精神病院物語-ほしをみるひと 第六話
「それよりそこの汚い顔の人? 滝内っていうの? あんたの話聞かせてよ。大学中退したんだって? やばくない?」
*第六話*
断続的に眠っては起きることを繰り返していた。前向きな気持ちがなかったので絵を描きにホールに行くこともしなかった。自分の部屋に置いてあるのは兄から借りた一冊の小説と、ヤングジャンプくらいしかない。小説に関しては数行読むだけで疲れてやめてしまう。
人生で五冊くらいは小説を読み切ったことがあると思う。そのときはもっとすらすら読めたし、飛ばし読みだってできた。だけど今は読み切れる気すらしない。ほんの序盤を読んだところで止まってしまっている。
内容自体は興味深い物だった。ヘッジファンドを扱った小説で、アメリカを舞台にそれぞれ国籍の違う三人の若者が野心に燃え巨万の富を得るため金融取引に乗り出していく。なんとも熱い内容だが、無気力で萎えた自分と比べて悲しかった。
小説を持ってきたのは、本を読むのが創作のために良いことだと思うからだ。しかし、気づいたときには本が読めない体になっていた。前向きさはいつだって、現実に打ち負かされてしまう。
今日の夕食は鱈の粕漬けが出た。正直このメニューは嫌いだった。吐き気を催しながら食べる羽目になったが、口に詰め込んでしまえば飲み込めないこともなかった。
病院にいる以上、自分で食事を選ぶことはできない。その日その日のメニューが一日の生活の中で重要な位置を占めてしまっていた。
ともかく夕食は終わった。今は十九時だ。今日も消灯までの二時間弱を持て余している。
力なくため息をつくと、突然部屋に高見沢とトカゲ顔の三浦が入ってきた。二人ともニヤニヤと笑っている。僕は不意に警戒した。
「滝内君ちょっとこっち来なよ、大人の世界をみせてやるから」
高見沢が明らかに怪しいことを言い出した。僕はさらに警戒心を強める。
「はあ? 大人の世界ってなんですか」
「良いから来いって。ホールに面白いおばさんいるから」
「面白いおばさん?」
話がわからず鸚鵡返しをしてみたが、特に危険はなさそうなので二人についていくことにした。
連れて行かれた先のホールの席では首の長い、やや不健康なくらいに痩せたおばさんが座っていた。髪が男のようにギザギザに立ち上がっているため、女性の服を着ていなかったら女とすら思わなかっただろう。
今まで見ない顔だったので、新しく入院してきた人なのかもしれない。睨むような目つきの中にぼんやりと浮かんでくる、人を小馬鹿にしたようなニュアンスに警戒を呼び起こす物があった。こういう目をした人を学校でもよくみたことがある。確か……。
「ああこの人よく見る顔だよね。汚ったねえ顔してるから超目立つわ。どうしてあんた毎日同じ服なの? 顔も洗ってないよね? なんで洗わないのか理解できねーんだけど」
最初自分がなにをいわれているのかわからなかった。とてもまともな人が話す内容とは思えなかったからだ。
どうもこの人は初対面の僕に向けて罵声を浴びせているようだった。病棟でこんなことを言われるなんて、予想していなかった。立っていた場所が突然崩れ落ちるような衝撃に襲われた。
「あ、気にしたならごめんね。あたしはっきり物をいうタイプだから。でも本当不細工だね。ほら、目が死んでるし、絶対生きてて楽しくないでしょ?」
おばさんの罵りは止むことはない。僕はなんとなくこの人のことが理解できた。かつて通っていた学校によくいた手合いである。この相手を嘲笑するような目は、他者の気持ちに考えが至らない。人を平気で傷つけられる人の目だった。こういう人にどれだけ傷つけられてきたか、わからない。
「まあまあ滝内君、面白えおばさんだろ? ねえ花村さんもっといろいろ話を聞かせてくれよ」
高見沢が心底楽しそうに笑っている。おばさんの名前は花村というらしい。
「高見沢さん? あんた滅茶苦茶かっこいいよ。なんで誰とも結婚しないの? もったいないんだけど!」
花村は僕の顔を馬鹿にしたかと思えば、今度は高見沢の顔を褒め始めた。高見沢は確かにジャック・ニコルソンのような顔をしている。いわれてみればなかなかかっこいいかもしれない。
一方、無口な三浦は僕らの話を聞きながらニヤニヤしている。この人は一体なにを思っているのだろう。
「それよりそこの汚い顔の人? 滝内っていうの? あんたの話聞かせてよ。大学中退したんだって? やばくない?」
花村はもの凄いハイテンションでしゃべりまくる。ちょっと尋常じゃないテンションの上がり方だ。これは躁鬱病の躁という奴ではないか? 僕はこの人と話していていいのか不安になった。
「大学は行ってましたよ。あんまりその話はしたくないんだけど……」
「半年で中退? バッカじゃねえの。あんた親にいくら金使わせた? どこの大学行ったのよ。え? あの三流大学? うわーあんなの金出せば入れるじゃん」
自分のいた大学を三流大学といわれ、自分の過去を全否定された気がした。三流大学というが、僕は入るのに結構苦労したのである。なんという物言いだろう。憤りか、もしくは喪失感か。僕は体がガタガタと震え、頭には血が上ってきた。なんなんだこの人は?
「あんまりふざけたことばっかいってると許さないよ? あたしはね……行こうと思えば国立だって入れたんだから。腹立つわー、あんたみたいな馬鹿むかつくわー」
高見沢が「まあまあそのくらいでやめとけって、花村さん」と笑いながら制止すると「滝内君どうだい、世界広がっただろ。世の中にはこういう人もいるからよ」と僕の背中を叩き「疲れるから今日はこのくらいにしよう」と部屋に戻る合図をした。
結局僕は花村というおばさんになにも言えなかった。元々僕は喧嘩をするタイプではない。しかし今回は言うべきだった。高見沢に上手く乗せられて、最後は無理矢理会話を切られた気がした。
「世界が広がったって? 一体あの人はなんなんです? 滅茶苦茶不愉快でしたよ」
「いやあ、滝内君もああいう人をあしらえるくらいにならないと。まあ、またね。そろそろ寝ろよ」
高見沢はゲラゲラ笑いながら部屋に戻っていった。酷い目にあわされた僕の気持ちをどうしてくれるのだろう。
僕は冷静になって、あの人と話した内容を振り返ってみた。大学は……上を目指せば果てしなかった。それでも自分が出せる成績の中でベストの選択をしたつもりでいた。
しかし、半年も東京で過ごしたら、僕は精神科の患者になってしまった。大変な親不孝だと思う。それだけに、あの人の言葉が痛かった。悔しかった。
過去は変えることができない。だから胸を張って生きていける今が欲しい。欲しい……。
今、自分にできることはなんだろう。本当にただ寝ていることしかできないのだろうか?
消灯の時間が近い。今日が終わろうとしていた。(つづく)
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