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H氏への斬奸状







HO CHI MINH
VIETNAM
2020











斬奸状ざんかんじょう


悪人を切り殺す時、その理由や思うところを明らかにするために書き記した文書のこと


コトバンクより抜粋












斬奸状


汝、浅沼稲次郎は日本赤化を計っている

自分は浅沼個人には恨みはないが、社会党の指導者の立場としての責任と
訪中に際しての暴言と国会乱入の直接の煽動者としての責任から
許しておくことはできない


ここに於いて我、汝に対して天誅を下す


皇紀二千六百二十年 月 日

山口二矢

沢木耕太郎「テロルの決算」(ノンフィクション)より抜粋
1960年、実際に犯行現場となった日比谷公会堂に、持ち込まれることはなかった斬奸状




























わたしにはこれまでの半生で、何度か転職を重ねてきた過去がある


赴任地を挙げれば日本はもちろん、ヴェトナムとスペイン、そしてここインドネシア

転職自体に後悔していることはほとんど一切なく、全ては自分の意志と決断を重ねてきた結果で、おそらくは大多数の人々と同じように、自己責任の名の下に、自由に、一度しかない自分の人生を歩んでいるはずだ




おそらくは転職を経験されている方、いや・・・そうではない


仕事だけではない


あるいは仕事以外でも、例えば何か習い事や趣味の集まり等で、新しいコミュニティへこれから入る時には、きっとこのような台詞を、誰でも一度くらいはそのコミュニティの先人たちから言われたことがあるように思えている





ここの人たちって、本当に個性が強いのよ





本当に個性の強い人たちが集まっている






無論、このわたしも言われたことが何度かある


それに対して、これからそのコミュニティに入っていく新参者としては、大多数の人はおそらく、ただ微笑み、相槌でも打つのだろう
それに対して、無視をしたり、逆に反発する人の数は極めて少数派だと思われる


しかし、わたしのこれまでの半生、そしてそのあくまで個人的な体験では、そう言われてからいくらか時が経過すると、がっかりしてしまうことがほとんどだった


もちろん、そうした人々に個性がない、などと言いたいのではなかった

いや、わたしは若い頃は、それこそ20代から30代の初め頃までは、正直に話すと自分のつまらない個性は棚に上げて、逆に相手の個性を責めていたに違いない



個性のない連中



だと




しかし時を経て、近年、40代を迎える頃からは、自分のその拙いつたない考えに確実に変化が起こり始めていた




この場で、そもそも「個性とは」といった根源的な内容を論じようとしているのではない




仮に、わたしがこれまで主に、新しい転職先でほとんど100%に近い確率で言われ続けてきた、本当に個性の強い人たちが集まっている、という、この定型文のような、そして結果的に裏切られる思いをしてきた台詞には、そもそも限界があることに、ようやく気がついたのだ





HO CHI MINH
Pahm Ngu Lao St.




その理由は単純明解で、そもそも、いわゆる「オン」の状態と「オフ」の状態では「個性」の、少なくとも表層は異なっているという、いわば当たり前の事実に、ようやく気がついたからだった

そしてそれは何よりわたし自身がそうであるからで、職場でのわたしの「個性」とは他の大多数の人たちと同じように、立体的で多面的で、そして角度や距離を少し変えてみると、そのごく一部分しか露出していないことに気がつく

たとえどのような人でも、「個性」とは間違いなく重層的で、時や状況、あるいは場所、そして人などの外的な要因を影響として受けることで、その本質は変わらないとしたとしても、少なくともその表層だけはまるで万華鏡のように、如何様にでも変化を起こすはずだ


そしてその性質は何より、職場という限界と制約が明瞭な場所では、より不可視で曖昧なものとなるに違いない


だから、最も単純化すると、それはつまり、何でも話せる幼馴染の友人と、職場の同僚とは間違いなく似て異なるはずだし、だから人と人、つまり「個性」と「個性」のいわば、相性とも呼べる曖昧な性質と、いくらか時間をかけて育まれる確定的な要素が共鳴して初めて、「個性」とは、その真価を発揮するに違いない





きっと誰でもそうなのだろう





わかっている




だからわたしは例えば、現在の職場に後輩や部下が新しく入ってきたとしても、この職場には本当に個性の強い人たちが集まっているとは永久的に言わないのだろう



そう、永久に言うことはない




HO CHI MINH



しかしながら、歴史上の出来事にも例外があるように、それは例えば千年王国を築きあげ、永遠に繁栄し続けると思われた古代ローマ帝国があっさりとオスマン帝国に滅ぼされたように、わたしのこれまでの歴史でもその唯一の例外があったのだ



強烈な個性を持つ人物と8年ほど共に働いたことがあり、その舞台はヴェトナム・ホーチミンで、わたしはそこで30代の大部分を過ごしてきた



いや、それは「個性」という言葉では到底収まりそうもない性質でもあり
それを正確に言い当てることができる言葉を、わたしは持ち得ていない

あえて当てはめるのであれば、「個性」というよりかは、「自我」を用いた方がニュアンスとしては近いのだろうか




強烈な自我を持つ人物



HO CHI MINH
Bui Vien St.






これから以下に語るのは、老人の物語であり、同時に死者の物語だ





毎年春が死ぬと、以前投稿しておいたその強烈な自我を持つ老人との思い出が、Facebookの通知機能で機械的に、そして定期的に送られて来て、その当時の自分で書いた短い記事を読み返すと、最近は何故だか無性に懐かしく思えてならない

もしも叶うのであれば、またその老人と二人で、あの世界中の喧騒をかき集めたようなホーチミンの不夜城、Bui Vien通りで、通りの無数の多国籍の人々が生み出す終わりのない嵐のような喧騒を聴きながら、安いプラスチックの椅子に共に横並びに座り、一緒に氷入りのよく冷えたTiger Beerを飲みたいからだ





