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「恩人」の存在を、26年後に知った話。

  2022年に出版された書籍の表紙の写真を見て、その作品をつくったアーティストも、どこで見たのかも、瞬時に思い出した。

「TOKYO POP」

  表紙の作品は、奈良美智が作者だった。この作品が設置されているのは、平塚市美術館。それも1996年のはずだ。

 それだけはっきりと覚えているのは、この書籍の表題となっている「TOKYO POP」という展覧会は、自分にとって、それまでほとんど興味がなかったアートというものに対して、突然、距離を縮めてもらい、それから自分にとっては必要なものになり、特に気持ちが辛い時に、支えてもらった恩まで感じているせいだ。

平塚市美術館

 1996年の頃、フリーのライターとして主にスポーツのことを書いていた。

 アートに関しては、例えば「芸術的なプレー」といった表現のように、どうしてスポーツそのものではなく、他のジャンルを、まるで上位概念のように使う必要があるのだろうか、と思うくらい、関心が薄かった。

 ただ、深夜のテレビで、妻が「TOKYO POP」の展覧会の模様を見て、平塚だけど、行きたがった。都内から時間もかかるから、ちょっと嫌々というか付き合う感じで出かけた。

 だけど、そこで見た作品の数々は、これまでのアートや芸術に抱いているイメージとは違っていた。

 私も、仕事として、文章でどうやって表現するか?といったことは考え続けていたのだけど、こうした作品をつくっている人たちも、表現することに関して、とても切実に考えていることまで伝わってきて、とても近くに感じて、好きと思う作品や、嫌だと思えた作品もあったのだけど、とてもリアルで、これだけ気持ちに直接訴えかけられるとは思わなかった。

ウソのない作品

 それから、それまで行ったことがないギャラリーや、自分だけでは足を踏み入れた経験はなかった美術館にも、全く知らないアーティストであっても、自分にとっては、ウソがない表現をしていると思える作品を体験したくて、積極的に出かけるようになった。

 その後、介護に専念し、仕事もやめざるを得なくなって、全く未来も希望も見えなかった年月も長く続いたけれど、そういう時にこそ、見たい作品も多かった。それは、深さがあるからこそ、暗くも思えるのだけど、その鑑賞によって、本当の底の底の底まで気持ちが落ちることがなく、どこか支えられているような感触があった。

 それは元気づけられるといったことではなく、ただ、一応、明日も生きられるかも、といった微かなエネルギーが、自分の中にもまだあることに気がつく、というような感じがしていた。

 介護に専念する前に、アートを見ることが生活の一部になったのだけど、介護生活になってからは、本当に出かけられないほど疲労している時は別として、介護のすき間にアートに触れられたから、その生活をなんとか乗り切れたと思っている。

 介護は19年で終わったが、これまで26年間、アートを見てきた自分なりの記録は、このnoteとは別のブログ↓に、少し違う名前で書いている。

(冒頭のブログは、ここまでの内容とダブるところもありますが、他にはさまざまな展覧会についての感想をアップしています。今は、約600記事ですが、今後も増えていく予定です)。

「TOKYO POP」から始まる

 私にとっては、平塚市美術館で開催された「TOKYO POP」は、意味が大きかったので、その2年後くらいに、ライターとしてある編集部に売り込みをした時に、アートの話題として出した。その際、冷めた言い方で、「あれは古い作品も出していたんですよね」と言われたことがあり、その編集部では仕事につながることもなかったが、なんとなく、自分だけが勝手に思い入れているだけなのかと思っていた。

 それでも、その後、「美術手帖」という雑誌も読むようになって、その中で、1996年は、日本の美術界にとって、分岐点でもあったのではないか、といった指摘も読んだこともあって、それで、気持ちを立て直したりしていた。

 そんなこともほぼ忘れ、コロナ禍になって、アートに触れる機会もものすごく減ったけれど、それでも感染が減った時に、気をつけながらも、見にいくことはやっぱり続けていた。

 そんな頃、「TOKYO POPから始まる」というタイトルの本があるのを知った。自分のための言葉だと思った。

(電子版です↑)

