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超-明るい部屋へ/埋蔵経典を”発掘”する神話的思考 -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(7)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む

精神の考古学。
私たちの「」は、いったいどうしてこのようであるのか?

私たちが日常的感覚的に経験している分別心(例えば、好き/嫌いを分別したり、自/他を分別したりすることは当たり前だと思っている心)が、発生してくる深みへと発掘を進める中沢氏の「精神の考古学」。



いよいよ第八部「暗闇の部屋」を読んでみようと思う。

ここで中沢氏は、「まったく光の入ってこない部屋の中で、一週間にわたっておこなう[…]暗黒瞑想」について書く(p.294)。ここは本書の中でも、個人的にもっとも興味を惹かれた部分である。その理由については下記の記事に少し書いているのでご参考にどうぞ。

さて「まったく光の入ってこない部屋」に数日にわたって籠るとなると、その間の衣食住をどうにかする必要がある。

食事の時間だからといって暗黒部屋を出るとか、風呂に入りたいからと暗黒部屋をつどつど出るとか、そういうことをするわけにはいかない。もちろん、夜になったので暗黒部屋を出て、家に帰って寝よう、というわけにもいかない。生活のすべてを、一週間、暗黒の部屋に篭りきりで行わなければならない。

そうなると必要な準備は当然大掛かりになってくる。
まずサポートしてくれる人が必要である。外で食事を用意したり、暗黒部屋の周囲で起こる世俗のあれこれに対応してくれる人である。

そして暗黒部屋の構造というか、間取りにも配慮が必要である。瞑想する座だけでなく、寝るところや食事をするところ、トイレやシャワーに、換気の設備も必要である。そして、食事を部屋の中に運び入れたり、食べ終わった皿を運び出したりするための開口部も必要になるが、ここも「ごはんですよ」で光が差し込んできてはダメなので、扉を二重にするなどの工夫が必用になる。

AI生成:暗闇に入ることで視覚自体の発光を「見る」

暗黒瞑想の「伝承」

埋蔵経典

中沢氏が修した暗黒瞑想のやり方やその意義は、いわゆる「埋蔵経典」に(として)記されたものである。

埋蔵経典というのは、はるか古代の賢者によって記されるも、同時代の人々の分別心では”読む”ことができず、かえって迷いを深めてしまいかねないと危惧された書物が大地の深くに埋められたもの、である。
これが何百年も後の行者によって「発掘」されるのである。

埋蔵経典を発掘させる神話的思考

中沢氏は埋蔵経典を、歴史的思考の対象ではなく、神話的思考に属するものである、と書く。

歴史的思考は出来事を時間の順序にしたがって並べて、それらの間の因果関係を探るという思考方法である。時間は過去から現在、未来へと冷厳な順序にしたがって流れていくものであるから、その出来事の起こる順序を自由に置き換えることはできない。」

中沢新一 『精神の考古学』 p.303

歴史的思考というのは、今日の私たちの日常の思考と同じことである。
それはすなわち、

前 / 後
||  ||
因 / 果

この二項対立をはっきりと分け固めた上で、先行する原因の後に結果が生じ、この結果が新たな原因となって次なる結果を生み、この結果に起因してまた次の結果が生じ、というように考える。

そこでは”前/後、因/果 の分別はかっちりと固まっているべきで、前後不可得になったり、原因と結果がどちらがどちらかわからなくなったりするようではダメだ、思考とはいえない”ということになる。

ところがこのような考え方はまさに分別心(セム)のなせる技であって、人間の迷いと苦しみのもとである。

ー ー

それに対して神話的思考は次のような論理を組む。

「ところが神話的思考においては、時間の秩序を自由に変化させることができるのである。遠い過去に起こったことが、現在の秩序の中に入り込んできたり、未来に起こるはずのことが現在の人によって「予言」されて、人々がその予言にしたがって行動することによって未来が変えられていく、といった事態が起きる、神話的思考を通じて、人間は事物に隠されている潜在的な「意味」を探ろうとする、その「意味」は普通の状態では世界の表面に現れてくることなく、時間の論理にそって配列された現実が表には現れてくる。そういう「歴史」の背後に隠されている「意味」を、神話的思考は探るのである。」

中沢新一 『精神の考古学』 pp.303-304

神話的思考では時間的な前/後の二項対立はもとより、因/果もなにも、ありとあらゆる経験的感覚的に対立すると思われている二項関係が、分かれたり分かれなかったり、ひとつになったりふたつになったり、分かれているのか分かれていないのかよくわからなくなったりする

これは単にいいかげんなことを言って話をごちゃごちゃにわけがわからなくしている!ということではまったくない。

ここで起こっていることは、単に「物事の区別がなくなりました、分別がつかなくなりました」ということではなくて、分別がはっきり定まるわけではないが、しかし、分別がまったくつかないわけでもない、という状態である。

分別がある/分別がない
分別/無分別

この二項対立もまた分別である。


神話的思考

神話的思考はありとあらゆる分別がまさに発生しようとする瞬間を捉えようとする。そこでは分別と無分別の分別もまた”あるような、ないような”、”あるでもなく、ないでもない”ということになる。


