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続・H氏への斬奸状






前編


H氏への斬奸状



















七生報国
天皇陛下万才








沢木耕太郎「テロルの決算」より抜粋
1960年 17歳の右翼少年・山口二矢が浅沼稲次郎を刺殺した後に、拘置所の壁に歯磨き粉を用いて遺した
辞世の一筆













続・H氏への斬奸状












HO CHI MINH
Bui Vien St.





3人目の、いわば最後の長老は工場内の「設備」、つまり家具製造におけるある特殊な工作機械を司り、私生活ではアル中であることを自他ともに認める、当時65歳の老年期の男だった




名前は、H氏





このH氏には他の2人の長老がもっていない、業務以外の必殺の武器、いや「武芸」があり、それはかなりの高レヴェルのヴェトナム語を自由自在に操れるということだった

なぜそれが「武芸」になるのかは明白で、例えば現場では通訳を呼ぶ手間をかけずに迅速に直接自らが現場へ指示を出せるからであり、一般的にあらゆる工場は「生き物」と形容されることが多く、常に動いている、つまり稼働しているという性質上、そうしたスピードが極めて重要になる局面が多い

要するに、現場が間違った方向へ進む際には、即座に舵を切り返す必要があるのだ


徹底的な合理化が求められる製造業の世界においては、常に一時が大事で、時間的なロスは即座に確実な損失となる

だから単純だがこのことはまさに「武芸」で、わたしが当時知り合うことのできた社内外の異業種の日本人でも、ヴェトナム語を話せる人というのは極めて稀な存在だった


それは、わたし自身もそうだったのだが、ヴェトナム語は確かに文法も日本語や英語と異なる難解さがあったが、最終的に挫折してしまうのは、なによりもその発音の複雑さにあったように思えている

アルファベットに独特の発音記号が付されたヴェトナム語には、日本人では極めて難しい巻き舌を多用するので、仮に文法ができて読み書きができたとしても、会話となるとお手上げになる人が多く、例えば奥さんがヴェトナム人でも、会話まではできないという人が大多数で、わたしが知る限り当時のほとんどの日系企業には、ヴェトナム人の通訳が補佐としてついていたような気がする

そしてそのH氏が操るヴェトナム語は、社内のヴェトナム人スタッフたちをして破綻がないと言わせる高いレヴェルのもので、業務上、現地通訳たちが難しくて悩むようなコミュニケーションを取る場合、つまり専門用語を多用するような局面ではH氏が通訳代わりとなり、わたしたちの仕事をサポートしてくれる場合もあったのだ

何故ならばこのH氏もまた、他の2人の長老と同様に、「生まれも育ちも大川」で家具を知り尽くし、その半生を家具業界に捧げてきたヴェテランでもあったからだ




HO CHI MINH
VIETNAM



このH氏の流暢なヴェトナム語は、もちろん自身がその半生で身につけたきた技術だが、本人曰く、必要に迫られる形で習得し、それはヴェトナム人の奥さんと喧嘩ファイトする際に自分の主義主張を通すためであり、だから離婚調停の際にどうしてもヴェトナム語が必要であったと、酒場で直接、本人から聞いたことがある



しかし、それだけでこの難解な語学が身につくとはわたしには到底思えなかった



H氏にはコツコツと、ひとつづつ単語とその発音を、地道に、まるで戦略上の積み木のように長期的に組み立てることができる粘り強さと忍耐力を持ち得ていたのだ



そしてH氏は実に、その生涯で4度の結婚と離婚があった


内訳は最初の妻が日本人で、後の3人はヴェトナム人

なかなか凄まじい数だとは思うが、独身の私には、これに対しては何も言う資格が、あるいはないのかも知れない
せいぜいが、まぁ、人生を楽しんでいるんだなと言うことができるくらいだろうか

しかしながら、その回数が物語るように、わたしが海外に出るようになって知り合うことができた日本人の中でも、極めて異端な、強烈な自我を持つ人物でもあった




HO CHI MINH
Thai Van Lung St.



わたしは今から約20年前に海外に拠点を持つ日系の製造業、それも家具の世界に入り現在に至るが、少なくともわたしが見てきた限りでは、この世界には主に年長の、いわば「職人気質」の性質を色濃く漂わせる本物の職人たちが存在する世界でもあった

「職人気質」は、そのまま”Craftsmanship”としてここインドネシアでの家具の製造現場でも稀に使うことがある英単語で、例えばそれは



"Be aware of the Craftmanship"



省略して



"Be the Craftsmanship”



つまり、”丁寧に仕上げてください”と言うような意味を込めて使うことが、わたしは多い(※上記の言い回しが文法上正しいかどうかはわかりませんが、少なくとも通じます)

このようにして、こうした概念、いや、言い回しは簡単に国境を超えて普遍的な役割を持ち得ることが可能だが、「職人そのもの」の存在に対しては、わたしは時に頭を抱えることも多かった

それはおそらくは一般的に流布している「職人」のイメージと寸分も違わないたがわない資質そのもので、簡単に言えば「頑固」そのものであり、その「頑固さ」を切り崩すことが出来る論理的な知識と、それに裏打ちされた経験がない限りはとても太刀打ちができず、「職人」からは相手にされずに門前払いにされ、当時のわたしはもちろんその両方を全く持ち合わせていなかった

そして言うまでもなく、わたしの前に巨大な壁として立ちはだかった「職人」が最後の長老、H氏であった




HO CHI MINH
当時よく食べに行った名物の海老入りのパイナップル・ライス




H氏に対して、当時、若かったわたしが喧騒渦巻くホーチミン夜もなかなか寝付くことができなかった理由は、やはりその「頑固さ」にこそあった

しかしその性質は本人の性格に拠るものでもあるし、お互いに生まれ育った環境や生まれた時点で持ち得ていた個性、お互いの半生で持ちえた考え方ももちろん異なるので、相容れない部分というのは明確に存在し、それをお互いに感じ取っていたのかも知れない

当時のわたしはまだ20代の後半で若かったが、その程度の理解力は十分に持ち得ていたはずだ

だからこのH氏に対して、本当に頭を抱えていたのはその「頑固さ」をさらに研ぎ澄ませたような、業務上の「知識と技術の独占」体制にこそあったのだ


後年になって、わたしはいわゆるTPS(TOYOTA PRODUCTION SYSTEM)を自分で勉強するようになり、それはいわばあらゆる全ての製造業においての一つの教科書として位置付けされるTOYOTAの生産方式で、体系別に、そして論理的に記された世界中で支持されている、工場の一つの目指すべき姿で、その中にももちろん言い方は湾曲に、そして刊行年毎に多少の変化はあるが、こう明記されているはずだ


一人の人間による「知識と技術の独占」は害悪でしかない、と

それを理解するのには、おそらくは製造業の知識や経験は一切必要がない



いわば、LESSON ZERO


そうした事態に陥ってしまうと、いうまでもなく、その社員が病欠で休んだり、退職してしまうと工場運営がたちまち行き詰まってしまうからだ




HO CHI MINH




H氏の厄介なところは、まさにその点にあった




40年以上も業界にいるH氏が、TPSを知らないはずがないのだ



一般的に製造業の世界で確立されたTPSの理論は不変で、だからその習得には終わりがないとも言われている
わたしはこれまでいくつか国を遍歴してきて、製造業のマネジメントの現場を見てきたが、上位管理職にはそうした傾向が尚更強かったように思えている


理論と現場


そうした理論を異国の製造現場に落とし込むのには、また別種の能力が必要となる

わたしは決してそのTPSの信者というわけではないが、しかしここインドネシアでも仕事で行き詰まった際は拾い読みをして、現場と事務所を往復することが多い

H氏にもそうした修行時代は間違いなくあったに違いない
知らないはずがないのだ
いや、それを知り尽くした上で、自身の分野の独占、加えて流暢なヴェトナム語を駆使してヴェトナム人幹部たちを手懐けて、北部韓国のような独裁体制を敷き、工場内に自分以外は不可侵の謎の「王国」を築き上げていたのだ・・・



その「王国」の所在は、わたしは在職中に終には知ることができなかった
今もってわからない




その「王国」はまるで古代中国の、砂漠地帯に栄え、周辺の多民族を制圧し独自の文化と栄華を誇ったといわれる伝説の楼蘭ろうらん王国のように、存在だけは史実として明らかにされてはいるが、その所在と詳細は今もって不明なのと同じように謎に包まれていた



「王国」は当時から噂だけが先行し、業務時間中に突然姿を消したH氏は、「王国」でお昼寝中だとか、ふと現場に現れた際には鼻の頭が赤く酒臭い息を撒き散らしているので「王国」で一杯やっていたのだろうとか、まさに「王」の特権のような生活をしていたのだ





それも、業務中に・・・





HO CHI MINH
SAIGON RIVER




その当時のわたしは、いわゆる始末屋として、いわゆるクレーム対応の調査を主に行っていた
ヴェトナムで製造し、日本へ輸出した家具類に何か問題が生じるとその原因を突き止めて解明し、関係者と再発防止案を練って上で、顧客に謝罪するのが主な業務だった
そのようなある日、その原因がH氏が司る工作機械にあるのではないかとの疑惑が持ち上がった



工作機械、つまりは生産技術の分野に関しては専門性が極めて高い



機械そのものの構造や仕組みを理解していなければならないのはもちろん、操作方法、微調整、段替え、電気に関する深い知識、部品パーツの交換頻度、供給先のメーカー、そしてメンテナンスの技術も問われる「専門職」の世界なのだ

あくまでわたしが見てきた限りでは、製造業における海外就職で最も求められる
人材は間違いなく生産技術の分野であった


今でも世界中で募集がかかっているような気さえする


いうまでもなく製造業においては機械は生命線であり、中核でもあり、それらを効率よく稼働させるという大前提のもとに、初めて生産計画が成り立つのだ


その機械が原因と思われる、当時のある事案において、わたしは姿をくらましたH氏へ直接コンタクトを試みた


携帯電話ーそもそも常時電源が切られている

館内放送ー梨のつぶて

監視カメラー影さえも踏むことができない・・・



幻の「王国」はどこにあるのか

流浪の砂漠の民のように、その所在は常に変化しているに違いなかった



いきなり八方塞がりであったが、しかしそれでも他の二人の長老に援護は求めなかった
この3人の長老たちは、それぞれが歪みあっていがみあっていて、基本的に自分の直轄以外にはあくまで我関せずの姿勢をとり続ける偏屈管理職でもあったのだ