恩人

 そして、その本を読んで、著者が「TOKYO POP」開催を企画した当人だと知った。

 1996年4月27日から5月26日までの1ヶ月間、『TOKYO POP』展は、神奈川県平塚市にある平塚市美術館で開催された。東京からはJR湘南新宿ラインで1時間ほどの神奈川県にある公立の美術館での「TOKYO」という名を冠した、当時も、またいまも「なぜ?神奈川でTOKYO?」と言われてしまう展覧会である。そして内容も、一部では名前を知られ始めてはいたものの、ほとんど一般的には無名だった若いアーティストたちを中心に集めた、公立の美術館で行う現代美術の展覧会としては、異例の、それまでには見たこともない展覧会であった。
 この展覧会に参加した村上隆も、奈良美智も、会田誠も、これをきっかけに多くの人に名前や作品を知られ、大きく飛躍していったにもかかわらず、この美術展の存在について公に言及されることは少ない。あれから4半世紀、25年という時間が経った。20世紀から21世紀へ、そして平成から令和へと時間は流れ、90年代から現代に至るまでの日本の現代美術の流れを歴史化すべき時期にきていると思われるいま、日本的なポップ・アートが広く認知されていくひとつの契機となった『TOKYO POP』展を思い起こし記述しておくことは、この展覧会の企画者としての責務のように思える。

 もちろん、当事者だから、自己評価が高くなってしまっている可能性もあるけれど、それでも意味がある展覧会であることを知ったのは、やっぱり嬉しかった。

 その頃、地方の公立美術館で現代美術の展覧会をやることは、容易なことではなかった。「現代美術なんてわからない」「人が来ない」「学芸員の個人的な趣味で展覧会をやるな」等々、謂れない非難に晒されるのがオチであった。
 最終的に実現したかった展覧会は、村上隆の個展であった。
 しかし思わぬ形でこの現代美術展が実現できることになる。予定されていた展覧会が飛んでしまったのだ。そしてその代わりとして『TOKYO POP』展を急遽、開催することになった。館には短期間で準備できる展覧会のアイデアを持ち合わせている学芸員がほかにいなかったからである。その間隙に乗じて、この展覧会は実現できたのだ。準備期間がほとんどない中、アーティスト選びが始まり、展覧会に向けてスタートが切られた。
 最初から展覧会の内容の方向性は決まっていた。国際展で注目され始めていた村上隆や森万里子など日本の漫画やアニメーションなどのサブカルチャーやテレビのアイドルたちが見せるポップな姿に影響を受けた若いアーティストの新鮮で勢いのある表現を集めることを目指したのだ。 

 さらには、あの展覧会が、企画者が、仕事としてこなすというよりは強い意志があって開催したもので、そして自分が、その企画を、かなり狙い通りの受け止め方をしていたのも知った。

 しかも、偶然が働かなかったら、この展覧会が開かれることもなく、そうなったら、もしかしたら、今のようにアートに興味を持って、見に行き続けることもなかったのかもしれない。

 アートのおかげで、気持ちが支えられていた部分もあったのだから、あれから26年がたって、「恩人」がいたことを知った。

 小松崎 拓男さん、ありがとうございました。

実現しなかったこと

 中原浩大のレゴ作品を会場に置こうと心を決めて、交渉に臨んだ。(中略)ただ鮮明に残っているのは、中原浩大が電話口の向こうで言った、「いまさらポップ?」という言葉だった。       
 この一言で出品はものの見事に断られてしまった。確かに「いまさら」なのではある。(中略)だが、私は今でも中原浩大のレゴ作品は、日本的ポップの起源のひとつであると考えている。中原浩大は嫌がるかもしれないが……。 

 書籍の中で、小松崎氏は、中原浩大の作品を「TOKYO POP」に展示したかった、という「実現しなかったけれど、やりたかったこと」を書いているが、その時の鑑賞者だった人間として、この文章を読んだときに、私も、中原浩大の作品を、あの会場で見たかった、と思った。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえると、うれしいです)。



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