そう

わたしはその老人のことが好きだったのだ





たとえ、当時のわたしにとっては不倶戴天の天敵であり




そして、また




極めつけの下衆野郎であったとしてもだ
















H氏への斬奸状












HO CHI MINH
VIETNAM
2020



わたしは20代の後半からヴェトナムで働くことになった
それは自分の意志であったが、何もかもが初めての経験だった


「海外で働く」
ことも「製造業で働く」ことも、「家具の世界で働く」こともだ


その静岡に本社に持つ家具の製造メーカーでは、当時、つまり今から約15年前には、経営者である社長が、新規採用に関して全く新しい方針を打ち出した時期で、それは簡単に言えば



家具業界に全く未経験の者を採用する



といった方針で、だから、逆に言えば


業界の手垢のついた者たちは決して雇わない



という、社長自身の苦い経験から選択せざるを得なかった、苦々しい方針でもあった


わたしはその会社に入る直前までは、人生で初めての、いわゆるバックパッカーで東南アジアを中心に数カ国を陸路と空路で周遊して帰ってきた直後の時期でもあった
それはどのように考えても、もちろん遊びの延長線上のような旅で、世間一般でよく言われている「自分探しの旅」などといった高尚な性質のものではなく、今振り返ってみると、若い時代における、いわゆる「惚けの季節」だったということは間違いなかった


中国大陸をまず上海を起点に全て陸路で西の成都、南の昆明に入り、そのまま徒歩でヴェトナム国境を越えた

そしてそのまま、まるで尺取り虫のような足取りで、都市間を結ぶバスを利用しながらヴェトナムを北のハノイから南のホーチミンまで三ヶ月程度をかけて縦断したのだ

このわたしに先見の明があるとはとても思えないが、当時のヴェトナム全体を覆っていた溢れ出すような無尽蔵のエネルギーは、現在に通ずるのヴェトナムにおけるバブル経済と、だから高度経済成長期へと、まるで巨大な渦のように、中心の臨界点に向かって荒々しく乱れる奔流のような熱気は、このわたしでも十分に肌で感じることができた

そしてヴェトナムは、何よりかつてフランス統治下だった過去があることから、その面影は主に旧市街で観ることができる、いわゆるフレンチ・コロニアルの古い建物群と、街角で売られているパンの質の高さと、濃いヴェトナム珈琲にも完全に魅了されていて、どうでもいいようなことに思えるのかもしれないが、しかし、このことが決定打だった

実際にヴェトナムに腰を落ち着けて働いてみたいと思っていた矢先に、この会社がわたしを拾ってくれたのだった




HO CHI MINH
VIETNAM



ところで当時の社長はどうして業界の手垢のついた人たちは決して雇わないという方針を打ち出したのだろう

しかしその理由は明白だった

すでに会社内に巣食っていた、3名の長老たちに手を焼いていたのだ



その長老たちはいずれも古くから家具業界一筋で働いてきた、海千山千のヴェテランで、その3人に共通することはいずれも年齢は当時60代中頃、そして出身が日本でも有数の「家具の名産地」と呼ばれる福岡県大川市の出身だということだった

なぜその新規採用方針を打ち出したかの理由をわたしが知っているのかといえば、それはもちろん社長から何度も直接聞かされたことであり、気性の荒かった社長は、時々激昂してこのような愚痴とも咆哮とも取れるような激しい言葉を誰にともなく呟いていた




いずれ解雇して、この会社から去っていってもらう




HO CHI MINH
OPERA HOUSE
Dist.1



当時の会社組織としては、社長以下は全て同列という、いわゆる「トップダウン」方式を採用している組織形態で、報告・連絡・相談は全てが対社長だった

だからその3名の長老たちも一切の役職は持たず、当時としての新参者のわたしも組織上はあくまで同列ではあったのだが、ビジネスの現場ではそれはもちろん無関係で、わたしはこの3人の長老たちが「上司」でもあった

3人の長老たちは、それぞれ専門とする分野が異なっており
それは「開発」「品質」そして「設備」に分けることができ、それぞれがその部門のトップに君臨して、主に事務所や現場で毎日ふんぞり返っていた

この3人に仕事の知識や進め方はもちろん、ヴェトナムにおける生活の最低限の情報を得ながらも

なんとかこの国で頑張ってみようか・・・

当時わたしが考えていたことは、そのようなことだった



HO CHI MINH
VIETNAM



その3人の長老たちは、強烈な自我を持つ長老たちでもあった


わたしもヴェトナムを経て、スペインとインドネシアを経験して、それぞれの地で様々な日本人駐在員たちと話してきたから尚更、その老人の自我が浮き彫りにすることができよくわかるのだが、新しい国に赴任する際は、まず間違いなく、初回にその国で使用される言語に関するテキストブック、あるいは現在ではアプリケーションを持ち込むのが常だった

要するに当地国で現地人とコミュニケーションをとるために、だから勉強をするために、その人の言語レヴェルの身の丈に合った、様々なテキストを持ち込むのだ

それは、これから赴任する国への、新しい世界への、おそらくは最低限の礼儀だと言い切って過不足がない

現地語を用いての簡単な挨拶から、生活に必須になってくる数字や金額をまず覚え、時間をかけて現地語を仕事と生活の中に落とし込んでいき、それらを積み重ねていくことによって、ようやく現地人たちと分かり合えることができるようになる

だから現地語を用いたコミュニケーションとは、それが初歩的で簡単なものであれ、まずその第一歩となるのだ


しかし、この3人の長老たち、その中の1人を除いては、よく職場で現地スタッフに向かってこう豪語して憚らなかったはばか


ここは日本の会社だ。私たちがヴェトナム語を覚えるのではなく、あなたたちが日本語を覚えなさい


しかし、この、いわば「方針」には、実は日本的な工場運営に関して極めて重要な要素が含まれていることに、わたしは後年になってようやく気がついたが、当時はもちろん知る由も無かった




そう




「郷に入れば郷に従え」、という恐らくは日本固有な考え方は、海外ではそれはあくまで旅行者や、通過していくだけの旅人にのみ許されるのだ
そうすることによってのみ、束の間異文化を体験することができる

しかし長期で赴任する駐在員には、少なくとも業務上ではそれとは対極にある「方針」を目指さなければならない時が、いつか必ずやってくるのだ

何故ならば、「郷に従う」だけの人間であるのであれば、日本人として費用をかけてまでわざわざ赴任する必要などはなく、現地人を雇えばいいだけの話なのだ

彼らは、「郷」の人間であるからだ

加えて長老たちは、しかし、だからといって日本の標準語で現地スタッフに話すのではなく、あくまで「大川弁」で最期まで押し通していた

それは同じ福岡出身のわたしが聞いても難解な、極めて独特な大川地方の方言だった



例えば?