いや・・・いや、そうではない


今振り返るに、本当に忙しい過渡期の工場でもあったので、自分の管轄の業務監督だけで手一杯だったのだ



H氏を除いては・・・



当時の事務所
原価計算担当の女性スタッフが毎日淹れてくれた、ヴェトナム珈琲



結局、昼休みに昼食をとりに事務所に戻ってきたH氏を捕まえて、日本から送られてきた画像と客観的な事実を伝えるも、H氏の対応は冷ややかだった

へ〜っ🎵



とまるで茶化すように驚いてみせ、次に

そげなことは、自分で調べればよかろうもん


わたしがH氏から引き出すことができたのは、ほとんど上記の言葉のみで、わたしはただ黙って頷きその場を去るしか他に選択肢を持たず、仕方なく通訳と共に現場で関係者に聞き取り、推測の上に推測を積み重ねて結論を出すしかなかった

こうしたH氏とのやりとりはその後も何度か繰り返されたが、その度にH氏のわたしに対する対応は異なっていた

ある時は、それは二日酔いではなく完全な素面しらふのときはメモ用紙に図解付きで熱心に解説してくれたり、回答をもつヴェトナム人の関係者の名前をまるでゲームのヒントのように与えてくれたり、またある時は、それこそ機嫌の悪い時には一切口も聞いてくれなかったりで、その行動様式を読み取るのは簡単なようでいて、しかし難解でもあった


そうした日々において、幼い当時のわたしは自分でも自覚できないほどの小さな鬱屈が溜まりに溜まっていたのだろう
卑屈にもH氏の顔色を窺うようになり、しかし、わたしはH氏の機嫌が良さそうなときに聞き出すといった器用さを持ち合わせていなかった

ある時のH氏の、冷ややかな対応に対してこう言い返してしまった
その時の私の言葉は、それはfacebookにも記録に残っていないが、ほとんど一言一句まで正確に覚えていた


それはもちろん、それから長年に渡ってその時の言葉が正しかったのかどうかを疑問に持ち続け、自問自答を繰り返していた言葉だからだ



俺たちはいわば、同じ陣営の味方同士でしょう・・・
違うのでしょうか

どうして毎回、気分屋のように対応が変わるのですか




その時、H氏は自分のデスクに座ったままで、わたしは見下ろすような位置で言及する形となり、その言い方には苛立ちを抑えつつも強い感情を込めた極めて鋭いものだった



"気分屋"という挑発的な単語が、それを端的に、明確に表していた



すると逆にH氏はゆっくりと時間をかけて、下から睨み上げるように立ち上がり、突然わたしの胸倉を強く掴んで自分の顔に引き寄せて事務所に響き渡る大声でこういった



貴様、誰に向かって何を言いよるんじゃ
何も知らない小僧っこのくせに




それに対してわたしも瞬間的にH氏の胸倉を掴みそうになったが、その事態に気付いた開発の長老が席から立ち上がり大声で叫んだ



やめろ!


お前ら、やめろ!



それでも尚もH氏に手を伸ばそうとしたわたしに、事務所の間近にいた購買担当の男性ヴェトナム人スタッフが慌ててわたしたちの間に割って入り、引き離された


ヤメテクダサイ、オネガイデスカラ、ヤメテクダサイ!



事務所だけで20人以上の現地スタッフがいて、常にざわめきに満ちていたが、この時は一瞬で静まり返った

H氏は引き続き、わたしに対して何かを大声で喚き、それに対してわたしも激しく言い返していたが、よほど興奮していたのか、この時何を言ったのかはまるで覚えていなかった




HO CHI MINH




そしてこの時のやりとりは、実はその後の30代のある時点まで、わたしは引きずりに引きずり続けた

もちろんあの時に、半ばわたしの方からH氏に吹っかけてしまった言葉が正しかったのかどうかについてで、それについて考えに考えさせられる30代でもあった

悩んだ主な点は、当時のわたしの真後ろには日本の顧客が控えていて、すでに問題を生じさせてしまい、それが現在進行形、つまり家具は基本的な内部の構造面はほとんど同じという性質である以上、機械に原因が考えられる問題は即座に特定して究明しなければ、他の顧客の類似の製品でも同様の事象を生じさせる危険性があるという建前で、しかしそれは、常に焦燥に駆られるような、ピンと張り詰めたような後がない思いでもあった

相手がH氏であれ誰であれ、相手の気分に付き合ってのんべんだらりと調査している暇などはないという気持ちから発せられたに違いないが、しかし、とも思える側面も間違いなくあった

何しろ、H氏は確かに性格に問題があるようにわたしは個人的に感じていたが、職業人としての機械に対する知識と経験は、少なくとも知る限り、ヴェトナムにおける、この業界でも指折りのヴェテランであったこともまた、間違いない事実であったからだ

だからつまり、H氏は生じさせた「問題」を認識し、その「程度」を判断でき、軽微な問題に関しては素人のわたしへの勉強を兼ねて、まずは自分で自由に考えさせるという行動の選択肢を与えようとしてくれていた可能性もあるのだ・・・

要するに、わたしの狭心、つまり小さな器から溢れ出してしまった水のように、幼い短絡的な言動であったのではないかと思い始め、そう思うことによってそれが幻想の迷路を生み出し、自らの意思でそこに入り込み、長い間景色の変わらぬ同じ道を歩き続けているのではないか



最も、この考えに至るにはさらに長い年月がわたしには必要だった
いや、結局のところは自力では終には到達できない考えでもあった



何故、このような考えに至ったのかのその理由については明白で、ある日、このH氏の突然の訃報に接し、涙を流しながら雷に打たれたように突然そう思い至ったのだ
錯綜し、絡みつつあった無数のラインが、一本に繋がるような確かな手応えを感じた

後悔に次ぐ、後悔の後悔の後悔

いわば、「死の力」ともいうべき、想像できない方向からわたしの人生に唐突に現出する、不可侵で得体の知れない、常に両義的で、おそらくは生者には決して制御することができない、あの強大な力だ


今現在に至っても、この時、H氏と激突してしまった出来事の一部始終は、わたしの人生において秘密めいた影響を内部で与え続けている
相反する、両義的な「死の力」が、まるでわたしに囁くようにそう示唆して仕方がないのだ
それはまるで、なかなか耳から離れてくれない中毒性のある音楽のようなもので、わたしの心の中の、地下水脈のように暗く細い場所で流れ続けているのは間違いのない事実だった

それは

父親のように30歳以上も年長者を相手に、感情ごと激しく衝突してしまった後悔

しかし、そうすることによってのみ生み出された、今では死者となってしまったH氏との、だから両義的で、鮮烈な思い出の数々・・・




HO CHI MINH




しかし、そうした、いわば老成した考えに至るには長い間わたしの内部で熟成させる時間と、最終的にはその「死の力」が必要だった

当時わたしは何を考えていたのか?


もちろん、こう考えていた


これからは徹底抗戦だ



いや、それも少し違う
このような上品な考えはわたしは持てなかった




率直にいうとこうだった



あの野郎、おれが生産技術を習得して、会社から叩き出してやるぜ




そして戦争ゲーラの時代が開幕することになる





HO CHI MINH



その日、事務所でH氏と衝突したことはもちろん即座に社内で一気に広まった


それには当時勤めていた会社の特異性などは全く関係なく、それがどのような組織であれ、この手の噂は、興味と衝撃をもって急速に広まっていくに違いない

現地ヴェトナム人スタッフで約2,400人、日本人駐在員が5名、そして静岡にある会社の本社の全員に即座に広まっていき、わたしとH氏が正面切っての敵対関係に入ったことが伝わったのだ

そうなったのはもちろん無理なく、わたしがその後H氏に対して謝罪することもなく、向こうも向こうで、あの小僧だけは許せんわ、と周囲に大声で喚いていたことが主な要因でもあった


そうした、いわば開戦直後に、静岡の本社からヴェトナムにROさんが現れた


ROさんとは、当時呼ばれていた実際の愛称で、わたしと全くの同い年でもあり、本名の名前の一部を、ヴェトナム人スタッフたちが呼びやすく、そして親しみを込めて言い出したのを契機に、社内の日本人の間でもROさんで通っていた

ROさんは京都大学と北海道大学の大学院で物理学を専攻し、首席で卒業したある意味では変わり種でもあり、わたしはよく冗談半分でこのようなことを言っていた


家具のことはおれがやるので、ROさんは宇宙の謎を解き明かしてくれませんか?そもそも宇宙の外側って一体どうなっているんです?
そして・・・「時間」って一体何なのですか?
ところで、どうしてNASAに転職しないのですか?


ROさんは社長の懐刀であり、だから会社の方針や意思決定を伴う頭脳でもあった


それに対してわたしは、どちらかというとフットワークの軽い実行部隊の一員といった性質が濃く、だからROさんはよく業務上の相談相手になってくれる「上司」でもあったのだ

その夜、ホーチミン1区の「赤とんぼ」で二人で晩御飯を食べた

ROさんはいつも極めて食が細く、店ではいつも薄く塩を振った蓮根チップスと温かい烏龍茶のみで、わたしはわたしでいつもの定番メニューの、鰹節と魚介で出汁をとった和風ラーメンと枝豆、生のタイガービールだった

ROさんは微笑みながらこういった


聞いていますよ。H氏と激しく衝突したようで?


