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概して失敗を顧みることのほうが得られるものは多いのに、それをなかったことにしていたら、成長しないのは当然のことですよね。
なんだかんだで、今日まで毎日欠かさず更新することができました。途中、データがなくなっていた話があって、慌ててブログから画像を持ってきた、ということもありましたが、それも今ではいい思い出です。
ここまでお付き合いくださいました皆様、本当にありがとうございました。
なかなかコメントが上手くまとまらなくて、何時間もパソコンの画面と睨めっこしたことも、手抜きで適当に流したコメントもありましたが、い
約束事が重要視される社会なら、矛盾した言動をする人が話を聞いてもらえないのは当然のことですよね。
矛盾した言動をとる人たちがよくするのが、自分のことを棚に上げるという行為です。他人に対してあーだこーだ非難している本人が、その行為をやっていたり、人にああしろこうしろ言ってるのに、自分はできていなかったり。
自分自身が実行できていないことを他人に強要しても、聞き入れてもらえるわけありませんよね。それは、その手の要請される行為というものが、自分の自由を制限する、大なり小なり我慢・自制が必要な行
ナルシストの度合いが高い人が、自分を客観視できないのは、現実の自分から目を背けているからですよね。
支配欲、自己顕示欲、承認欲求でモノを言っている人というのは、自分がそれらの欲求に基づいて行動しているということを認めようとしないものです。それはそうですよね。それらの欲求は、他者を欲求充足の手段とする必要性があるわけですから、そんなことが知られたら、他の人たちに総スカンをくらってしまいます。ですので、嘘をついてでも、そのことを隠そうとするわけですね。つまり、上記の欲求が強い人たちというのは、根
人は欲求、利害で動いているわけですから、理念や価値観の共有で、すべてが丸く収まるわけありませんよね。
至極当たり前のことですが、その人の言説や行動と、その人の欲求などは切っても切れない関係にあるということです。最近のここでのコメントを読んでいただいている方ならおわかりになると思いますが、いくら口先だけで立派なことを並べ立てても、それが自己顕示欲や承認欲求からくる、ただの見せかけの言説だとしたら、必ずボロが出てしまいます。
生物である以上、欲求を満たそうという行為は当然の行為です。ですが、その
その時々の状況に合わせて自分で判断できなかったら、生物としては終わりですよね。
大抵の矛盾というものは、なされた言説に対して、実際の行動などが一致していないというケースがほとんどだと思います。その場合、言説のほうが建前であり、実際の行動のほうが本心に基づいたものという関係性にあると言えるでしょう。ですから、その言説と行動をみれば、その人の本心がわかったりします。
たとえば、よくネットで炎上する人が、批判をかわすために「匿名の意見はダメ」ということを言ったとします。しかし
特定の意見などの強要は、ある意味人格否定なのにも関わらず、その意見などが間違っていたと判明しても、素知らぬふりや言い訳されたら、頭にきて当然ですよね。
世の中には「自分は声なき声の代弁者である!」というスタンスを前面に押し出して意見を述べる人がいます。しかしそれは、自分の意見を正当化するために用いられる手段でしかないという場合がほとんどです。よくある野党の政府批判で持ち出される『国民』もそうですよね。「その国民て誰だよ」っいう話ですが、まあ確かにそういう括りで捉えれば、その意見表明者もそうですし、中には同じ意見の人たちもいるわけですから、あな
聖人君子でもない限り、自分のことを二の次にして、他人の利益になるような言動をとるわけありませんよね。
何事においても、物事には良い面・悪い面など、色々な側面がつきものですが、SNSが発展して私が良かったと思う面は、ひとつの意見に対して、大勢の人がそれぞれの見解を表明できるようになったことです。
今まで意見などの表明は、メディアなどを通じた一方通行のものでした。そのため、その表明された意見への反論なども、メディアを通じたものになっていたと思います。それだと結果として、著名人の意見しか取り上げら
一律な対応が功を奏するのは、条件が同じだったり、対象となるものがみんな均質だったりした場合だけですよね。
今回の感染拡大の特徴は、若年層が感染者の大部分を占めているということらしいですが、それはこの話でも取り上げた脳の成熟度合いというのにも関係があるのではないかと私は思います。
残念ながら若い世代は、まだ脳の成熟段階のため、度重なる自粛要請に従うのも限界にきてしまい、もう抑制が効かなくなってしまっているのではないかと推測できるのではないでしょうか? その傾向は、海外でも同じですよね。テレビなどで