例えば、この3人の長老たちがよく使った、いや、仕事で使わざるを得なかったフレーズが



どげんでんされん




で、これは標準語に翻訳するとどうすることもできないという意味になる

納期に追われたり、品質上で重大なトラブル、設備の故障などの絶体絶命、四面楚歌、前門の虎後門の狼、当時の長老の切羽詰まった言葉を引用すると、ケツに火がついた状況に追い込まれると、長老たちが吠えまくるお決まりのフレーズだったが、この方言レヴェルであればわたしにも十分に理解することができた



やや難解だったのが



バサラかウマか!

(バサラか馬か?)



だったが、それは食事の席で美味しい料理やお酒に舌鼓を打つ際によく発せられたフレーズで、状況を考えると、”バサラ”が「とても」を意味し、”ウマか”は”馬か?”では意味が成り立たないので、素直に”ウマい”、即ち「美味しい」を指すと推測し、だから「とても美味しい」と翻訳することができるのだ

そして当時、本当に意味が掴めなかったのが、実はこのようなシンプルな言い回しだった



さわまつ君ヨォ、ちょっと一緒に工場内を

”さるこうか”

(去る効果?)



で、「さっ、さるく?」、「さるくってどういう意味なのですか?」と聞き返すと


お前は同じ福岡県人のくせに、どうしてそうも都会人ぶるんだ!?

と、怒り出す始末だった

この現代においてわたしはこれまで「都会人ぶる」人には会ったことがない



だからもちろんわたしは、都会人ぶっているつもりなど全くなかったのだが・・・

ちなみに「さるく」は直訳で「歩く」を意味し、上記のケースで使う場合は「工場内を見回りに行く」や「生産工程の進捗を確認する」に使われる、やや専門的な意味を含んだ大川地方独特の言い回しだった

だから当時のわたしにとっては、仕事の知識や現地スタッフのコミュニーケーション以外にも、「大川弁」を学ばなければならないという、とにかく毎日、様々な種類の勉強をする羽目になったのだ・・・





HO CHI MINH




しかし可哀想だったのが、当時のヴェトナム人通訳たちだった


高い日本語レヴェルを証明する、かなり上位の検定試験を突破してきて自信満々で入社して来たはいいが、長老たちの「大川弁」にコテンパンにその自信を砕かれて、打ちのめされて、時に泣かされて、中には退職届を持ってくる女性通訳もいた

彼女たちはもちろん、きっと世界中の言語がそうなのだろうが、その国の標準語をベースに学んできているので、口語調の独特の方言の言い回しや、単語そのもの、発音が大きくそれとは異なる「大川弁」などは理解できるはずもなく、新人のわたしはそうした通訳たちのフォローに回ることも大事な仕事だった
つまり当時のわたしには、長老たちの「大川弁」をヴェトナム人通訳に標準語で通訳するという「逆通訳」という珍事に見舞われていたのだ


何も気にする必要はない。あのひとたちが独特の言葉を使うだけだ

そして恐ろしかったのが、なんとかその苦境を乗り越えてきた通訳たちは、大体1年を待たずに立派な「大川弁」を操るようになってしまい、例えばわたしに

さわまつさん、今朝は資材の入荷が遅れてるから、もう、どげ~んで~んされんとですよ!

とか

どげんこげんもなかですばい!

とか

あの通りの屋台のPHOは、バサラかウマかとですよ!

と言ってくる始末だった・・・




HO CHI MINH
Pham Ngu Lao St.
2013




このように最低限のコミュニケーションの手段でもある言語でも、あくまで自己を貫く3人長老たちは、もちろん若かりし頃は日本の家具工場で、末端の製造現場から叩き上げられてきた、本物の、頑固な職人気質のようなものを色濃く漂わせていて、だから、排他的な資質も持ち合わせていた

わたしは入社直後はこの3人に全く相手にされなかった
それは、無視されていたと言っても決して過言ではなかったはずだ

しかし、それは3人の長老たちの排他性という面にスポットライトを当てるのではなく、むしろこのわたしの方に原因があったこともまた確かだった


何しろわたしは当時何も解らなかったのだ


ヴェトナム語はもちろん、当時は英語も話せなかったし、家具の製造工程も工場運営もホーチミンの地理も知らない、何もかもが新しい、そして未知の世界だった

3人の長老からしてみれば、わたしはどこの誰かもよくわからない「馬の骨」で、そもそもいつ辞めるかもわからない若手の1人であったことは、また間違いのない事実でもあったし、実際にわたしと同時期に入社した同世代の同僚たちは、そのことが理由の全てではないにせよ、早々に辞めて帰国する者も決して少なくはなかった



HO CHI MINH



だからわたしが、この3人の長老たちと距離を縮めることができる唯一の武器は、「礼儀」しかなかった


つまりそれは、突き詰めれば「挨拶」という一点に還元されることになる

朝はホーチミン1区に会社が借り上げた一棟のアパートメントの入り口で、すれ違う際は必ず「おはようございます」と頭を下げ、工場事務所や現場でも同様にその場に立ち止まり「お疲れ様です」を意識して徹底的に行なった

我ながら涙ぐましい過去だが、当時は本当にそれしか「武器」がなかったのだ

その挨拶に対しても3人の長老たちは綺麗に無視するか、ちょこっと目線を向ける程度で、業務内容や家具の基礎的な知識の多くは、長老たちではなく現地スタッフたちから学び取るか、長老たちの動向を自分で推測するより他がなかった



HANOI



そうした時期が少なくとも、六か月は続いたように思えている

しかしどのような世界、どのような状況下でも、感情に流されることなく、最終的に冷静に、そして自分を信じきることができれば必ず突破口が見えてくるように、徐々に光明が差し始め、突破口を見つけることができた