ROさんが知っているということは、すなわち社長の耳にも入っているということだった

わたしは箸を止めて頷き、正確にこう続けた


おれは、H氏に対して斬奸状ざんかんじょうこそは書きませんが、刺し違えて会社を辞めてもいいと思っていますよ


ROさんは驚いたようにこういった


斬奸状って・・・さわまつさんは随分古風な言葉を知っているのですね?
普通の会話ではなかなか使わない単語です


もちろんこの古風な名詞をわたしは常用していたわけではなかった
20代から、そして今も再読に耐えうる沢木耕太郎のノンフィクション「テロルの決算」を当時読んでいる最中だったのだ
その作中で使用される言葉で、ほとんど無意識下で出てきた単語でもあった


ROさんは笑いながらこう続けた


随分、悲壮な決意ですね・・・。でも、いいんじゃないですか?
それほど真剣に仕事に打ち込む人間は、残念ながらうちの会社には、実はあんまりいないのかも知れません


それに対しては、どのように返答すればいいのかわからなかった


ROさんは一人で合点したように何度も頷き、再び口を開いた



社長から伝言を預かっています



わたしはビールグラスを静かにテーブルに置き、このときいささか身構えたに違いない
大企業のように、いわゆる「進退伺」の是非のような形式ばった会社ではないということは十分に理解していたが、しかし会社から何かしらのアクションはあるかも知れないと小さな覚悟はしていたのだ

いくらトップダウンの会社とはいえ、それでも会社とは構造主義の組織であるからだ
指揮命令系統を破れば、そこには小さな破局点が生じる

だが、自分が正しいと思って起こしたH氏との正面衝突であり、そのことについてはこの夜の時点では全く後悔も反省もしてもいなかった

ROさんはいった


今、起こっている品質問題を、いつものように迅速に、首尾よく解決させること


つまり、お咎めなしなのか


そしてここからが本題だというように、ROさんは思わせぶりにこう続けた


何か困っていることや悩んでいることがあれば、いつでも直接おれに電話しろ
って、社長は言っていましたよ





HO CHI MINH




このROさんとの短いやり取りをこうして文章として起こし直すと、随分、心が温まるハートフルなエピソードのようにも思えるが、その時わたしは全く別のことを考えていた


内心、ほくそ笑んでさえいた

わたしは日本の社長からのこの伝言を、全く別の意味で受け取っていたのだ

要するに、トップの言質とまるで白紙委任状を手に入れ、これからもH氏と派手にバチバチに戦って良し、というとんでもない勘違いをし、不退転の決意を強固に固める始末だった・・・





HO CHI MINH




しかし相手は、家具の世界においての海千山千の猛者で、業務上の修羅場を幾度も潜り抜けてきた歴戦のH氏だった
ヴェトナムにおける同業他社の日本人幹部たちにもその名は知られていた程だった

加えてヴェトナム語も堪能で、実生活の棲家はホーチミン郊外の、まず観光客が訪れることがないディープで熱いエリアで、H氏はそのエリアの安くて美味いPHOや鶏の丸焼きの店や、地元の人間が足早く通うと言われる性風俗店、密造酒や自家製の煙草を製造販売している怪しい民家など、当時のヴェトナムの光と闇を知り尽くしている、いわばレジェンドでもあった
そして自称、”暗黒街にも顔が利く”

わたしは開戦と同時に、H氏に対して以下のような方針を自分で打ち出した

  1. 何がどうあろうと、もう自分からは決して仕掛けないということ

  2. 何がどうあろうと、もう自分からは決して仕掛けないということ(リピート)

  3. 挨拶だけは徹底して行い、最低限の「礼」だけは尽くすということ

  4. 向こうが仕掛けてきた際には、怯むことなく戦うということ


当時のわたしたち駐在員は、ホーチミン1区の、通称”六本木”と呼ばれていた、日本人街のほとんどど真ん中に、会社が一棟を丸々買い上げたサービスアパートメントで生活していた

なぜ、”六本木”なのかは明白で、アパートメントの周辺には日本料理屋をはじめ世界中のBARが軒を連ねる活気溢れる繁華街の、そのまさに喧騒の中心地だった

しかしH氏においては前妻がヴェトナム人だったということもあり、そこには住まわずにホーチミン郊外の方に一軒家を借り、離婚後に前妻とは一切連絡が取れなくなり、半ば行方不明となってどこかに掻き消え、一人暮らしをしていたのだった


だから工場への出勤の際は、一台の大型のワゴン車にわたしたちは乗り込み、その途中でH氏の自宅に立ち寄りピックアップしてから職場へ向かうのだが、車に乗り込んできたH氏に儀礼上挨拶をするも、目も合わせてくれずに綺麗に無視された

それは工場の長い廊下や、現場の通路ですれ違う際も同様で全く相手にされなかったが、それに対してわたしは何の痛痒も感じていなかった


始末屋としての業務上でも、このH氏とはほとんど接点がなくなり、機械設備に起因する品質不良が生じた際には、開発の長老ー”伯爵”がわたしをバックアップしてくれるようになった

家具の図面を起こす際には、もちろん機械設備の仕様が前提となるので、”伯爵”もH氏ほどではないにせよ豊富な知識を持っていたからだ

それは女狂いの異名をとった”伯爵”の好意だったということもあるのだろうが、わたしが稀にH氏と話す際は、”伯爵”はじっとこちらの様子を伺っていることはわたしも知るところではあったので、これ以上の衝突を避けさせるための、いわば親心のような思いやりだったようにも今では振り返ることができる




HO CHI MINH
12区にある有名な海鮮屋台で食べたロブスター




こうして、H氏と衝突した直後はわたしもかなり息巻いて、日本人の他の同僚たちや、異業種交流会『ビアホイ倶楽部』の同世代のメンバーたちと屋台に毛が生えたような店で飲む際には、徹底抗戦だ何だと一人で盛り上がってはいたが、それはまるで反抗期の中学生のようでも、ネズミ花火のように短時間だけ炸裂するような勢い先行型の火花の類でもあり、H氏との衝突が突然持ち上がったのと同様に、わたしは急速にクールダウンしていくことになった


だからと言ってもちろん、わたしがH氏へ謝罪し、和解するようなこともなく、いわば冷戦状態に入ったとも呼べたが、それにはやはり周りの人々の温かさがそような状態を作り上げてくれたのも間違いない事実であった


上記の”伯爵”の親心の他に、”ギャンブル狂”の異名をとった品質の長老もカジノで大勝した際には個人的に高価な飲食店で自由に飲み食いさせてくれたり、現地法人の女社長、通称”みんな大好きおヤンタン”さんも、彼女の行きつけの3区のRED BARにも連れて行ってくれ話を聞いてくれたり、日本側も社長やROさんも、来越時にはPARK HYATT HOTELで新鮮な生牡蠣を食べに行ったりと、この頃になるとようやく社内での自分自身の居場所が見つかりはじめたような時期でもあった




HO CHI MINH
PARK HYATT HOTEL




わたしとH氏との関係はいわば平行線のような日々が続いていたが、それが急速な歩み寄りを見せるのは、実は全く想像できない、別領域からのアクションだった





HO CHI MINH



当時の社会的、いや世界的な風潮の一つとしてSNSの台頭が挙げられた


現在ではさまざまな種類のSNSが世界中で展開されているが、当時は、多分間違いないだろうがfacebook一強の時代でもあった

わたしはその当時すでに日本とヴェトナムを激しく往来するいわば「移動の時代」に突入していたが、あくまでわたしが体感したfacebookは、日本では”急速に広まった”に対し、ヴェトナムでは”爆発的に広がった”ように思えてならない

そしてわたしは、ヴェトナムで就業した後にスペインとここインドネシアでの就業経験があり、それぞれ当地の友人知人と「友達」となるが、それを踏まえた上で、ヴェトナム人のfacebookの使い方はやはり想像の斜め上をいくような、少なくとも一般的な日本人の使い方とは大きく異なっていたのだ

その特徴は男女別にいくつかに分けられるが、その最大の特徴はヴェトナム人女性の「自撮り」にあることは間違いなかった

ヴェトナム人女性は「自撮り大好き」「自撮り命」なのだ

それだけであれば、あるいは世界中の主に若い女性に見られる近年の傾向なのかも知れないが、ヴェトナム人女性はそれを徹底していて、SNSの投稿は主に自分の自撮りなのはもちろん、そしてそれだけに飽き足らず、スマートフォンの待ち受け画像も自分の自撮り写真、オフィスのデスクトップの待ち受け画面も自分の自撮り、いわゆるキメ顔なのが当たり前の世界なのだ

それはここまで自己肯定、いや、自己愛に縛られることができるのかと、わたしも思わず感心してしまうほどで、その性質が端的に現すように一般的にヴェトナムでは浮気=即離婚は当たり前で、最悪のケースはもちろん殺人事件にまで発展したり、浮気した亭主が寝ている間に性器を切断するといった事件も、当時は当地で割とよく聞く話でもあったのだ

そして後年、H氏から直接聞いたことによると、ヴェトナム人妻との3度の離婚の原因は、まぁ、いろいろあったとよ、で、ご本人曰く、ある程度酒が入るとまるで定説通りに浮気は男の甲斐性だろうが?であり、ヴェトナムの女は支配欲の塊、の、束縛主義で、最終的には誰と結婚しても同じ、というのがH氏の独自の結婚観でもあった




HO CHI MINH



そしてこのFacebookに関しては、わたしは当時、事務所の女性スタッフ一名と「友達」になったのを契機に、「共通の友人」として社内の現地スタッフから次々と友人申請を受けて、僅か一ヶ月程度で数百人、最終的には2,000人に迫る勢いで「友達」が増えて行ったのだ


そうした状況の中で、ある夜に、なんとH氏から友人申請が舞い込んできた


いや、当時は同じ社内でも申請し合うことが多い環境でもあったので、それほど不思議には思わなかったが、しかしまさかH氏から申請が来るとはわたしには想像ができなかった
その驚きは他の二人の長老はSNSに見向きもしないどころか存在そのものを知らなかったいうことを考えれば、H氏がこの手のツールを使いこなすという驚きの方が優ったのだろう


そのH氏の当時のトップ画像は、おそらくは数十年前に日本で撮影したに違いない10代の終わり頃のご本人の顔写真で、頭髪は鬼の角を思わせる鋭い剃り込みが入っていて、おまけに咥えタバコのかなり気合いの入ったもので、わたしは首を傾げながらも、「承認」させて頂いたのだった


そしてわたしもこれまでの半生で、この<note>を含めて様々なSNSは利用してきたが、このH氏ほど独特の使い方をする「友達」はこれまで出会ったことがなかった




HA NOI




H氏のFacebookの使い方とは、自身の投稿を、世界中のアダルトサイトからかき集めてきたエロ画像とエロ動画の一大ライブラリーとして使用する、といった内容で、要するにそうした画像の倉庫アーカイバとして利用していたのだ

