときに行けなかったのが勝手ながら残念で、だから、今回、ワタリウムで梅津陽一がキュレーターとして関わると知って、それはうれしいことだった。

 日々、おびただしい数の展覧会が開催され続けている。即時性と話題性が常に求められ、みな自らの「独自性」を主張し差異化を図ることに必死だ。しかし、残念ながらその多くの営みは既存のインフラの上で平準化されたコンテンツとして消費され忘れ去られていく。そんなサイクルが固定化しつつある。無論、美術家である僕もその渦中でもがき続けてきた。
身もふたもない話で恐縮だが、この悪循環から脱するためには「作品をつくる」あるいは「展覧会をつくる」とは何か?そんな素朴で単純すぎるかもしれない問いから再出発するほかないのではないか。

 本展はワタリウム美術館の前身であるギャルリー・ワタリ時代の「知られざるコレクション」を軸とした展覧会だ。ワタリウム美術館にはいつも制度化される以前のアートの気配が漂っている。それは「未然のアート」と言い換えることもできるだろう。

 ところで、展覧会を企画することを「キュレーション」と呼ぶようになって久しい。けれども、昨今の「キュレーション」の流行により展覧会づくりの方法や落とし所はあらかじめ規定・拘束されるようになった。
そこで、本展ではアーティストキュレーターとして振る舞うのではなく「エキシビションメーカー」の精神に立ち返りたいと思う。いま一度、美術のいち観客でもある自分が見たいと思える展覧会と出会い直したい。

 作品同士が、そしてなによりも「あなた」とこの展覧会が良い出会いとなれば嬉しい。

                                 梅津庸一

(『ワタリウム美術館』ホームページより)

 これ↑が梅津陽一のステートメントとして美術館のホームページにも、展覧会の告知のためのチラシにも書かれている。

 こうしたどこか青臭いような文章は美術関係のメディアではよく見かけるような気もするが、そうした表現とは少し違って、自分をすごく見せようという意識は薄く、伝えたいことに対して、もっと真面目で本気で切実な気がするのは、その作品や、個展や、トークショーなどで、梅津の作品や言葉に接してきたから、観客として勝手にそう思い込んでいただけかもしれない。

 それで、やっぱり行きたくなった。

ワタリウム美術館

 土曜日の外苑前。

 やっぱり人は多い。

 駅はきれいになり、そこから歩く。キラー通り、という名称が目に入り、時々、ちょっと恥ずかしいような気持ちになる。

 少し遠くからでもすぐにわかる縞模様のような建物。

  入り口からは「オンサンデーズ」というショップが広がる。欲しくなるものも多いけれど、でも、値段もそれなりに高いから、ちょっとちゅうちょすることもさらに多い。だけど、ここで購入したTシャツは気に入って、今も着ている。

 1階のすみのコンパクトな美術館のための受け付け。

 入館料の1500円を支払う。

 入場券に、その場で自分の名前を書くと、次に本人証明の書類のようなものがあれば、再入場できるということを告げられて、ちょっとうれしい。

 すぐそばにある小さいエレベーターで2階から展示が始まることも伝えられる。

 ボタンを押して、エレベーターが来るまで、時間がかかる。

 ここで待っている長さを、ここに来るといつも思い出す。

展示室

 それほど広くなく、作品を見るには、ちょうどいい空間で、今回も他には2人ほどの観客がいるだけなので、ゆっくりと過ごせる。

 第1章は2階から始まる「カスケードシャワー」だ。「カスケードシャワー」とは電子や光子が物質内に入射して増殖する現象のことで、そのさまを滝に例えてこう呼ばれる。ワタリウム美術館の展示室の大きな特徴でもある吹き抜けの壁には、このタイトルと呼応するように様々な色の絵具が上から下へと滝のように垂らされている。

(『美術手帖』より)

 美術館やギャラリーは、基本的には白い壁で囲まれているところが多く、それは作品に対して何かしらの影響を与えないためで、ホワイトキューブと言われていることは知るようになったけれど、こうして絵の具が、それも手作業の跡がわかるように垂らされていることで、客観的に作品を並べました、というよりは、誰かが選んでいる、といった意図がより伝わりやすいように思う。

 そこには、パッと見ると、どの時代に制作されたのかはわからない作品が並ぶ。

 そして、自分がそれほど美術の知識をまだ知らないだけなのだろうけれど、初めて目にするアーティストの作品も多い。

 版画作品も目につくし、多くは平面の作品が並んでいるが、中にはかなり昔の作品では、と感じるものもあり、だけど、逆に、今の作品に見えるのに、時代的にはかなり前の作品もある。