わたしは、「赤とんぼ」を利用することにしたのだ

それは会社が運営している日本料理屋の老舗、というよりは居酒屋といった方がニュアンスがより近い和食レストランで、例えばかなり以前から「地球の歩き方」にも記載されていて、ホーチミン1区の日本人街でもあるLe Thanh Ton通りのほとんど中心部に店舗を構えていた

そこでわたしたち駐在員は毎日規定の料金内で自由に飲食が許されており、仕事帰りに真っすぐそこに寄って一杯引っかけて帰る長老たちに、まるで金魚の糞のように張り付いて、なかば無理やり飲食を共にさせて頂くことにしたのだ

それは文字通り無理やりで、3人が座った座敷席の真隣の席に、まるで嫌がらせのようにわたしは一人で座り、乾杯の際もタイミングを合わせて一人でグラスを持ち上げて、小声で「かんぱーい」と言っていたのだ
そして、他の僅かな日本人の同僚たちは、長老たちを煙たがって先にアパートメントに帰ってシャワーを浴び、時間をずらして「赤とんぼ」に夕食を摂りに行くのが主流で、当初はわたしもそのようにしていたが、考え方の角度を少し変えてみることにしたのだ



HO CHI MINH
Bui Vien St.



それ以外にも、例えば当時日本に常駐していた社長が来越すると、やはり皆で宴会になることも多く、そうした席でも積極的に長老たちの側の席に座り、いわば仕事とは離れたプライヴェートの席で、この強烈な自我を持つ3人の長老たちを「攻める」、いや、「観察」することにしたのだ

それは今振り返っても何の工夫もない、いわば自明のことだったように思える
何しろ業務上では当時のわたしはまるで役に立たなかったので、消去法のプロセスでプライヴェートへ潜り込むしか他に方法がないからだった


すると、途端に長老たちのプライヴェートの輪郭が見え始めた


この3人の長老には、業務上よりも強烈な側面を合わせ持っていて、他の同僚たちや日本人街の異業種の人たちからも噂程度には聞いていたが、3人それぞれのプライヴェートは、以下のように簡単に、そして簡潔に分類することができた


「開発の長老」は”女狂い”

「品質の長老」は”ギャンブル狂”

「設備の長老」は”アル中”

悪い意味で広く知られている通り、東南アジアで暮らす初老の男としては、ありきたりと言えばそれまでなのだが、3人はそれぞれの仕事と同じようにプライヴェートでも専門分野を持っていて、ホーチミンの日本人街でもその名が広く名が轟いていた、名うてのろくでなしでもあったのだ



HO CHI MINH



しかしこうして、今になって改めてヴェトナム時代の思い出を文章に書き起こしていると、当時のわたしはもちろん若かったということと、何か焦燥感のようなものに突き動かれていたということがよくわかる

この3人の長老たちと、無理に距離を縮めようとする必要などは全くなかったと今になっては思えるからだ

これはもちろん結果論でしかないのだが、その後、この長老たちとは業務上の本物の修羅場をいくつか共に潜り抜けることになるのだ

そうした修羅場が、逆説的な効果となって長老たちとの距離を一気に焼き払ってくれ、わたし自身も少しづつだが成長して、最終的にはこの長老たちとホーチミンの様々な場所で飲む際には、本人たちを目の前に直接、女狂い!ギャンブル狂!、そしてアル中!だと堂々と言えるようになったのだ



HANOI



当時勤めていた日系の家具メーカーでは、ヴェトナムで製造した一般家庭用家具をアメリカと台湾にも一部輸出していたが、出荷先の99%を占めるのは、もちろん日本市場向けだった

その最大手の顧客は、およそ日本の家具の小売業の世界では20年以上もトップを独走し続け、店舗型の販売においてはほとんど独裁体制を敷いているとも呼べる巨大な相手で、当時わたしが務めていた会社は、その他の顧客からは「N社の専用工場」と嫌味と皮肉をたっぷりまぶされて揶揄やゆされる側面を持つほどだった

会社の本社は静岡にあり、ホーチミン郊外に二つの巨大な工場を運営、稼働させていて、ひとつが主にダイニングテーブルやチェアを製造し、もうひとつが食器棚やチェストを製造、現地人の従業員はふたつの工場を合わせて2,000人を超える、当時のヴェトナムでも有数の規模を誇る日系家具メーカーでもあった



HO CHI MINH



ヴェトナムに渡って間もない頃、わたしは未経験者であることを理由に、自分自身には「武器がない」という思いに強く囚われていたように思える

確かにその通りだったのだが、しかしそれでも、入社から半年ほど過ぎたあたりからわたし自身の「武器」の輪郭が朧げながらも見え隠れし始めてきた

それは自分で自認するのではなく、あくまで他者、すなわち社長や長老たちから少しづつ認識され始めた、いわばわたしが持つひとつの技術テクニックだった

それは簡単にいうと、メールや様々な「報告書」の類、つまり写真や文章を使って客観的な事実や自分の意見を相手に伝えることに、一定の評価が下されるようになったのだ

要するに、わかりやすい、と

しかしだからといって、いわゆる「文才」があるというのとはまた違っていた
なぜならば一般的なビジネス文書には間違いなく「書き方」、つまりセオリーが存在していて、そこに創意工夫はあったとしても、物語性や装飾性はもちろん求められない
求められるのは「整合性」と「簡潔性」になるはずだ

だからあくまでもその小さな世界、つまりその職場においては他の日本人よりかはいささか使える程度のものであったようにも思えている

しかし、この「技術」は、少なくともわたしが経験してきた製造業の世界では、極めて有効な「技術」であることも、また間違いのない事実でもあった

細かな枝葉部分は意図的に割愛するが、わたしが持ちえたこの「技術」は、最終的には顧客に提示する再発防止案に集約されていき、社内でも重宝されるようになったのだ

再発防止案とはもちろん、例えば代表的なのは納期遅延や品質不良、つまり製造メーカーとしてはしてはならないこと、当時の長老たちの言葉を引用するとやらかしてしまったこと、を生じさせてしまった際に顧客にお詫びし、同時に提出を求められる、決して褒められた内容のドキュメントではなかったが、日本だけでなく世界中の「メーカー」が、決して避けることのできない宿命のような業務の一環なのだ




