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娘の保育園入園に思うこと~現実を生きる~

うららかな春、と言いたいが、すでに照り付けるような夏の暑さを感じる日が続いている。外に出れば木々の新緑が風になびき、ゆるやかな木漏れ日を作っている。

そんな気持ちの良い季節に、娘が保育園に入園した。

入園初日

保育士さんに「よろしくお願いします」と言って娘を預けると、娘は泣きもせずきょとんとした顔でこちらを見ていた。「泣いてしまうかな」と心配していたが、それよりも娘は今の状況が何だかよくわかっていない様子だった。

そんな無垢な顔を見ていると、親である私のほうが泣きそうになった。
ぐっとこらえて「お昼に迎えにくるからね」と言ってその場を離れた。娘はやさしそうな担任の先生に抱かれ、部屋の奥へと連れていかれた。

一人の時間

昨日までは保育園に預けるなんて想像もできなくて、娘は無事に過ごせるだろうか、などと考えて私のほうが緊張したりソワソワしたりしていたが
いざ預けて家に帰ると、意外と落ち着いて過ごしている自分がいた。

家のことを済ませ、たまっていたレシートを整理し、コーヒーを淹れて一息つく。お気に入りの机に座って本を読む。どこからか鳥のさえずりが聞こえる。

窓の外に目をやると、隣家に生えている大きな木の枝一本一本に若葉が茂り、空を明るい黄緑色に彩っていた。

春だな。

そう思うと同時に、最近は久しくこういう時間を過ごしていなかったことに気付く。これまでも娘が寝ている間に一人で過ごす時間はあったが、娘が同じ空間にいるのと、誰の気配もしないアパートの一室に一人でいるのとでは全く違っていた。

網戸を通り抜ける風を感じながら、物思いにふける時間が好きだった。
そんな自分がいたことすら忘れかけていた。
どうやら私は、完全に一人にならないと、こんな風に感じることは難しいようだった。

娘の存在

カタン、と音がして、ふと「娘が起きたかな」なんて思う。

そして娘はいま保育園に行っていて、ここにはいないのだということを思い出す。電車から降りてもまだ揺れている感覚があるように、娘がここにいるような錯覚をおぼえる。

その瞬間、自分が思っていた以上に、娘は私の日常の中にしっかりと存在しているのだということを思い知る。

子育て中も、極力私は自分の時間を確保するようにしてきた。(もちろん、周囲の協力あってのことだが)しかしそれでも、娘の存在は、やはりとても大きい。


いまはまだ慣らし保育の最中なので、預ける時間も午前中だけだ。けれど、もうすぐ育児休暇が終了し、私は仕事に復帰する。そうなると、ほぼ一日中、娘は保育園で過ごすことになる。

これまでの約一年間、ほぼ一日中いっしょにいたわが子は、いま隣にいない。これからも娘を育てていくことに変わりはないが、これまでつぶさに成長を見てきたように、側にいて見守ることはできなくなる。

保育園に預ける前日まではそのことを寂しく思っていたけれど、いまは不思議と落ち着いていた。やらなければならないことはアレコレとあり、感傷に浸っている暇はなかった。

現実を生きるって、こういうことなんだな
と思った。

現実を生きる

娘を生むまでは、私は夢見がちな人間だったと思う。

「将来はカフェをやりたい」
「いつか小説を書いて本を出版したい」
「絵を描いたり歌を歌ったりして暮らしたい」

実際に行動が伴っていないような、つまり地に足付いていない思い付きの夢を語っては、周囲に語ることで満足していた。そんな自分に酔っていた。

気まぐれで小説や詩を書いてみたり、コーヒーを淹れる練習をしてみたり、ギターを弾いてみたり、絵を描いてみたりした。だがある程度取り組むと気が済んでしまい、やったりやらなかったりを繰り返した。

つまり、いつまでたっても、夢は夢のままだった。

娘を生んでからは、詩や小説を書くことがこれまで以上に減った。
ギターを弾くことも、絵を描くこともあまりしなくなった。

それでも子育てが楽しかったし、満足していた。「書かないと生きていけない」と感じる人もいるかもしれないが、私はそうではないのだなと思った。書かなくても日々おだやかに暮らせていたし、何事もなく生きることができていた。

詩や小説を書いている時、私は感傷に浸っている時と似たような心持のことが多い。詩や小説を書くときには、ある程度空想していたり、自分の感覚センサーを繊細に、敏感に保っている必要があるのだ。

しかし、幼いわが子はつねに動き回り、空想する暇なんて与えてくれない。
娘の様子を見守る為に多くの感覚器官は使われるため、詩や小説を書くような心持には私はならなかった。それよりも考えること、やることがたくさんあった。たまに作品を作ろうという瞬間が訪れたが、それが毎日続くことはまれだった。

「何かを手に入れるってことは、自分の中の何かを手放すってことなのよ」
「あんたも子どもを産んで、普通の人になったってことね」

母親からはそう言われた。

「これが現実を生きるということか」

それが子どもを産んだことによるものなのかは定かではないが、創作意欲がなくなっても、不思議と満足していた。フワフワと空想している時間も、もちろん好きだが、地に足付いて日々の暮らしを営んでいる感覚がことのほか気に入っていた。

以前の私なら、創作意欲がなくなったことに関して落ち込んでいたかもしれない。でも今は、まったく落ち込んではいない。たとえ時間を巻き戻して子どもを持たない生活を選べたとしても、選ばない自信がある。そう言い切れるほどに、今の自分は間違いなく幸せで、満ち足りている。

いまの私にとって、現実を生きることは楽しい。
娘のおかげで、自分の周りにたくさんの知らない世界が広がっていることを知れた。娘の存在は多くの喜びをもたらしてくれた。生まれてきてくれた娘には、感謝してもしきれない。

それにこれからも、詩や小説を書こうと思う瞬間が絶対に来ないとは言い切れない。現にいま、小説ではないがこうして文章を綴っている。好きだったことが、いまできなくなったからといって、一生そのことをしてはいけないわけではないのだ。

家族とともに、地に足付けて現実を生きながら
大好きなことも、あきらめずに続けていけばいいのだ。
のんびりと、気楽に構えていたらいい。



玄関のポストに幼児の通信教育の勧誘のチラシが入っていた。さっきの音はこの音だったのだろう。どこから情報を手に入れたのか、チラシにはもうすぐ1歳になる娘の名前とあわせて「誕生日おめでとう!」と書かれていた。

娘は、もうすぐ1歳になる。

「この間生まれたような気がするのに」

そんなどこかで聞いたことがあるようなセリフをシンプルにつぶやく。月日が経つのは、なんとも速いものである。

ビニールの封筒を開封し、見本でついてきた薄い絵本だけ取り出す。

娘が帰ってきたら、読んであげよう。誕生日にはどんなお祝いをしてあげようか。

そう思って絵本を本棚にしまい、娘を迎えに行く。



保育園につくと、中から娘が大声で泣き叫ぶ声が聞こえた。

いま行くからね。

私はあわてて車を降りて、娘の元へと向かった。
抱き寄せた娘からは、ふわりとやさしい春の香りがした。



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