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プロの仕事に偶然などないですよ

上の写真の布は、イラクサの布に、ロウを使った染色技法で独特のニュアンスを出したものです。

生成りの部分は、何も染めていない布のままで、金茶色のところは、ロウによって文様を染めた部分です。

まるで、硬い樹皮のような味わいが出ていますが、もちろん布ですから柔らかいです。

この仕事では、あえて何も染めていない布の部分を残し、染めることによって、まるで硬い樹皮のような味わいの部分と同時に観ていただくことによって「布の魅力の振り幅を味わっていただく」のを意図しました。布の染まっている部分があるから、染まっていない「白生地そののもの魅力」も強調されるわけです。

このような、ロウによってムラやニュアンスを付けた仕事を、技法や意図を説明しても「なるほど、だから偶然そうなってるんだ〜。なんだか染めたものじゃなくて、元々そういう布だったみたい」とおっしゃる方が沢山いらっしゃいます。

一般の方がそうおっしゃるのは良いのです。なぜなら「織り上がった時からこういう布だったんじゃないの?」と感じていただけたなら、私はそれを最大の褒め言葉と考えるからです。

そして「人為でそうなっているように観えない」というのも、同じく最高の褒め言葉です。

私は染作品の場合は「布・染・作者の創作性が三つ巴になって、どれが欠けても成立出来ない状態」というのが理想形だと考えているのです。

「布に何かを描いた、その出来具合の評価」

ではなく

「布そのものが高まる」

ということが布を染める意味なのです。

布に何か描いて、その描いたものへの評価が文様染の評価であるなら、それはキャンバスという麻布に絵を描いた方が良いのではないでしょうか?

布を染めることでなければ不可能なことをしなければ、特に、現代に手染めで制作する意味がありません。

私は「自己表現のために布を使う」というのは幼稚だと考えています。それなら絵を描いた方が早いからです。絵の方が制限が少ない分直接的な自己表現には向きます。(染色技法で絵を描く、というスタイルの人は別として)

ただ、染のプロですら、私のロウを使った染を「偶然そうなるんだ」とおっしゃる方が多いのに戸惑います。

そんなわけが無いわけでして、これは何度でもほぼ同じものを作ることが出来るのです。当たり前の話です。意図して作っているのですから。

「偶然そうなっているだけなんでしょ?」と思われるような複雑な仕上がりのものであっても「何度でもほぼ同じ品質のものが出来る」というのが工芸の良さであり、その職人の腕であり、その背景にある文化や技術の高度さの証明になります。

それと「私にしか出来ない」のではなく「スタッフがやっても同じものが出来る」ということが重要で、そこも評価していただきたいところです。

それは染色における、新しい技術と感覚の、公共語を作り上げたということになるからです。

私がロウを使うのは、いわゆるローケツ染という分野の作風でつくるためではなく「生地の触感を視覚化するため」「生地に眠っている魅力を表出させるため」です。(そしてそれによって起こる、他のものたちとの関係性と増幅と)

私のロウの仕事は一般的な「ローケツ染」というものではなく、プロの間でも理解されにくいところがありますので、プロからも偶然そうなるんだ、と言われてしまうのは仕方がないところもあります。

しかし、制作において、仮に偶然性の強い仕事(良い結果の方の偶然)であっても、そうなる確度の高いように段取りし、しむけているわけです。

「自分の手の中で偶然を起こす」わけですね。

素人の人の、狙いなく起こした行動の末の「偶然の幸運」ではないのです。

なので、基本的に、どの分野においても基本的に「プロの仕事に偶然は無い」と私は考えています。

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