HANOI



そうした再発防止案をわたしが最終的にまとめあげて工場と顧客の間に立つようになるのだが、もちろん、そこで「文書力」、いや総合して、「表現力」などは、最終的に少し必要になるだけで、そのドキュメントにおける主題の本質は、あくまで「表現力」以前の、おおよそ以下に分類することができる

・何が起こったのかを正確に分析できる観察眼
・問題の焦点を突き詰める洞察力
・それらを高温多湿の工場内で長時間に渡り調べ抜く体力
・現地従業員とのコミュニケーション力
・再発防止策を永続的に運用させ、また実施することができる継続力

少なくとも最低限、それらの資質の獲得を意識しながら活動を続け、最終的に必要になるのがその全てをドキュメントにまとめる、いわば「表現力」なのだが、わたしは入社当初は上記5項目のひとつも達成できるものがなかった

だから当時は、例えば問題発生に対する客観的な事実を探るために、現場に長時間張り付いたり、必要な情報を得るために通訳を連れて担当者からヒアリングを行ったが、もちろん新人のわたし一人では到底解明できない内容のものが多かった
そこで出番となるのが、豊富な知識と経験を持つ、普段は事務所でふんぞり返っている3人の長老たちなのだが、これが予想を裏切り、意外にも熱意をもってわたしに教えてくれ始めたのだ

あるときは現地で、あるときは現物を前に、またあるときは現場でホワイトボードを使って図解付きで教えてくれることもあった
それは上司と部下の関係というよりも、さながら教師と教え子の関係であり
長老たちはあるときは熱意をもって論理的に、あるときは過去に自身が経験した失敗例を挙げて具体的に説明し、またあるときは風貌に似合わずお茶目に冗談を交え、お調子者のように額をぺしっと叩いておどけてみたり、ときどき、まるで少女のようにチャーミングにペロッと舌を出したりしながらも懇切丁寧に教えてくれたのだった



これまで新人などはほとんど全く無視してきた長老たち・・・
わたしは当時以下のような疑念を抱いていた



ついに心を入れ替えたのだろうか・・・
それともどこかで頭でも打ちつけたのだろうか・・・
あるいは、今日も二日酔いなのだろうか・・・



しかしそれには言うまでもなく理由カラクリがあり、わたしが最終的に再発防止案をまとめあげるということは、それを顧客に送り、ときに国際電話や、また直接相手先へ出向いて説明し、謝罪してくるのもわたしの役目になるのだった

要するに長老たちは最も嫌な役目をわたしに押し付け、しかも自分たちが培ってきた矜持プライドを新人のわたしに偉そうにこれでもかと見せつけたり、その豊富な知識を思う存分にひけらかすことができるので、これ幸いと考えていたに違いない


わたしがなぜそのように捻くれたひねくれた考えを次第に持ち始めたのかは明白で、再発防止案における「表現力」とは、経験上実はほとんど無価値の、どうでもいいことなのだ

少なくとも重要ではない

せいぜいが、怒り心頭の顧客に「何が書いてあるのかさっぱり理解できない!」といったさらなる怒りを封じ込める程度の、最低限の防波堤のような役割しか果たすことができないのだ

なぜならばそれはまず「問題の重大さ」と、次に「先方担当者の受け取り方次第」では如何様にも左右される確定性を持たない危うい性質のもので、例えば仮に、わたしがお涙頂戴の感動ものの「名文」を書き上げて送付したとしても、製造メーカーとして引き起こしてしまった問題とその責任が帳消しになるはずがないのだ

加えて、相手が理解しやすいドキュメントを提出するというのは、ビジネスの世界では「当たり前」の「当然」で、「最低限の礼儀」に収束されるのだから、その技術テクニックに希少性などは始めから存在しないのだ・・・

そして「大川生まれ大川育ち」で家具の世界を知り尽くし、数々の修羅場を潜り抜けてきた海千山千の3人の長老たちが、その事実を知らないはずがないのだ・・・


犠牲サクリファイス
生贄サクリファイス
人柱ヒューマンピラー


わたしは当時は、もちろんそこまで洞察することはできずに、自分にも「武器があった!」と素直に喜んで有頂天になったはずだ

だから当時、今も実家に残されている、当時ホーチミンから福岡にいる両親に書き送った直筆のポストカードには、「早くも会社の戦力となり、充実した毎日を送りながら元気でやっています!!」などといった、まるで哀しい道化ピエロが書いたような文面になってしまったのだ

そしてわたしは、この長老たちの下で有頂天の道化ピエロのまま、いわば工場における”始末屋”のような道を歩み始めることになるのだ・・・



HO CHI MINH



”始末屋”は、しかし大車輪の忙しさだった

ここはいささか書き方がデリケートな部分でもある
なぜならば”トラブル続きの工場だった”と書いてしまうと、当時のそれぞれの部門のトップにいた3人の長老たちの顔に泥を塗ることになってしまうからだ

わたしにはそれができない

破天荒な生涯を送り、いわば太宰治のような「破滅派」とも呼べる長老たちは、確かにプライヴェートではそれぞれの専門分野(女・ギャンブル・酒)で当時の夜のホーチミンで派手に暴れまわっていて、それに対してはわたしは遠慮も会釈もなく”ろくでなし””下衆野郎”となんの躊躇もなく自由に言い切ることができるが、しかしこの長老たちは、仕事においては本物のプロ、「仕事師」でもあった

当時の納期遅延や品質不良の問題が果てしなく続いたのは、工場運営上の問題も確かにあったが、どちらかというと会社の経営方針上の問題も多く含んでいたということはまた疑いようのない事実だったように思えている

それは即ち、長老たちが厳密に算出した工場の生産キャパシティを大きく超える、薄利多売の道へと会社が舵を切り始めた頃でもあるので、工場運営という構造上、全てをコントロールすることが、限られた幹部だけではどうしても難しい局面を迎えていたのだ
要するに生産キャパを大幅に超える受注が入り出したのだ