しかも凄まじいのは、そうした投稿に閲覧制限を設けるわけでもなく、誰でもH氏のページを訪れれば閲覧可能といった設定を意図的に行ってもいたのだ

だからというわけでもないのだろうが、H氏の当時のFacebookは毎晩、炎上に次ぐ炎上、これぞ炎上、THE 炎上、といったような凄まじい燃え上がり方をしていたのだ

しかもその炎上は、常に二方向に向けて燃え盛る巨大な炎で、世界中の男たちからは見たことも聞いたこともないような多言語と絵文字と共に称賛されていたり、主に上記の、いわば保守的なヴェトナム人女性からは非難の的となって毎晩のように囂々とごうごうと激しく燃え上がっていたのだ

このことはもちろん、H氏の投稿内容とは別に、創成期のFacebookのもちえたSNSの爆発的な力によるものなのだろう


いずれにせよ可燃性を秘めた凄まじい勢いだった

わたしは毎晩、激しく燃え上がるH氏の投稿をスマートフォンで見ながらも
良くも悪くも、流石だな・・・と妙に納得せざるを得ない奇妙な感想を抱いていたのだ




HA NOI




しかしそのような肯定的な感想を持っていたのはほとんどわたしだけで、H氏のこのFacebookの使い方が社内で問題になりはじめた

問題提起をしているのはもちろん現地ヴェトナム人女性スタッフたちで、その多くはH氏のことを理解しているので、やーねぇーで済ませてくれる人も多かったが、工場全体の女性スタッフだけでおそらくは1,000人は超えていたのだ

いくら業務外とはいえ、当時のヴェトナム人従業員の平均年齢は主に20代と若かったということもあり、そこに問題が生じないわけはなかった

ある日、工場の事務所に現地法人でホーチミン事務所の代表取締役を務める、通称、”みんな大好き”おヤンタン”社長が現れ、このH氏のFacebook問題が議題に上がった

流暢な日本語を操ることができるおヤンタン社長はいった


ねぇ、お松?(実際にこう呼ばれていた)悪いんだけど、お松の方からH氏にFacebookの卑猥な投稿を控えるように、それとなく伝えてくれないかしら?



どうして俺が?



という疑問はもはや無意味だということはわたしは十全に理解していた


H氏と衝突して以降というもの、社内ではある意味ではH氏に正面から対抗できるのはわたししかいない、というはた迷惑で勝手な図式が成立しつつあったのだ

わたしには全く気乗りしない話だった


話の内容からして、H氏とのさらなる火種になりかねない危険を秘めているようにも感じ、だから火薬の匂いが嗅げるような爆発性もわたしは感じ取っていたからだ

それに、あくまで業務とは別のSNS上の話なので、もしもH氏の投稿を見たくないのであれば、逆に閲覧制限を設けるか、「友達」から削除すれば解決する話なのだ

そのことをそれとなくおヤンタン社長に告げると、彼女は小さく首を横に振った


お松の「友達」の中にも日本の顧客の方がいるでしょう?
もちろん、H氏の友人の中にも・・・




そういうことか




わたしは立ち上がってこういった

わかりました。わたしからH氏には今日中に話しておきます。ただし、結果については約束は・・・しかしいずれにせよ、追っておヤンタンさんに連絡入れますよ




HO CHI MINH




その頃のわたしとH氏の関係性は、当初の衝突からはすでにだいぶ日にちが経ち、冷戦の時代も終えて、奇妙だがいわば倦怠期のような時期に入っていた

わたしも入社してからだいぶ月日が流れ、お互いの考え方をお互いに理解できうる時間を経て、それでもさすがに差しで飲みに行くということはなかったが、たまに他の二人の長老やおヤンタン社長とともに「赤とんぼ」で一緒にビールを飲む程度には回復していたのだ

何より、H氏は衝突直後はわたしのことをあの小僧だけは許さん、と腹を立てていたが、この頃、他の社員に向けてはあいつは根性が据わっていると評するように、いささか前向きには変化していたらしいのだ


そのH氏は、その日、その昼休みにヴェトナム人のように片手で真っ赤な唐辛子を齧りながら美味しそうに白米とおかずをかきこんでいた

わたしも会社支給の、銀のトレイに白米と数種類のおかずが盛られた、通称、工場弁当をH氏の正面に置いて座り、それを食べながらも口を開いた

通常、このような場合はまずは世間話から入るべきなのかもしれないが、この時のわたしはそのような器用さを持ち合わせていなかったし、何よりH氏と話す「世間話」はどう考えても何も思い浮かばなかった

単刀直入に、ストレートにこう話しかけた



Facebook。毎晩、炎上していますね?



H氏は顔をあげ、余裕を浮かべた笑みを浮かべてこう返してきた



炎上?あんなもの、実生活での炎上に比べれば、何ほどのことでもないわ



いきなり名言を吐いたな、とわたしは思ったが、同時にこの反応の速さはおかしいとも感じた


まるでわたしがこのことを持ち出すのを事前に察知していたような・・・

その可能性は十分にあった
H氏を含めた3人の長老たちは、「長老」と呼ばれるに相応しく、会社組織とは別の、いわば自分で手なづけてきた現地スタッフたちの間に隠然としたネットワークを築き上げているのも大きな特徴だった

自身の身に危険が迫ると、つまり日本から社長が工場に来る日程などは、公式に社内で発表される前に自前で情報を仕入れ、いきなりテキパキと忙しく仕事を始め、急にミーティングを立ち上げて招集をかけ、関係者たちに指示を出しまくることなど、この長老たちには造作もないことだったのだ

ここからはあくまで推測だが、当時社長のフライトチケットはホーチミン事務所が取得していたので、その担当者にまるでアラーム機能のように、チケットが確定した段階で情報を密かに横流しさせ、同時に絶対に口外するなと釘を刺していたに違いなかった



そしてそうした雰囲気が濃厚に漂っているのが当時の長老たちの姿だった



特にこのH氏はFacebookを使えるので、流暢なヴェトナム語を操ってメッセージ機能などを駆使し、事前におヤンタンの動向を察知し、そこから導き出される推測を組み立てていたとしても全く不思議はなかったし、手なづけていた部下たちから「炎上」が社内で問題になり始めていることを事前に察知していた可能性も高かった


そして、この話はここから意外な展開を見せた


H氏はいった



わかった、わかった。わかったよ。もうエロ画像の収集には飽きたけん、もうせんよ



人間は寿命が迫ると急に素直になると何かで読んだことがあったが、まさか、とは思った
H氏がこんな素直なタマではないとは、おそらくは社内では誰よりもわたしが理解したが、しかしそれにしても驚くべき回答だった
わたしはH氏を正面から見据えると、しかし、わたしを担いでいるような雰囲気も一切ない・・・


怪しい
この先に何かがある


そしてH氏は二本目の唐辛子のヘタ部分をアメリカの渋い俳優のように、直接口で噛みちぎってはそのまま床に吐き捨てては身をがぶりと齧りかじり、食器のトレイを邪魔だというように脇に寄せてわたしを正面から見据えてから、こういった




ところでお前、Facebookで俺の波乱万丈の人生ば書いてくれんか?





HO CHI MINH




一瞬、このH氏が何を言っているのかが全く理解できなかった

自伝?
H氏の自伝を?おれが?どうして?


H氏はいった
生身で齧った唐辛子の辛さを、全く感じていない涼しい顔だった


小僧?お前、Facebookで「PORTLAIT」って記事を連載しよるやろうが?





嗚呼・・・




そうか、そういうことか


確かにわたしはその当時、Facebookでそのような記事を書いていた


しかしそれは「連載」ではなく、「アルバム機能」を使って、主に同僚や後輩、「ビアホイ倶楽部」のメンバー、そしてヴェトナム人スタッフを、当時買いたての一眼レフで撮影し、その人物とのエピソードをA4一枚程度にまとめて「友達」にのみ、限定的に、そして不定期で公開していたのだ


そのアルバムのタイトルが「PORTLAIT」だった

そしてその記事にはおや?と思えるほど、このH氏からの「いいね」や肯定的なコメントが多く寄せられていたのだ

H氏はやや改まった口調で、しかし目を据わらせて力強くこういった


お前はまだまだ仕事は青二才やけど、始末屋としての報告書・・・あれは見事だ
そしてFacebookの記事内容・・・
俺の半生ば語って聞かせてやるけん、俺の自伝ば書いてくれんね!?





その「PORTLAIT」からの一枚
試作制作のリーダーと冷たいジュースを飲みに行った時に撮影
リクエストすれば抜けた前歯に煙草を挟んで吸ってくれるユニークなヴェトナム人の同僚
当時のスマートフォンで撮影し、加工したもの




その「PORTLAIT」からの一枚

”みんな大好き”おヤンタン社長

海外・・・いや社会に出てから様々な人たちと巡り合ってきたが
このヤンタンさんほどに人間的な温かみを持つ人物には、その後ほとんど出会えていない

レストラン、4PSで撮影




その「PORTLAIT」からの一枚

画面中央の老人は、「3人の長老」のさらに上に立つ、当時の最長老
最長老が贔屓にしていた和食レストラン「赤太陽」に個人的に招待してもらったときの一枚
ご本人が「娘たち」と呼んで可愛がっていたお店のスタッフたちに囲まれた一枚




強い敵対関係にあったH氏からの、自身の「自伝執筆」の依頼を、まさかこのわたしが受けるとは本当に想像できなかった

Facebookの使用方法然り、この依頼に然り、H氏のいわば感性とは、いつもわたしを驚きの別世界まで連れていってくれることは間違いなかったが、しかしそれでも「書いてみよう」とは思わなかった

なぜならば、当時、SNSとは少なくともわたしにとっては遊びの延長であったし、「PORTLAIT」も忙しい仕事の合間に、主に深夜の国際空港の待合室で暇つぶし程度に書き起こしていたに過ぎなかったからだ

ただ、書く対象は面識のある生身の人間に限定していたので、多少は気遣いながらも丁寧に文章を起こしてはいたが、ただそれだけだった

H氏からのこの依頼は、わたしにとってはまさに青天の霹靂で、まさに意外な人物からの意外の申し入れだったのだ・・・




HO CHI MINH




このことを境に、急速にH氏との距離が縮まっていったように思えている


しかしそれはあくまで「酒席において」という限定的なもので、業務中はH氏は相変わらず「王国」に姿を暗ませたり、「ちょっとサプライヤに視察に行く」といってはそのまま職場には戻って来なかったりと、はっきり言ってやりたい放題だった


その「酒席」は、まずは会社が運営する1区の「赤とんぼ」で皆で食事し、その後に市内の別の店を梯子するというのがオーソドックスだった
当時のわたしは「PORTLAIT」のこともあり常にバッグの中に一眼レフを忍ばせて
いたが、H氏はこの頃から常にわたしの正面に座り



ほら?小僧!なんばしよっとね!?ぼさっとせんで俺を撮らんか、俺を!