 どこで読んだか忘れてしまったのだけど、梅津は、今回の展覧会で、ワタリウム美術館になってからは展示されたことのない収蔵作品を中心にしている、と言っていたような気がしていて、だから、それ以前のギャラリーのときには訪れたことがない私のような人間にとっては初めて目にする作品も少なくないはずだ。

 ただ、そのときに、その時代の新しさ、というか、まだ見たことがないものを表現しようとしているのは、おそらくいつも同じだから、古い作品といっても、そこにあれば、その時間的な遠さとは関係なく、いろいろなことが伝わってくる。

 収蔵されているけれど、ずっと人の目に触れていない作品。さらに、最近の作品。もっと新しい作品。

 考えたら、そうした作品を制作したアーティストたちは、時代が違ったといっても、同じような場所を目指しているのかもしれない、などと思ったりもする。それは、前もっての情報として、どんな作品が今回展示されているかをある程度知っているから、より感じられたのだと思う。久しぶりに人の目に触れる、ということはどういうことなんだろう、とさらに考えさせられたりもした。

 次の「2、眠れる実存たち」また周囲の壁の色をかえている。確かにそれだけで、なんとなく気持ちも変わる。

 そこで印象に残ったのは、今回は少なかった、立体というか、インスタレーションだった。大きいベッドの上に人形や、アルコール飲料の空き缶や、食べ物の袋が散乱している作品で、ここに横たわっているのは、「アルコール中毒の入院患者」と作家が表現しているらしいが、こうして立体作品は、あるだけで存在が確かに強いと思う。

 第2章「眠れる実存たち」は、第1章と階を同じくするが、ピンク色のパネルで囲われており、また異なる印象を来訪者に与える空間となっている。この章で目を引くのは中央に鎮座する、星川あさこの巨大なベッドを使った作品だ。ベッドには「キャラクター化」されたような人物が横たわり、その上にはぬいぐるみや小さな人形、プリクラとともに、缶チューハイが置かれている。星川はこの横たわる人物を「アルコール中毒の入院患者」と説明しており、たしかに「アルコール中毒という実存を持った存在がベッドに横たわり眠っている」という点では章のタイトルを反映した作品といえる。

(『美術手帖』より)

時代と世代

 ワタリウム美術館の特徴というか、ロフトのように少し狭めのスペースが3階の展示室になる。そこからは、天井の高い2階の展示室も見えて、角度や高さが違うと作品の印象が微妙に変わったりもする。

 3階は、は「3章 あたらしい風」というタイトルの元に並べられている作品がある。

 知っている名前、知らない人、どれも感情移入のようなものができそうな作品が多くて、だから「キャラクター」のようなことがテーマになっているのだろう。

 その中で、「息継ぎ」という作家を全く知らなかったけれど、その作品は、とても魅力的に見えた。まったく関係がないのに、自分が見たような気がする光景に思え、さらに、すごく風通しがいいように思えたのは、本当に今の時代の人の作品のせいだろうか。今から、年月が経ったら、また違って見えるのだろうか。

 時代によって、観客の見る目そのものが違ってくる。それで作品は一緒でも変化することはあるのかもしれない。

 4階に上がる。

 そこには版画が中心に展示されているようだ。

 ただ、その作品のキャプションなどを読むと、それぞれの作家の影響や、中には梅沢和木と、その父親・梅沢和雄の作品までがあり、梅沢の作品は、父の作品も含めての新作が展示されている。

 ただ、血縁関係、というだけではなく、先行する世代が、そのあとに続く世代に影響を与える、のは当たり前のようで、不思議なつながりでもあるのだけど、それで、作品はだんだん豊かになっていくのだと思った。

 梅沢和木の作品は、やはりシンプルに美しいと思うし、デジタル時代のイメージをかなり明確に伝えてくれているように、今でも感じる。もう10年以上前に本格的にデビューしていて、その頃は、もっと梅沢のフォロワーのような作家が増えると思っていたけれど、でも、梅沢以外に、梅沢らしいアーティストは出現しなかった、と感じている。

 それでも、梅沢の作品を引き継ぐ次の世代が、自分が知らないだけで出てきているのだろうと思った。

 そんなようなことをあれこれ考えながら、作品を見ることもできて、穏やかだけではない、刺激的だけでもない、充実した時間だった。

 できたら、もう一度来たいと思えるほどだった。







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