そしてこのことは、時流と世界情勢を無視することができない、海外に拠点を持つ日系の製造業においては、おそらくは永久的に対峙しなければならない大きな課題でもあった


そんなある日、こういったことがあった



わたしが日本の顧客からクレームを受けて、それが極めて重大な内容で、結果的にわたしはその連絡を受けた当日の夜に緊急に帰国することとなった
それは「再発防止案」などの時間的な猶予のある生やさしいレヴェルではなく、状況は極めて深刻で、日本から入ってくる情報は刻一刻と悪い方へと、不気味な変化を起こし始めていた

新人のわたしの任務は帰国して、もちろん事態を収集したり、解決への一定の方向性を明示するといった内容であるはずがなく、何よりもまずは出荷した製品に何が起こったかの、客観的な事実を把握するための調査目的の緊急帰国で、その一報を重く受け止めた日本の社長の迅速な判断によるものだった

今夜の帰国便はすでに押さえてある。現地へ行って、集められる限りの情報を集めてくるんだ

そのことを同時にわたしから長老たちへ直接伝達すると、普段は仏頂面の長老たちの顔色は即座に変わり、その仮面の下には激しい感情が渦巻いていることがわたしにははっきりと理解できた

それは常にそばで見ていたわたしにも恐怖を感じさせるような極めて鋭利で、また暴力的な雰囲気を合わせ持つ感情で、「開発」を司る長老は、いつもふんぞり返っていた席からいきなり立ちあがり、小走りで無人の商談室へ入り込んでは内側から施錠し、テーブルをひっくり返して一人で暴れまわっていた

その怒りは、決して現場のヴェトナム人スタッフたちに向けられたものではないということは、当時の未熟なわたしにも十分すぎるほどわかりきっていた

この「開発」の長老は、私生活においては酒と女で、はっきり言って破綻しかけていたが、仕事上ではいかなる場合でも「現場」に責任の所在を求めなかった

この出来事は当時のわたしに強い動揺を与え、同時に心に深く刻まれることになった

なぜならば現在、ここインドネシアにおいても、わたしも何がどうあろうが、最終的に「現場」には責任を求めないという姿勢を根底に抱いているからだ
これまでわたしが経験してきた海外での就業は、着任と同時に「幹部」となる
数十年も勤め上げた現地スタッフをいきなり飛び越えて、いきなり組織図の上部に名前が刻まれるのだ
だから問題が生じれば、その原因を現場に求めることはない
全ては「幹部」の責任となるのだ
このことは、当時のヴェトナムで学んだとしか他に言いようがなかった

この日、この長老が商談室で暴れに暴れ、ほとんど全ての備品を破壊し尽くしてしまったのは、強烈なジレンマが生み出す現実の中で、おそらくは何よりも自分自身に対して激しく怒り狂っていたに違いなかった・・・




HO CHI MINH
"BERNIES"




結果的にわたしは、8年間在籍したこの会社では最終的に89回、日本とヴェトナムを往復していたことになる

もちろんそれは”始末屋”としての業務も含むが、他にも休暇や展示会、営業活動を含めての合計回数で、わたしにとってはかなり凄まじい移動回数であったと振り返ることができる

業務内容は多岐に渡ったが、その根底にあったのはやはり”始末屋”としての、いわば「修行時代」の賜物であったことは間違いない

なぜならば”始末屋”は、いわば工場の「弱点」に踏み込むことのできる性質を持っているので、入社してから3年ほど経過した頃には、一通りの一般家具の製造工程はもちろん、「再発防止案」を作成するために追跡していた工場内での「物と情報の流れ」、そして現地スタッフとの基本的なコニュニケーションも、かろうじて独り立ちしてできるようになり、そこに最後に変動制の資材の購買価格や貿易のイロハを学び取り、それら全てが必要となる営業活動にも自然とこなすことができるようになっていたのだ




HO CHI MINH



そうしてヴェトナムと日本を激しく移動している最中に、社内ではわたしに関するある噂が流れ始めていた

その噂を、わたし自身が聞いた日のことはよく覚えている

その日、成田からホーチミンに到着したのはすでに夕刻で、その頃のわたしの住まいは、1区のThai Van Lung通りに会社が価格交渉した長期滞在者向けのホテルだった

スーツケースを部屋に置き、とりあえず「赤とんぼ」で晩御飯を済ませようと、Le Thanh Ton通りを歩いていると、その「赤とんぼ」の日本人女性マネージャーのKさんとばったり出くわしたのだ



HO CHI MINH
Le Tham Ton.


そのKさんはわたしより一回り程度年上の、鹿児島出身のキップの良いちゃきちゃきの姉御肌で、在ヴェトナム歴は10年以上、そして同じ九州出身ということもあってか、何かとわたしには親切に接してくれていたように思える

Kさんと一緒にお店に入り、2階のカウンター席に一人で座ると、Kさんはよく冷えた生のTiger Beerを一杯注いでくれ、おまけにその一杯はKさんがサーヴィスしてくれるらしく、わたしは御礼をいうと、Kさんはこう続けた



お松(実際にこう呼ばれていた)、最近社内のみんなが・・・
あんたはノイローゼになってしまったって言ってるけど大丈夫なの?