誰かが誰かを擁護しているときというのは、お互いの意見が一致しているという事情があるからで、信用できる、事実である云々といった話ではないですよね。
自己愛性パーソナリティ障害の人は平気で噓をつく、ということが広く認識されてきたようで、そのような傾向を持つ人たちの発言力が、日に日に弱くなってきているのを実感するようになった今日この頃です。
新型コロナ関連の分析でも、もはや違うとわかってしまったことを、自分の見立てが間違っていたということを認めず、いつまでも主張し続けていたら、それも立派なウソですよね。
今回の話にも出てきましたが、スウェ
権威を持ち出す人の話というのは、概して内容があまりありませんよね。
誰かの意見・見解というものは、その人の立場に根差した、その人固有の個別なものであるため、そこに普遍性はありません。なので「誰それがこう言った」といった感じで権威化されたとしても「だからなんだというのですか?」と、切り捨ててしまって一向に構わないと私は思っています。
意見や見解などで重要なのは、あくまで論理構造、本当に現実に則しているか、だと思います。そうでなければ、いくらその主張されているこ
既存の価値に囚われるのは、自分では価値判断ができないからですよね。
オリンピックやお正月の時期によく見かけるものと言えば、どういう意図があるのかよくわからない企業CMですよね。「夢は叶う」とか「理想は実現する」的なことが語られた後に企業名が出てくるアレです。私には莫大な宣伝広告費を掛けてまで、なぜそんなことをするのかよくわかりません。視聴者のハートに訴えかけることで、気を引こうとする意図があるのかもしれませんが、子どもの頃からその手の言葉を浴びせられてきた世代
感情的な人ほど、自分は論理的だと吹聴する傾向がありますよね。
自分たちの主張を正当化するために、自分たちで「科学的だ!」「論理的だ!」と、感情的に吹聴している人たちがいますが、皮肉にも、そういう態度こそが、科学的・論理的ということがわかっていないことの証明だと思います。
本当に科学的・論理的というなら、論理的思考ができれば、それは誰にでも理解はできます。つまり、「科学的だ」「論理的だ」と、言っている主張が大多数に理解されないということは、その主張が間違
自分はこう考える、ということを否定するなと言うのなら、他人の考えも否定したらダメですよね。
一口に「社会に対して物申す」と言っても、どういう目的でその行為がなされているかは、人によって違うと思います。本当にみんなの満足のようなことを目的としているのなら、他の人の意見にも耳を傾けるはずです。社会は色々な人の集まりであり、その中でみんなの満足度を高めようとしたら、そうならざるを得ませんよね。
その一方で「世のため人のため」ということを掲げながら、人の意見に全く耳を貸さない人たちも存在し
自然に対して「こうあるべき」なんて思うのはおかしいと感じるのに、人に対しては感じないということは、相手をコントロールできる対象だと思っているからですよね。
これも何度も言っていますが、法則とか理とか本当に絶対・普遍的な性質のものは「かくあるべき」的な方向性を示したりはしません。だから、この世界では、それらに反しない限りにおいて、どんなこともできるということです。人間の行為というものも、実際に実行できるからには、それは法則や理などには反していないといういうことです。引いては、どんな生き方であっても、実際にやってこれた、やっていける以上、それも法則や
その人の考えが、その人の想いなどに基づいている以上、それを汲み取る形ではなく、否定する形で考えを変えさせようとしたら、反発されて当然ですよね。
正直な感想として、世の中の提言・批判の数々は、自分の考え・願望・都合通りにしたいがために、違う立場の人たちを何とか黙らせようとするものばかりだと思います。そのために『普遍的価値』とか『正しさ』などといった言葉が持ち出されるわけですが、それらすべてに例外なく「自分にとっての」という限定が付いていることを忘れてはいけないと思います。「誰にとっても」ではないことを、無理矢理推し進めようとしたら、反発
何か問題が発生すると、色々なところから色々な意見が噴出するのは、どうしたらいいかということに対する見解が、人によって異なるからですよね。
新型コロナが流行して以降、このような新型コロナ関連の短い話の投稿が何話かあります。ということで、このコメントもエンターテイメント重視の短めのものでご容赦ください。
昨日の専門家の人たちの見立てのほうが当たっていた、というコメントに反応したのかどうかはわかりませんが、専門家は判断材料など色々なものを持っているのに対して、自分は持ってないからモデルなどを作れない、といった内容の言い訳がなされたよ