とまずはビールでほろ酔いしながらも、店で大声を張り上げてリクエストして千鳥足の帰り際には


小僧、今日撮ったおれの写真はFacebookにあげておけよ?




そうした日々だったのだ





HO CHI MINH



ホーチミンには、当時も、そして今も世界中のレストランやBARが集結している美食の都市という側面も強く持っているので、行きたい店や行くべき店には全く不自由はしなかった

ヴェトナムに在職当時は、「食」には全く不自由を感じず、その後に渡ったスペインやここインドネシアでは、赴任当初こそは色々と食べ歩いて舌鼓を打ってきたがそれもせいぜいが半年程度で、ホーチミン時代のように奥行きのある食生活とは無縁の生活だった
現在に至っては米を炊いて漬物と味噌汁といった簡素な食事が好ましく思えてくる始末で、時々、無性にホーチミンに戻りたいという衝動に駆られることになるのだ


当時はたいていは皆でタクシーを乗り合わせ、おヤンタン社長やH氏がよく知っている店に雪崩れ込み、深夜遅くまで飲み明かすことが多く、二次会や三次会ではわたしはH氏の横に強制的に座らされては、別にこちらから尋ねてもいないのに延々と、そして赤裸々に自身の武勇伝を含めた波乱万丈の半生を聞かされることとなったのだ

そして一つの結論を先に述べると、このH氏の「自伝」についてはわたしは今日現在において一行も書いていない

それは「拒否」して書かなかったのではなく、「自伝」という形式の書物にほとんど全く興味がなかったこともあった

対象の人物の生い立ち、それも少年期から人格形成の青年期、壮年期、老年期をノンフィクションの、いわゆる「挿話主義」で構成する手法は抵抗なく理解できるが、もしもわたしが書くのであれば、たった一つの「挿話」のみで、その人物の全てを語らせるという手法を取るのだろうが、まずそうした濃密な時間を共有できる「人物」や「挿話」に巡り合うことはないだろうし、そして、何がその人物の「全て」なのかを見出すには、それこそ気が遠くなるような時間がかかるはずだ

加えて、断片的に聞いたH氏の半生の多くは酒席での話だったので、細部に関しては覚えていなかったということも大きかったし、何よりH氏からの唯一の注文、炎上するように書け、という、わたしには理解不能の書き方を強く要求されていたことが最大の原因だった




HO CHI MINH
Bui Vien St.




しかし、今振り返っても、炎上するように書くには一体どのような書き方が有効な手段となるのだろう

たとえばわたしが一方的にH氏を断罪し、「炎上」の矛先がH氏に向かうように書くのか、そうした内容を平然と書く、書き手自身のわたしが「炎上」する書き方なのか・・・



わたしにはわからない



ただ、そのような無謀とも思える書き方を要求してくる当時のH氏の心境としては、やはり心理的に寂しかったのだろうなということは、今になって振り返って推察することができる



もっといえば、H氏は常に人を求めていたに違いない



その破天荒な言動と、激動だったとも思える彼の波乱の人生には、長い時を経た今になっては、その晩年の一時期を共にヴェトナムで働かせてもらった、少なくともこのわたしにとっては、常に周りを大勢の人たちに囲まれながらも、本質的には孤独な生涯を送った、いや、送らざるを得なかった一人の男の実像が、微かに透けて見えてくるような気さえする

そしてその心の隙間のような寂しさを一時的にでも埋めてくれる「何か」があれば、実はSNS上の炎上とはそれほど悪い手段ではないようにも思えてくるから不思議だった
そしてそれはもちろん、だからといって誹謗中傷を肯定したいということをここで言いたいのではない

よくも悪くも炎上することは、人の注意を自分自身に強く引き付ける手段でもあるのだろうし、SNS全盛のこの時代には、炎上とはひとつの有効な商法としてさえも存在している

ただ、無論、いうまでもなく、このH氏のようにはがねのメンタル・・・いや、メンタル云々を超越するかのような異端の感性があって初めて、SNS上の炎上は寂しさを埋めるために有効になりえるのだろうが、それを踏襲することは、わたしたちにはあまりにも危険すぎる

H氏のように、誹謗中傷を額面通りに真正面から受け取ることなく、まるで馬耳東風、まるで馬の耳に念仏、の、どこ吹く風で済ませてしまうH氏のような怪物にのみ有効な手段であって、それには以下のような短いエピソードを添えて話す必要がある

H氏がかつてFacebookで毎晩のように世界中から集めたハレンチ画像を収集して公開していた頃は、寄せられた炎上コメントやダイレクトメッセージの中には、外国からの「殺害予告」も含まれていたと本人から聞いたことがある

しかし当の本人は、それに対して何と自らの住所を相手に送りつけるという、わたしのような者にはとても理解できないもので、もちろん相手が実際には来ないという前提で送ってはいるのだろうが、しかし、わざわざ住所を送る必要がいったいどこにあるというのか・・・

このような挑発的な返答を繰り返し、それを酒を飲みながら一人で悦に入ることができる、常人の理解の遥かに外側に存在する、まさに怪物で、異端の感性を持ちえた人物でもあったのだ・・・




HO CHI MINH
4PS



だからわたしは、当時H氏の「炎上するような自伝」を書くことができなかったが、しかし、これならば書けるかなと思ったエピソードが一つあった

それはもちろん「自伝」用ではなく、あくまで単発の内容になるのだが、もしかしたらその「幻の自伝」なるものが存在していたと仮定したら、それは、決して除外することができない、H氏の半生を炙り出す際の、極めて有効な挿話となる性質を有していると思えたからだ

そしてそれは、アル中を自称するH氏ならではの、切っても切り離すことができない、酒にまつわる強烈なエピソードでもあった




HO CHI MINH
H氏が好んで愛飲していたイギリスのジン、BOMBAY
当時、一緒に飲みに行ったRED BARにて



その当時、わたしは週6日はこのH氏と毎日のように顔を合わせていて、その姿は大抵は二日酔いであったが、しかしそれを差し引いてもどこか飄々とした雰囲気と表情をしていたように記憶している

根が陽気な人なのだ

そうした長い日々の中で、ただ、たった1日だけ、その日のH氏は朝からかなり憔悴し、落ち込み、わたしを含めた周りの誰もが声をかけることができなかったという日が存在したのだ

その朝は月曜日で、前日の日曜日に、このH氏は出張先のヴェトナムの首都ハノイから、日本の社長に連行される形でホーチミンに戻ってきたのだ

それは、社長に同行する形ではなく、紛れもなく、連行される形だった


H氏は他の日本人にはできなかった流暢なヴェトナム語を自在に操ることができたので、この時のハノイ出張のように単独で出張を組むことが多かった

何しろ通訳を同行させないということは、会社としては出張経費を最小限に抑えて成果を求めることができるし、例えばわたしが同じハノイ出張を組めば、通訳1名を含めて2倍の航空料金、2倍の宿泊費、2倍の細かな雑費が生じてしまうのだ

だからH氏は、その点を利用して何かと理由をつけてはホーチミンから北のハノイや、南のカントーへの謎の出張を繰り返していた
それがなぜ「謎」なのかは、おそらくはその出張理由を知っているのは、最終的に決裁を下す社長だけのはずで、H氏本人がわざわざわたしに理由を説明することもなかったし、他の長老たちは

やれやれ・・・
まーた遊びに行ったな

程度で簡単に片付けてしまうものが多かったのだ

そしてこのH氏の「ハノイ出張」は、その後社内では「伝説のハノイ出張」として揶揄されたり、語り継がれたりと社内におけるいわば「黒歴史」を作り上げたのだ


この時、H氏がハノイまで何をしに行ったのかはわたしには今もってわからない

商談だったのかもしれないし、視察だった可能性もあるし、あるいは当時よく開催されていた機械の展示会での情報収集だったのかもしれない

しかしいずれにせよこの日、午前中で早々に仕事を切り上げたH氏は、ハノイの旧市街の屋台に陣取って昼食とともに酒を飲み始めたのだ

わたしはこのH氏とは何度も酒席を共にしたのでよく理解できるのだが、H氏の酒の飲み方は至ってシンプルで、それは「泥酔するまで飲む」という性質のもので、この日昼から飲み始めたH氏はその店で一人で夜まで飲み続け・・・泥酔し、結果的に地元のヴェトナム人のチンピラたちと、65歳にして乱闘騒ぎを起こしたらしいのだ

なぜそれが、らしいという推測の域を出ないのかは明白で、泥酔したH氏はほとんど記憶を飛ばしているからだ

しかし矛盾するのが、後日談で、H氏のほとぼりが冷めた頃に”伯爵”主催の「赤とんぼ」での飲み会の席で、H氏は記憶を飛ばしていたという割には


あのとき相手は5〜6人はおったとバイ!



