衝動と無気力
私にはときどき、何もかもをぶち壊してしまいたいという衝動が不意に生まれる瞬間がある。
例えば、こういうときだ。
いつもは化粧をして行く店にすっぴんで行ったら、男性の店員に明らかにいつもと違う態度で接客されたとき、その店員に向かって「お前ごときに美醜で客への態度を変える資格はねえんだよ、この面長シャクレ鼻でか男があぁあっ!!!」と思いっきりそいつの顔面を罵倒してやりたくなる。
まだ関係が浅い人が、主に介護で生計を立てている私に対して「介護の仕事しているなんて、優しい人なんだね」と言ってきたとき、私はその人のきれいに形どられた笑顔に平手打ちを喰らわせて、これでもかというほどに歪ませてみたくなる。
年末に親戚の集まりに行ったら赤ちゃんが一人増えていたとき、私はその赤ちゃんに向かって「ようこそ!あなたの想像を絶するほど、とんでもなく生き辛い世界へ!」と笑顔で叫んでやりたくなる。
神社の前にある掲示板に掲げられた「尊い命を大切に」と筆で綺麗に書かれた紙を見ると、ビリビリに破いて目の前の枯れた花壇の中にぶち込んでやりたくなる。(肥料になって新しい花が咲けばいいのにね!)
こんなふうに、衝動が走る瞬間をあげればキリがない。
一方で、どうしようもなく無気力に陥る瞬間も、私の生活の至る所に散りばめられている。
じわじわと私の心を蝕んでくるような物言いをする介護の利用者さんが病気で入院したため、今週の派遣は無いと事務所から連絡が来た瞬間に私の中に生まれた安堵感に気付いたとき。
「あなたにしか描けない夢が、きっとある」という言葉と共に、大成功を収め続けている某野球選手の写真で構成された銀行の広告の前で、段ボールを床に敷き、薄汚い毛布に包まれて震えているホームレスを見たとき。
「兄弟がいて羨ましい」と私に言った一人っ子の友達に、両親に加えて兄弟全員がいずれ死ぬんだから、両親と自分だけの死に直面する方が、悲しみの量を少しでも減らせていいじゃないかと言ってドン引きされたとき。
私の心は、極度の無気力に苛まれる。
ニュース番組で、どんどん病に蝕まれていく身体からなけなしの力を振り絞って安楽死の合法化を求めて戦っている人たちのVTRを側から眺めながら、いかにも真剣な表情で「それでも命は大切」と言っている健康な人たち。
親がいない子どもたちが一緒くたにまとめられて施設に預けられている一方で、どんどん生まれてくる親のエゴがたっぷり詰まった新しい命たち。
ストッパーがないので暴れ狂う“無敵の人“たち。
“無敵の人“に殺された障害者たちを思って「同じ命なのに、酷すぎる」と言うくせに、障害者施設の悲惨な現状なんて一ミリも知らない人たち。
事件を描いた映画を見て、問題提起されて考えた気になって、明日からまた全く同じ生活を続けていく私。
きっと、みんな一緒だ。
この世界で営まれることの何一つをとっても、全てがどうしようもなく、くだらなく、とるに足らないことだということに、みんな気づいている。
気が遠くなるほど、答えのない日々。
この先、正解なんかに一ミリも近づけそうにない毎日。
こんな大人になるつもりじゃなかった。でも何かを知れば知るほど、そうなりたくなかった大人に自分が近づいていく。
いや、でもさ、そんなこと言ったって。
どうせ、生きていくしかないじゃない。
本当に、草臥れて、慄いて、それでももがき続けるしかないんだろう。
歩き続けるしかないんだろう。
きっと、死ぬまで。