これにはさすがにわたしも驚いて泡食った
まさかー




HO CHI MINH
"RED BAR"
Kさんと
2013



ただこの噂が流れた当時は、わたしは極端に忙しかった


ホーチミンから深夜便を使って一泊二日で日本へ出張へ行くこともあれば、成田からそのまま北海道へ飛び、冷凍庫の寒さのような顧客の倉庫で現地大学生のアルバイトを雇って検品作業を行ったり、またあるときは、福岡のまるでサウナ状態の顧客の倉庫で作業を行ったりとまさに東奔西走していた時期だった

最終的に47都道府県を制覇してしまうその先駆けの時期で、確かに席が温まる暇もないほどに”始末屋”は忙しかった

しかし、その頃のわたしはまた悪知恵をつけ始めた時期でもあるので、実は北海道では初日に作業の大半を終えて、残りの二日は同世代の顧客とともに「すみれ」の熱々の味噌ラーメンに舌鼓を打ったり、夜は札幌市内で”回らないお寿司”を食べに行ったりで、出張先でその程度のことを行うことにまるで罪悪感を感じなくなってきていた時期でもあった



HO CHI MINH
"RED BAR"
当時会社のみなでよく遊びに行った



ノイローゼ

だからわたしには、わたし自身のこととしては全く思い当たる節はなかったが、しかしそれは、外部の人間にしてみると何かそう思わせるような要素がわたしに間違いなく存在していたのだと思われる

確かに出張先で遊ぶこともあったが、あくまでその現場に赴き現状把握をしないうちには、やはりどうしても緊張を強いられるからだ

当時の「出張計画書」には日時や訪問先、必要経費を記して”目的”の欄には簡潔に”謝罪”と書くことが多く、当時、「品質」の長老からは、やはり大川弁でこう言われた



さっ、裁判でも受けに行くとね?


確かにわたしは、会社を代表する「被告人」で、法廷に引きずり出されて裁きを受けてくるような側面は間違いなくあった




HO CHI MINH
"RED BAR"
常連の皆さんとのハロウィーン



このノイローゼ疑惑がかかっている頃は、同じ社内でもとりわけボスたちが優しく接してくれたように思えている

「赤とんぼ」のKさんを始め、輸出や行政との折衝を行うホーチミン事務所の女社長、通称”おヤンタン”さんとは、日本人が経営する有名なイタリアンの4Psやアルゼンチンから来たステーキハウスのEL GAUCHOで食事を楽しんだ後、二人の行きつけでもあったRED BARに連れて行ってもらい、そこで現地人や華僑、そして日本人の常連を紹介してもらった



HO CHI MINH


そして、あの偏屈を極めたような長老たちからもお声がかかるようになり始めた

ようやく小さな「戦力」として認め始めてくれたのだろうか

まず、3人の長老の中でも、「開発」を担当する長老から飲みに誘われるようになった

この長老は長い白髪でカーブを描き、高い鼻梁もあったことから”伯爵”との異名をとっていたが、実はそれはその風貌というよりも、Ngo Van Nam通りのカラオケ屋で夜な夜な若いヴェトナム人の生き血を啜るという揶揄から生じていた、名うての「女狂い」でもあった

その徹底した凄まじさはこうだった

飲み屋が集まる狭いNgo Van Nam通りの狭い路地で、”伯爵”が入り口に立つだけで、店先で客引きをしていたヴェトナム人女性が嬌声をあげて”伯爵”へ駆け寄ってきて取り合いになるような状況だった
それはさながらスーパースターの降臨と同じで、日本から商談に来た顧客とも稀に食後にこうした店で接待をすることがあったが、その顧客も口をあんぐりと開けてこういうのだ

”伯爵”は・・・やはり昼より夜のほうが輝いて見えますね

その”伯爵”の人気の秘密は、わたしが推察するに、給料が支給されると、大川に残した家族に生活費を渡すと(いくらかは知らない)、その後に残ったほとんど全ての金をカラオケにぶち込むという破滅的な使い方にあった

つまり、この長老は給料日に1か月分のTiger BeerとMILD SEVENをまとめ買いしヴェトナム人ドライバーに自宅まで運ばせると、その他の一切、あらゆる全てをカラオケに注ぎ込むのだ
要するに潤沢な資金力にものを言わせ、カラオケでばらまくのだ

だからこの”伯爵”は、「赤とんぼ」以外で食事をとったことをわたしは見たことはなかった
ヴェトナム生活では慣れて来ると様々なひとたちと様々なエリアで、屋台を含めて多国籍のレストランにも行ったが、”伯爵”が来ることは一切なかった


徹底してカラオケのみでお金を使う、いや、使い切る変人だったのだ

そのカラオケにはわたしも差しで何度も連れて行ってもらったが、不思議でたまらなかったのは”伯爵”がマイクを握るのは、わたしは通算8年の中で一度も見たことも聞いたこともなかったことだ

いつも両脇にヴェトナム人女性を侍らせて、偉そうに足を組んでふんぞり返っては、定価の数倍の金額を請求されるシーヴァス・リーガルを水割りで舐めながら、わたしに向かって早く次の曲を歌わんかとか、お前もこういう店に単独で来るようにならないと本当の駐在員とは言えないなどとデタラメを話しながら、泥酔して気を失う寸前まで飲んでいた



HO CHI MINH



時を同じくして、「品質」を司る長老からも声がかかるようになった

この長老は名うての「ギャンブル狂」で、毎晩ほとんど欠かさずに市内の、主に五つ星ホテルのカジノに通っては勝負に打って出ていた



つまり”伯爵”とは別の意味でイカれていたのだ


この頃当時、この長老はわたしに向かってよくこういった

よし。社会勉強のためだ。カジノに行くからお前も同行せい!

今夜は大勝の予感がする。帰りにはボディガードが必要になるから、お前もついて来い!


そしてわたしは、何の見せ場もないまま大金を失った長老の背中を見ているだけだったのだが、わたしはそれまで国内外を含め「カジノ」にはそれまで行ったことがなかったので、新鮮だといえば新鮮だった

だから、入場に際してパスポートの提示だということも知らなかったが、この長老は自称・”常連の中の常連”でもあったので、カジノの黒服もわたしに提示を求めることはなかったし、「フリーフード・フリードリンク」というカジノ特有の、つまり場内では飲食無料の制度があるというのもこのとき初めて知った

わたしはほとんど一切賭けずに、黒パンに胡瓜とチーズを挟んだだけの、いわばイギリス式の質の高いサンドイッチをドラフトビールで流し込んだり、ディーラーの鮮やかな手さばきを見ていただけだったが、退屈することはなかった

しかし、この長老は当時ほとんど毎晩カジノに通い詰めていたので、その軍資金はいったいどこから算出しているのだろうという素朴な疑問があった
なぜならば言うまでもなく、カジノでは紙幣とはまさに紙切れで、瞬く間に消失していく世界なのだ

