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特定の意見などの強要は、ある意味人格否定なのにも関わらず、その意見などが間違っていたと判明しても、素知らぬふりや言い訳されたら、頭にきて当然ですよね。

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世の中には「自分は声なき声の代弁者である!」というスタンスを前面に押し出して意見を述べる人がいます。しかしそれは、自分の意見を正当化するために用いられる手段でしかないという場合がほとんどです。よくある野党の政府批判で持ち出される『国民』もそうですよね。「その国民て誰だよ」っいう話ですが、まあ確かにそういう括りで捉えれば、その意見表明者もそうですし、中には同じ意見の人たちもいるわけですから、あながち間違いとは言い切れません。

いわゆるサイレントマジョリティーというものは、実際の声はわからないわけですから、自分の意見を表明したい人にとっては非常に都合のいい概念というわけです。つまり「自分はサイレントマジョリティーの味方だ!」と、言った者勝ちみたいなところはあると思います。ときにはこの『サイレントマジョリティー』の部分が『社会的弱者』だったりもしますよね。 

その意見表明者が、本当にサイレントマジョリティーの代弁者かどうかを判別するためには、その人がどんな活動をしているかを見てみるのが一番だと思います。本当に何らかの困りごとを抱えている人たちの現状をなんとかしたいと考えているなら、実際にその人たちへ手を差し伸べたり、直接話を聞くなど、手間暇を惜しむはずはありませんから。その窮状に置かれている人たちの具体的な声というものを知ってこそ、適切な対応ができるというものですよね。それを自分勝手な勝手な想像で事を進めたりしたら、的外れで期待外れな結果しか生まれません。そういう事情があるので、口だけで実際には救済活動などを一切しない人たちの意見というものは一向に支持されないのでしょう。

要するに、あからさまに不特定多数の声なき声というものを掲げている人というのは、そこに自分の意見を当てはめるという多数派工作のために利用しているにすぎないということです。そういう人は、自分にとって都合の悪い不特定多数の声については「匿名の意見に耳を傾ける価値なし!」的なことを言って切り捨てているはずです。これ、話の筋からいったら矛盾してますよね。結局、自分にとって都合のいい意見しか認めないということですね。

「夢の船」河野 都(倉岡水巴)

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