と身振り手振りで説明し、激しく息巻いていたが、それを聞いたわたしたちは



そうか・・・。じゃあ相手は1人だったんだな



と暗黙で共通の意見を持つだけで、もちろんそれを口に出すというような馬鹿げたことはしなかった




HO CHI MINH



しかしこのハノイでの乱闘騒ぎで、H氏は急行したパトカーで地元の警察官に身柄を拘束されて、泥酔状態のままトラ箱にぶち込まれてしまった

ここからはわたしも改めて勉強になったのだが、海外、いや、少なくともヴェトナムで警察沙汰を起こし身柄を拘束されると、日本と同様に「身元引受人」が必要となるのだ


「身元引受人」


わたしは詳しくは知らないが、それは一般的には家族に求められる役割のような気もする

H氏のご両親や兄弟はすでに他界していて天涯孤独とは本人から聞いていたし、別れたヴェトナム人の前妻とは所在を含めて一切連絡が取れないはずだったので、ここからいったいどういう経緯を辿ったのかは不明だが、推察するには就労ビザをもとに、大使館経由で日本の会社の社長へ一報が入り、それを重く受け止めた社長が即座に腰を上げて、成田からホーチミンではなくハノイに飛び、「身元引受人」としてH氏をホーチミンへと連行して帰ってきたのだ・・・




HO CHI MINH




H氏の、ある意味では人間的な魅力とは、例えばこのわたしには破天荒に思えるエピソードが象徴しているかのようにも思えるが、実はその焦点はここにはまだ一切ない

驚くべきことは、事件直後にさすがに憔悴しきってホーチミンに戻ってきたH氏を取り巻く、このわたしたち同じ会社の人間のコメントを無造作に並べただけでも、H氏の本当の人間的な魅力のひとつの側面が、実像として確かに浮き彫りになってくるからだ


わたし:


とにかく”娑婆”に戻って来れてよかったです


最長老:

やってしまったことは仕方ねぇだよ(静岡弁)


開発と品質の長老:

どうせハノイのチンピラが、H氏から金を巻き上げようとしたんだろ

おヤンタン社長:

あちゃー!Hさん、またまたやってしまったのかぁ

日本の社長:


今回のH氏のハノイでの一件は、全て俺に責任がある
H氏が深酒することは俺も昔から知っていたし、ハノイの治安の悪さもあったのだろう
それを踏まえて単独でハノイに送り込んでしまった、俺の経営判断が間違っていた




H氏は、わたしにとっては本当に不思議な存在だった

他者を巻き込むような騒動を起こしていながらも、最終的には何というのか・・・家族的な・・・
温かい・・・


わたしはその思いを正確に言い当てることができる語彙を持たない




HO CHI MINH



H氏のこの、「泥酔するまで飲む」という性質スタイルは、何よりもみんなでよく行った酒場では、まずおヤンタン社長がH氏から酒瓶を取り上げて隠し、流暢な日本語を操ることができる彼女から


もう、いい加減にしなさい!


と、まるで母親のような叱責を受けるも、H氏は隙を見ては勝手に追加注文をして、酒が運ばれてきてそれを一気に飲み干すと、まるでおヤンタン社長に真正面から反抗するかのように



かぁ〜!うまか〜ッ!!



の繰り返しだった

そしてわたしもH氏の健康状態に関してはかなり強い危惧の念を抱いていて、本人に何度か身体に異常はないのかと尋ねたことがある

そうした際は、H氏は右手の人差し指を突き立て、それで自分の頭を指して



俺の頭には爆弾が埋まっとる



だった


そしてそれはもちろん全く根拠のない話ではなく、当時わたしたちは年に一度、ホーチミン市内にあるフランス系の病院で健康診断を受けていたが、あるときH氏には脳の血管に、将来的に危険となりうる小さな血栓が認められるとの診断を受けていたのだ

その血栓と、多量の飲酒の直接の医学的な因果関係まではわからない
しかし逆に考えると、関係がないはずがないのだ

その血栓を指して、H氏は「爆弾」と称していたが、しかしその「爆弾」は彼の生涯においては最後まで炸裂することはなかった

H氏本人も、その頭の血栓のことはかなり気にしてはいたが、それがミスリードとなったのか、実はこのときすでに、頭部ではなく、本人に何の自覚もないままに、心臓にある致命的な異変が起こり始めていたのだ






HO CHI MINH





H氏との別れは唐突にやってきた


しかし、「死別」の前に、仕事上の「別れ」が先にあった


H氏は当時65歳にして、定年という退職の道ではなく「転職」という新たな道を選び取ったのだ
当時勤めていたこの会社には定年は存在せず、身体が健康な限りは、そしてやりたいという意思さえあれば現役を続行する道もあったのだが、H氏は30年以上も勤めたこの会社を去る決断をし、それを実行に移そうとしていた

もちろん、わたしたちを含め、社外の同業他社の日本人からも翻意するように勧められていたが、本人の意思は予想を超えて堅かった


そのような時期に、日本の社長からわたしに直接電話がかかってきた


悪いんだけどさ、H氏を連れて静岡まで来てくれない?


その電話を受けたのは、わたしの福岡にある実家に滞在中で、そのときちょうどヴェトナムにおける旧正月の長期休暇中で、H氏も実家のある福岡県の大川市の実家へ帰省中だった


そしてなぜ、H氏が単独ではなく、わたしが同行するかについては疑問の余地を挟むことはなく、このH氏は「1人で公共の交通機関に乗れない」という奇妙で独特な性質があり、わたしも本人に何度となく聞いたが、切符の買い方がわからないや、乗り場が理解できないという、わたしには到底信じられない理由だった

しかし不思議と、唯一、以前1人で搭乗したことがある「ホーチミンのタンソンニャット空港発の飛行機」ならば乗れるという・・・



あくまでわたしの個人的な主観では、H氏がかつて世界中のアダルトサイトにアクセスし、それをfacebookを用いて自前の倉庫アーカイバのように整理することができる、いわば「器用さ」があったはずだが、それと上記の「不器用さ」がわたしにはどうしても結びつかなかった
もちろんそれらは、全く異なる性質であることは間違いないのだが、極端な対比が同居していると思えるのも、わたしが感じたH氏の個性だった


そしてこのとき、社長はわたしに電話をかける前に事前に福岡→静岡の航空券を調べてくれていたが、急だったこともありあいにくの満席で、だから新幹線で連れてきて欲しいという依頼だったのだ・・・




HO CHI MINH



JR博多駅から静岡駅までは、新幹線の種類にもよるがおよそ5時間はかかる

その5時間もの間、当時のわたしはH氏とふたりで一体何を話していたのだろう

このときの記録は当時のFacebookにも詳細は残っていないが、唯一、チェックイン機能を使用していて、「JR京都駅にチェックインしました」との無味無臭で、一切の味気がない記録がポツリと残されているだけだった

このとき、H氏と京都に立ち寄ったという記憶はまるでないので、新幹線が京都駅で停車した際にでも、その機能を使用してみたのだろうか

いずれにせよわたしがその機能を使用したのは、後にも先にもこのときだけだったが、その「チェックイン」が正確に午前中の10:38、博多から京都までは片道の新幹線でおよそ3時間はかかることを逆算すると、この当日は実に8時前の博多発の新幹線にH氏と乗り込んでいたことになる

そしてそのことに思い至ると、濃い霧に包まれていたようなこの日の記憶がぼんやりと輪郭を持ち、いくつかの鮮明な映像と共に、わたしの意識の中で立ち上がり、蠢くように繋がり始めた


そう
言うまでもなく、また、書くまでもなく、この日は朝から新幹線の車内で、H氏は酒を飲み始めたのだ・・・




HO CHI MINH



この当時の記憶は少ないが、ある鮮明な色と共に思い出せることができる

それは、「爪の色」だった

そのとき、ふと、H氏がわたしの左手を取り、しばらく眺めた後でこういったのだ



ぬし?健康状態が相当に悪いぞ




おっ、お主?
このH氏は、時折こうした時代劇調の言い回しを会話に混ぜ込んでは使用していた

それは当時本人が好んで愛読していた池波正太郎の時代劇小説が直接の影響を与えていたに違いなかったが、この頃になると、その程度のことなどわたしももう慣れっこになっていて、さほど驚きはしなかった

健康状態?
いったいの何の話だか当時のわたしには理解できなかったが、H氏いわく、健康状態というのは爪の色に現れるらしく、そのときのわたしの爪は確かに赤く、薄っすらと濁ってさえいた

それに対してH氏の爪の色は、まるで赤ん坊のお尻の色のような綺麗な桃色で、わたしはその医学的な根拠のような知識は一切もたないが、しかしこの両者の爪の色でどちらが健康的かと言われれば、それは間違いなくH氏のほうだった

そのときのH氏の鮮やかな桃色の爪の色は、今でもわたしの記憶に不思議な定着さを残したまま残っている

この話はH氏がいったいどこから仕入れてきたのかは不明で、どこまで信憑性があるのかも不明だが、この日以降、わたしは今日現在に至るまで、ふと自分の爪の色を確認し、自分の健康状態をまるで呪術師のように占うような習性ができたが、それはこのときにH氏が指摘してくれたことによるものだった


そして、当時は新幹線には車内でのワゴン車による移動販売サーヴィスがあった
コロナ以降はそのサーヴィスは縮小されたか、あるいは完全になくなったというような記事を読んだ記憶があるが、現在のことはわからない

通路にその若い女性スタッフが制服と思しきエプロン姿でワゴンを押しながら現れると、H氏は必ず呼び止めてビールやカップ酒、乾きものなどを大量に買い求め、それをわたしにも振舞ってくれた

それが毎回、ワゴン車が通るたびに欠かさず追加を買っていたので、わたしたちはその日の臨時の「お得意様」のようになり、ワゴンを押している女性も必ずわたしたちの横で止まり「いかがいたしますか?」と丁寧に声をかけてくれ、それを受けてほろ酔いのH氏が



あんた、親切かねー



とあたりを憚らないはばからない大声で褒めちぎったり



可愛か顔ばしとるやんね!



と、現代においては何らかのハラスメントに抵触するかのような危ういセリフを言い放っていたが、そのときの女性スタッフの寛容な性格とプロフェッショナルな職業意識もあってか、わたしもH氏も、そしておそらくはその女性スタッフにとっても楽しいひとときでもあった


H氏と一緒にいるときには、たびたびこのような光景をわたしは見てきた


それは若い女性をナンパするのとはまた別で、このH氏は、本来嘘偽りのない人でもあったので、自分の心の中に想起した思いや感想を、それをそのまま、一切の装飾を排して、ストレイトに口にし、相手に伝えることができたのだ

もちろんそのことが時に相手にとって不快とうつり、トラブルに発展することもあったのだろうが、H氏のように、こうした透き通るような率直な資質を持ちえた人物には、少なくともわたしのこれまでの半生においては、実はほとんど巡り合えていない、稀有な人種だったということに気がつくことができる



そしてもちろんこのときも、これでハッピーエンドというわけにはいかなかった



毎回毎回、ワゴン車を呼び止めてわたしにビールやつまみを大盤振る舞いしてくれるH氏に対して、さすがにわたしも申し訳ない気持ちになり、あるときわたしが財布から紙幣を取り出して支払いを済ませようとしたとき、H氏からこう怒鳴られてしまったのだ




お前は俺に恥ばかかせたいとか!