しかしある夜、その長老がわたしにこっそりと打ち明けてくれたのは、ちょうどその頃にルーレットで大勝し、なんと数百万円の現金に化けたらしいのだ

それを社内の他の二人の長老に話せば、間違いなく食い物にされるし、ヴェトナム人スタッフに話してもやはり食い物にされるのは明白なので、本人は普段はペラペラとよく喋る口をぴしゃりと閉ざして誰にも話さないようにしていたが、しかしやはり、その武勇伝を誰かに自慢して語りつくしかったのだろう

だからわたしに白羽の矢を立て、カジノを出た足で目に付いたレストランに連れて行ってくれ、カウンターで一杯やりながら、まるで悪戯小僧が打ち明け話をするように、そのスリリングな勝負がいかに厳しく激しい戦いであったのかを、仕事より真剣にノンストップで語りまくっていたのだ

そして、社内の人間には誰にも言うなよとわたしに念を押し、言ったら殺す!ときつく釘を刺されていたのだ





HO CHI MINH




しかしながら、その数百万は、僅か数か月で綺麗に溶けたというのだからやはりギャンブルは恐ろしいのだろう
いや、溶け切った後でも通うことになる常習性こそが恐ろしいのか

その初回以降、わたしはカジノに同行することはなかったが、ときどき勝負に勝ったこの長老からはまるで隠語のように


帰りにボディガードが必要になるから、今夜ついて来い!


とわたしに豪語していたが、他の二人の長老は、この長老のことを冷ややかに横目で見ながらギャンブル狂の救いようのない能無しと見做していたが、実はわたしに向けられたそのセリフは勝ったから飯を奢ってやるという隠されたメッセージでもあったのだ


この長老は、わたしのことを過分に可愛がってくれた、というよりも”始末屋”として帰国する際の理由の大半は「品質問題」だったので、やはり遥か年下のわたしに対しては、長老なりに申し訳ないという気持ちがいくらかあったようにも思える

しかし、「品質問題」は例えトップの百戦錬磨の長老であったとしても、はっきりいって一人に責任の全てを求めることができる性質ではないということは、今のわたしにははっきりとわかる

製造時に構造に問題があればそれは「開発」に原因に求めることも可能であるし、機械に不具合があれば「設備」に、そもそもの「資材」に問題があるというのもアジアでは多いし、完成後の「運搬」に問題があることもある

それらを総合して「品質」には集約されるのは確かだが、一人に責任を負わせる性質の問題などはなく、いや、それはもはや品質の問題ではなく、その工場の組織としての「構造」に問題が生じていると言い切ってよい

この「品質の長老」ははっきりとした優しさを表現するような器用なタイプではなかったが、長老なりの気遣いをわたしにしてくれて、わたしはそれをありがたく受けて、差しで連れて行ってもらった飲食店では先に



あぶく銭なんですよね?


と確認だけ取ると、あとは遠慮も忖度も礼儀もなしにテーブルいっぱいに料金の高いものから頼んで舌鼓を打ち、味のわからない高級ワインやウィスキーをがぶ飲みしたりして、ときに自爆したりしながらも舌を肥えさせたりと「味覚の修行時代」でもあったのだ




HO CHI MINH
Pham Ngu Lao St.



この頃になると、わたしのデスクは「開発」と「品質」の長老の真ん中に設けられ、よりフットワークが軽くなったような気がする

給与も「年俸制」へと切り替わり、要するにボーナス込みの年収が12か月で割られるようになったのだ
その他にも小さな決裁権が社長から与えられ、緊急と判断できる際は既定の金額内では日本への出張の際の航空券を、自己裁量で自由に取ることが許されたのだ

とはいえ、当時は世界中から人材と資本がヴェトナムに集中し始め、熱狂のバブル状態でもあったこともあり、LCCではないVietnam Air Lineを利用しての日本との往復運賃も最安値が30,000円代だったということが何より大きかったのだろう

そしてVietnam Air Lineを傘下に持つ、Star Arraiance系ではカードのステータスが早々に最高ランクのTITANIUMまで上り詰め、空港のビジネスラウンジや、乗客が少ないときは自動的にビジネスクラスへ無償で優待され、わたしは普段の長老たちのように、機内では偉そうにふんぞり返ってビールを飲んではだらしなく眠りこけたりしていた




HO CHI MINH
PARK HYATT HOTEL




こうして、紆余曲折がありながらも比較的に充実したヴェトナム生活を送ってはいたが、どこか気持ちのすっきりしない「何か」が、わたしの心の奥の方にしまい込まれていた

その「何か」とはいったいどのようなものだったのだろう

わたしの中には得体の知れない不気味なもやもやが確かに存在していたのだ

仕事上におけるそのもやもやの正体とは、おそらくは社内の人間関係の歪みから生じているのだろう・・・
あるいは業務量過多か

わたしはこの頃になると、一生この会社、つまりヴェトナムで定年を迎えるつもりは全くないと考えていたし、業務量の多さも「修業時代」だと割り切っているようなところがあった
しかし、それがどこの国であれ「製造業」でやっていこうという気持ちは強く明確にあったので、そのもやもやの正体は、業務量やその内容ではなく社内の人間関係にこそ原因を求めるしかなかった




そう




3人の長老のうち、何とか「開発」と「品質」の長老たちとは打ち解け、日常的にくだらない冗談を言い合ったり、ときにカラオケやカジノに相伴することもあった

だが


3人目の、「設備」を司り”アル中”の異名をとったいわば最後の長老とはその関係性が良好になるどころか、わたしは胸倉をつかまれて恫喝され、それに対してわたしも激しく言い返すという戦争ゲーラの時代に突入していたのだ





戦争ゲーラ





この最後の長老は、他の二人の長老と比べても極めて気性が激しく、凶暴で、若く仕事で自信を身につけ始め生意気な時代に突入していたわたしにとっては、まさに不倶戴天の天敵だった

そう、この最後の長老こそが、わたしのヴェトナム時代における最も思い出深く、決して忘れることができない強烈な自我を持つ人物で、そして、すでにこの世を去っていってしまったH氏なのである






続く








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2024年6月15日(土) 日本時間 AM7:00



続・H氏への斬奸状



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