その「恥」が、H氏自身がもつ、わたしに対する、遥かに年嵩の「上司」としての矜持に起因しているのか、あるいは可愛いと褒めちぎっていたその女性スタッフの前でかかされた「恥」なのかは当時はわからなかったが、こうして今振り返ると、それは明らかに前者であったということがよくわかる

なぜならばH氏は生前、離婚した4人の前妻たちとの間に数人の子供をもうけ、彼、彼女らはヴェトナム各地に散って生活していたが、その養育費のこともあり、よく



金がねぇ、金がねぇ




と頭を抱えていたが、何度も連れていったもらったホーチミン市内のローカルの居酒屋や屋台、時に欧米人が集うBAR、和食店などでも、そのほとんど全ての会計はH氏が気前よく払い、息子のように歳が離れた後輩であるわたしにはただの一度も、だから、割り勘はおろか、一円でも支払わせるということがなかったのだ・・・


そしてわたしはこのH氏とは違って、思ったことをそのまま口に出せるような器用さを持っていないので、そのときは紙幣を財布にしまいながら、激しくこう思った




いや、こう呪った



もう、こいつとは絶対に新幹線には乗らない!





HO CHI MINH




JR静岡駅の改札口には、社長自らが迎えに来てくれていた


社長は当時40代後半でH氏よりも遥かに年下で、この日はスーツ姿で、わたしたちの姿を認めるとにこやかに微笑み、わたしに対しておどけたように敬礼し、こういった

”犯人”の護送、お疲れ様でした

社長は本来、このような冗談を人前でいうようなタイプではなかった
しかしやはりこのときは、このH氏の退職希望の件を念頭に、本人をリラックスさせるためにいった冗談のようにわたしには思えた

それを受けてわたしも背筋をスッと伸ばして、社長へ向けて敬礼し


”凶悪犯”の護送、ただいま完了いたしました!


と威勢よく答えると、酒で顔を赤めたH氏がすかさず


いや、社長に言われるのはわかるとばってんが

何でおまえのような若僧に・・・



もちろんこのとき社長がわたしたちの間に割って入ってくれ、H氏にむかってにこやかに笑いながら

まぁまぁまぁ、いいじゃないですか!

とフォローにまわってくれたのだ




HO CHI MINH



そして全てはこのH氏の死後、いくらか時間が経過した後に、この社長がわたしに直接語ってくれたことによると、やはりこの日は、H氏の退職の意志を何とか翻させるために静岡まで呼び寄せたらしい

しかも、わたしも当時何となくは想像していたのだが、H氏を会社へ引き留めるために、社長だけでなく、社長の母親、つまり会社の「会長」までが動いたのだった

当時の会長はすでに80歳をいくらか超えていていて、病気ひとつしていなかったが、いかんせん、かなり足腰を弱めていらっしゃったのだ

社長からH氏を静岡まで連れてくるように電話で指示された際、通常は即断即決で強い行動力を持つ社長が直接福岡に来るのをわたしは十分に想像できたが、わたしたちの方から静岡へ向かうことになったのは、だから、社長の背後に会長が控えていたからに他ならなかった



そしてこの日、H氏は社長と共に2人で会長宅へ向かい、料理好きでもあった会長の、地元焼津港で獲れた新鮮な食材をふんだんに使った手作りの料理を前に、しかし、まるで頑なな少年のように両手を両膝に置いて俯いたままうつむいたまま、出された料理にはほとんど一切手をつけず、そして退職の意思も翻すことなく、しかし、注がれた酒だけは綺麗に何杯も飲み干していたらしい・・・




HO CHI MINH




そしてわたしはこの日、JR静岡駅の改札口で激しく交差する雑踏の中に消えていく社長とH氏の背中を、その姿が見えなくなるまで見送っていた

それは今冷静に振り返ってもH氏のためではなく、直接出向いてくれた社長に対する、部下としてのわたしの、礼儀に起因する行動だったのは間違いなかった

そしてわたしには霊感のようなものは一切なく、いわゆる虫の知らせなどもほとんど信じてはいないが、しかしこの日、姿が消えるまで見送ったH氏の背中が、わたしが生前のH氏を見た最後の姿だった




HO CHI MINH




わたしがJR静岡駅でH氏を見送ってから、そのH氏が逝去するまでの日々とはどういったものだったのか


H氏はその休暇が明けてヴェトナムに舞い戻り、正式に退職の手続きをとり会社を去っていった
それは当時65歳での転職で、だからもちろん転職先はすでに決まっていて、それは自身が専門とする家具製作に用いるある固有の機械の、さらに専門性の高い知識と経験が要求される特殊工作機器を販売する日系の会社だった

その会社の老齢の社長とH氏は昔馴染みで、その社長が来越された際にはホーチミン市内で頻繁に会って飲みにいく親しい間柄だと本人から聞いたことがある

つまり、というか、もちろん、全てはH氏が退職するずいぶん前から、本人がこの転職の話を肯定的に捉えて、しっかりと水面化で進めていたのだろう

そしてその転職は、いわゆる「天下り」のような特質性は一切なかった


なぜならばH氏が自分で選び取った道は、その会社で「営業部長」という待遇で入社し、これまで一切「営業」をしたことがなかったH氏にとっては、たとえその業務がホーチミンという自身のホームグラウンドで、業界の関係者が多いことを差し引いたとしても、老いてなおも新しいことに挑戦することに、そこに一切の戸惑いがなかったとは考えられない
このまま30年以上も勤め上げた古巣の工場で、誰にもその所在を掴ませなかった「王国」でマイペースに仕事をこなしていく道もあったのだ

そう

H氏は老いてなお、また新しいことをやらかそうとしていたのだ・・・



この時のH氏に対して、わたしは、この休暇以降もしばらく日本に留まって業務を行うことになった

始末屋としての仕事も相変わらず継続していたが、その、損な役回りだと思っていた業務が、いつの間にかわたしに仕事上の新しい段階へ進むことのできる知識と経験を与えてくれていたためだった

始末屋は、結局、つまりは工場の弱点を炙り出すことのできる業務で、わたしは自分でも知らず知らずの間に家具製造における最低限の基礎知識を有していることになったのだ

つまり工場の生産キャパシティやリードタイム、製造可否の判断、世界中から輸入していた家具に用いる木材の種類や特性、その変動性の価格、為替の動向、家具に用いる人工物や椅子用の生地、輸出用コンテナの知識、貿易の種類や取引条件、そして難解だった工作機械の特性に関する基礎知識までもがぼんやりと形になり、一本につながり始めていたのだ

だからこの時期、日本から商談に来られた新規や既存の顧客との商談の席にも、長老たちから同席を許可され、顧客からの質問に対してもある程度はその場で回答できるように成長していた
加えて不明点があれば気軽に、あの偏屈で通った長老たちとも気後れせずにコミュニケーションをとることが可能になっていて、商談後の顧客との「赤とんぼ」での会食の席にもいつの間にかわたしの席が加えられ、参加するように求められていたのだ

それは、入社当時はほとんど一言も話してくれなかった長老たちの姿を振り返ると少なくともこのわたしにとっては大きな進歩だった

そうした基礎習得の時代が終わり、その数年間で得ることができた知識と経験をほとんど唯一の武器に、今度は日本中、それも47都道府県全てに新規営業をかけるという新たな任務が加わり、わたしよりもやや年下の「先輩」と2人で、日本中を駆け回るもう一つの激動の時代が開幕しようとしていて、当時は日本でその下準備に取り掛かかり始めていた時期でもあったのだ




BING DUONG
VIETNAM




7ヶ月


たったの7ヶ月だった


H氏が退職して、新たな転職先で勤務し始めてたった7ヶ月余りで、H氏は足早に生涯の幕を閉じ、この世を去っていってしまった





BINH DUONG
VIETNAM




その生涯最後となる日は、H氏は日本から来られていた老齢の社長と共に、ホーチミン市に隣接しているBINH DUONG省へ、ヴェトナム人ドライバーが運転する社用車で主に日系企業を中心に精力的な営業活動を行なっていた

BINH DUONG省はこの10年で急速に発展してきた、南部ヴェトナムにおける巨大な新興都市で、地方から出稼ぎに来た労働者で溢れかえってしまったホーチミン市の第二の受け皿として、次第に人材が集い、それに合わせて外国からの巨大な資本が投資され続け、ヴェトナムの灼熱の太陽を映し出すハーフミラーの窓ガラスを具えた高層ビルが立ち並ぶようになったメガシティでもあった


黄昏時

その老齢の社長とH氏はその日の営業活動を終えて、ホーチミンへ戻るその車中で、一切なんの前触れもなく、突然H氏の身体に異変が起こった

その最前まで、老齢の社長がH氏に対して、今夜はどこで一杯引っかけようかと持ちかけた時、H氏は満面の笑みを浮かべながら次々と候補の店の名前と、そこのおすすめの料理やツマミを、これでもかと口で並べたているまさにその途中で、唐突に深い眠りに落ち、大きないびきをかきはじめた

老齢の社長はすぐに異変を察知した

誰がどう見ても、それは異常な状況だった

何しろ最前まで会話をしていた相手が、突然眠っていびきまでかきはじめたのだ
正常であるはずがない

老齢の社長は、H氏のこの異変を咄嗟に心筋梗塞の発作と判断し、まずは万が一の際に舌を噛み切らないようにH氏の口にボールペンを水平に押し当てて咥えさせて、自分で固定し、ヴェトナム人ドライバーへはまるで大声で怒鳴るかのように、その場所から最も近い救急病院へ行くことを指示した




HO CHI MINH



あまりにもあっけない、そしてあまりにも唐突なH氏の「死」だった


その老齢の社長は、人間は「死」に対してここまで無力なものなのかと、胸に鋭い痛みを覚えながらも改めて思い知らされていた
これまでの人生において、もちろん友人や知人、仕事関係、そして家族をも彼岸へと見送ってきたが、この痛みと、絶対的な何者かに対しての、この果てることのない無限の問いに、回答が与えられることはないということもわかっていた


H氏の心臓は、一切の信号を無視して急行した救急病院に到着した際には、すでにその活動を停止し、遠い彼岸へとすでに歩み去ってしまっていた




HO CHI MINH




その日、その老齢の社長がわたしたちの職場でもある工場へ来社されるというアポイントメントが入り、来客用の商談室には、定刻より前に人が集まり始めた

おヤンタン社長、最長老、「開発」と「品質」のそれぞれの長老、日本から出張で来ていたROさん、そして、わたしの合計6名

わたし以外は、会社の最高幹部に名を連ねる、それぞれの部門のトップでもあった



そしてその老齢の社長が語ってくれた、H氏のその生涯における最後の日に何が起こったのかの詳細をわたしたちに聞かせて頂いた後で、まずおヤンタン社長は、自身の涙が生み出した果てることのない深い河に沈み込み、その日、ついには浮かび上がってくることはなかった

次に、最長老、ROさん、そしてわたしの三名は、硬い密度を持ったそれぞれの沈黙の中に退いた

それはH氏の死について、言葉を失ったり、激しい感傷の渦に飲み込まれたからではなかった

この日、この時、この場では、まるでその場で生じてすぐに消滅するかのような儚いはかない、しかし確かな質量をもつ、ある規律ルールのようなものが間違いなく存在していた

その規律ルールは、その場にいたわたしたち全員への意識へ働きかけるというよりかは、無意識下へ訴えかけるような超常的で不思議な力を帯びていて、その力は、その老齢の社長が語ってくれたH氏の死に対して、まず最初にわたしたちの中で、誰が口を開くべきなのかを明確に暗示していた



”伯爵”の異名で通った、「開発」の長老が口を開いた


あれだけやりっぱなしの人生を送ってきたけん、これで良かったとじゃなかとか?


その問いかけはわたしたち全員、ひとりづつの眼を見ながらの、まるで同意を求めるかのような、まるで誰かにすがりつくかのような悲痛の叫びと、そして何かに対して激しい怒りを内包しているかのようにわたしには感じ取れた


そしてその視線を最後に受けて、真横にいた”ギャンブル狂”で通った「品質」の長老も続けてこう口を開いた


よかくさ。よかよか。しかも最期は”一発退場”で死んだとか、いかにもあの人らしいやんか!
おれには本当に羨ましく思えるとよ


この長老は自称、”病気のデパート”でもあり、若いころ頃に発症した糖尿病という持病が、その後長く、さまざまな合併症を体内に引き起こしていた
わたしにはその糖尿病の程度については判断できないが、本人は毎晩食事の前にはインシュリン注射を欠かさず腹部に打たなければならない身体だったので、少なくともその程度は軽度ではなかったのかもしれない

だから長く、薬と、そして病院とは付き合わざるを得ない自身の半生を指して、H氏の”一発退場”を羨むという、この長老自身の独特の愛情が垣間見える、印象深く、そしてユニークな表現のようにもわたしには感じられた



そう



わたしがこの会社で、偶然にも仕えることとなったこの「開発」、「品質」、そしてH氏がトップを務めた「設備」、の三人の長老たちは、「生まれも育ちも大川」で、それぞれが若い頃に社会へ出てこの世界に入ってからは、いくつか会社が代わった過去こそあれど、同じ業界内にその名を轟かせる雄たちで、それぞれの半生において、つかず離れずの関係を繰り返し、この時点でこの三人の長老たちは40年以上の付き合いがある旧知の、だからある意味では戦友でもあったのだ


だからこの日、この時、この場所では、この二人を差し置いて先に口を開くということは、それは何者にも赦されることがない、まるで聖性を帯びた死者への弔いで、そしてそれは古代の、文字通り長老たちのみが仕切ることができる神聖な儀式のようにもわたしには思え、一言も口を開くことができなかったのだ・・・




HO CHI MINH




この二人の長老たちが、それぞれH氏に対する独特の想いを述べた後でも、この商談室には静寂は訪れなかった


止まないおヤンタン社長の、鋭い悲哀がこもった啜り泣きを、そう言いたいのではなかった

ここは、この商談室は、工場の2階の中央部にあり、階下の1階ではこの日ももちろん日本へ輸出する、大小様々で色とりどりの数百種類の家庭用家具を、約2,000人の現地ヴェトナム人スタッフたちが朝から晩まで製造し続ける、まるで巨大な生き物の腹の中のような場所にある商談室なのだ

木材を切り分ける巨大な刃物による切断音、金槌やのみで木を削る音、資材搬入のトラックのエンジン音、従業員たちのざわめき、館内放送での呼び出し、誰かが廊下を足早に駆けていく靴音、機械の異常を知らせるアラーム音にトランシーバーから漏れて聞こえてくる現状報告レポート・・・
生産ラインにトラブルが生じれば、そこに怒号が加わることだって日常茶飯事の喧騒の世界で、神経質な者には1日でも務まらない世界だった



だからたとえ誰が死んだとしても、工場が稼働している限りは、この場所に静寂が訪れるという日は来ない


この日わたしたちは、この商談室を覆い尽くそうとした深い夜の闇のような静寂をまるで厳しく拒絶し、そして高らかに嘲笑するかのような巨大な工場が生み出し続ける激しい喧騒に心から感謝した





HO CHI MINH




生前、このH氏からわたしは、H氏自身の「自伝」を書くように何度も強く迫られていた

それは一時的でも、ましてや一過性の思いつきではなく、不思議と数年に渡って言われ続けた奇妙な執着心と情熱を宿すもので、たとえば工場の現場の通路で、二人で立ち話程度の業務上の打ち合わせをしていても、H氏は突然


で、おれの「自伝」の構成くらいは考えとるとか?



とか


書き出しくらいは書き始めたとか?



といわれていたのは、断片的な記憶として今でも残っている


本人はわたしの業務上の報告書やFacebookの記事を読み、わたしに白羽の矢を立てたというようなことは確かに言っていたが、果たして本当にそうだったのだろうかという疑問が残る

もちろん、アマチュアの書き手として、そうしたことを言ってもらえるのは嬉しいのだが、こうして冷静に振り返っても、少なくともビジネス上の報告書や、A4一枚に満たないfacebookの短い記事で、書き手の、いわゆる文才などを見出すことが出来る人などいるのだろうか

もしいたとしたら、その人は少なくとも家具の世界ではなく、出版や編集の世界で活躍しているに違いない


だから今は、H氏が死去してすでに6年が経過しているこの今は、こうして回想録として文章を執筆していると、このように考えることができる


H氏は当時、職場で激しく衝突し、意図せず鋭く対峙してしまった若い小僧との間に、「共通の話題」として半ば無理矢理、その小僧の良い点を見出し、それをひとつの媒介項として、わたしに長く接し続けていてくれたのではないか

つまり、だから、「自伝」を書け、と



いや・・・
それはわたしの考えすぎなのだろうか



どうしても死者との記憶を、まるで美化させるような方向へ導きたがる、わたし固有の根源的な性質、そこから生じた「書き方」が、このような迷いを生み、だから素直になることができないのだろうか・・・





HO CHI MINH




死者に対して、もしも生きていればという仮定は意味をなさない

しかしそれを理解したうえで、あえて、もしもH氏が生きていて、今回わたしが書き上げたこの、「H氏への斬奸状」に目を通したらどうなるのか


それは火を見るよりも明らかだった


間違いなくH氏は読んでいる最中で激昂して、勢いよく椅子から立ち上がり



そげなことなか!



と絶叫して激しく否定し

わたしの胸倉を掴んでは自分の顔に引き寄せ


お前は何ば書きよっとか!?



とわたしの身体を激しく前後に揺さぶって怒りを爆発させているに違いない


しかしわたしは、この回想録は事実に即して、時系列を整理したうえで、もちろん嘘は一切記していない



だがもちろん、これはあくまでわたしの恣意という視点で描き出した、
だから幼い子供の視点で書いたような記事であることもまた、間違いのない事実だった



わたしがもっとも敬愛し、崇拝もしているノンフィクション作家の沢木耕太郎は、その著書の中でこう書いている








書くということは、世界の中心に自分を置くことなのだ。どうしたってご都合主義にならざるをえない。



沢木耕太郎「壇」より抜粋





わたしも、わたし自身の「ご都合主義」からは逃れることができていないはずだ
しかしその「ご都合主義」がなければ、いったいどうして、人との、いや、この
強烈な自我をもつH氏との思い出を書くことができるというのだろう






人は、その人の身の丈に合わせて人を理解しようとするという。


沢木耕太郎「壇」より抜粋





だとすれば、わたしの「身の丈」は極端に低く、卑小であることは残念ながら間違いのない事実であるということも確かなことだった



わたしはこのH氏のことを、ことさら卑屈に描いてしまったのではないかと恐れる



しかし、それでももしも、H氏が生きていたとしたら、わたしはこの二編に渡った長大な記事を、やはり一切の修正や変更は加えずに、このまま直接手渡していただろう


残念ながらH氏が望んだ、「自伝」というリクエストには応えられなかったが、しかしもうひとつの注文であった「炎上するように書け」という条件は確かに満たしたという手ごたえはあるのだ

この記事が、不特定多数の方々が読むであろうここnoteの世界では、悪い意味で炎上するという可能性は限りなく低いようにも思えるが、実際のところは公開してみない限りはわからない

しかし少なくとも、これを読んだH氏だけは、きっと天にまで迫るかのような巨大で激しい怒りの炎で「炎上」するに違いないと、確信を持ってわたしには断言することができるからだ



激昂したH氏は、鬼の形相でわたしに対してこう叫ぶに違いない



「ハノイの乱闘事件」のときの相手は1人ではなく、本当に5人はおったとぞ!




一人で「炎上」させておけばいいのだ



わたしはこの「H氏への斬奸状」を、強烈な自我をもち、死ぬまで忘れることがない強烈な印象を残してくれた、かつての上司のH氏、いや




Mr.TAKAHITO HOTTAへ捧げる














おしまい







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2024年6月22日(土) 日本時間 AM7:00


それでも、タフでなければならない



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