この人間の経験の秩序を根底で構造化している二項対立(分別/無分別、ある/ない)の両極のどちらでもあってどちらでもないところこそ分別が始まる瞬間と言えるような事柄である。

そしてこの分別のはじまりこそ「意味」の始まり、「意味する」ということの始まりである。レヴィ=ストロース氏が『神話と意味』で書いているように、意味とは言葉と言葉の置き換えである。

意味とは、「XがAを意味する」ということであり、XなるものとAなるものを、”異なるが、同じ”こととして分けたままにしつつ、繋ぎ合わせることである。この際、XなるものとAなるものは、いったいどこからやってきたのかと言えば、間違っても宇宙の始まりから転がっていたわけではなくて、それぞれ

X / not- X
A / not- A

という分別によってつどつど今この瞬間に区切り出されている。
”Xとは、”Xではないもの(not- X)ではないもの””である。
”Aとは、”Aではないもの(not- A)ではないもの””である。

XもAも、それ自体としての本質(自性)においてあらかじめ存在する何かではなく、あくまでも”それではないものーではないもの”として分別されたことによって区切り出されたポジションである。

「意味」ということが発生してくることを可能にする論理、というかアルゴリズムでは、このような二つの分別(つまりそれぞれ別々の分別であると分別できる分別)が分別されたところに、この二つの分別は”分別”されたけれども、しかし”分別しなくてもいい”かぶせてくる。こうすることで、X/not- Xと、A/not- Aの二つの分別が、別々に分別されながらひとつに重なってもいる、という状態が保たれる。

X / not- X
||    ||
A / not- A

もうお分かりのように、こうして初めて「XはAである」「Xの意味はAなんですよ」などというようなことが言えるようになる。

この、X、not- X、A、not- Aの四項を、それぞれΔ1、Δ2、Δ3、Δ4と置いて、下図のように配置してみよう。

ここでΔとΔの間の位置、βと記された位置には、経験的感覚的には対立する両極をひとつに重ねたような重ねないような、分別がはっきり定まるわけではないが、しかし、分別がまったくつかないわけでもないということが動いている様子が見えるてくる。


いま、ある一つの「意味する」ということの四項関係が可能になるためには、四つのΔ項と同時に、その四つのΔのあいだにはさまるかたちで、四つのβ項(分別がはっきり定まるわけではないが、しかし、分別がまったくつかないわけでもないということ)が浮かび上がってくる。

四つのβ項は、このβ四項関係の中では、たがいに別々に分かれているでもなく、ひとつになってしまっているわけでもない、という分かれているのか分かれていないのかさえ不可得(つまり分かれていない=区別がない=のっぺりと連続しているとは言えない)である。

このたがいに分別無分別不可得なβ四項がひとつになったりよっつになったり脈動しているところから、Δ四項のポジションが区切り出されてくる動きこそが人間の「心」のもっともシンプルなアルゴリズムである。ここで、二つのΔしか見えなくなっているのが通常の経験的感覚的な心の表層、分別心(セム)でありβ四項とΔ四項、合わせて八項が脈動しつつ曼荼羅状のパターンを描きつつあるのが、中沢氏が『精神の考古学』で書かれているところの「セムニー」である

セムを表層、セムニーを深層、あるいはセムを心生滅、セムニーを心真如、と言い換えることもできるかもしれない。

「適当なことを思いつきで書いている!」と思われるかもしれないが、これについては空海が『吽字義』に書いていることともおおいに通じていると思うので、ぜひ今後の研究に期待したい。

+ +

上に引用した中沢氏の言葉に戻ると、前/後、因/果の分別の連鎖として語られる”歴史の意味”の分別もまた、このような二項対立関係の対立関係を分けつつ結ぶ二重の四項関係の脈動を通じて、初めて可能になるのである。

そして中沢氏は「歴史を逆なでする神話的思考法」と書かれている(p.304)。

神話的思考を自在に脈動させるために、私たちは、時間的な前後関係とか、物事の因果関係のような、近代の自然科学さえもがその前提として不問のままにしている分別をもまた「あるようなないような」”いいかげんさ”へと励起しなければならない。

ちなみに、「時間的な前後関係があるでもないでもないなんて、そんなワケないだろう!時間は確実にある!!」と思われた方には下記の本をお勧めさせていただく。理論物理学者カルロ・ロヴェッリ氏の『時間は存在しない』と『世界は「関係」でできている』である。


発掘の概念/ 他ではない何を、他ではない誰が、他ではない”どこ”から?

つづけて中沢氏は、さらに興味深いことを書かれている。

テルマ(埋蔵経典)は、テルトン(埋蔵経典発掘者)の神話的思考を介して「制作」される。そのさい近代の作家による創作と異なって、テルマは「テキストが別のテキストを自発的に生み出していく」様式によって、神話的思考の厳密な「論理」にしたがってつくりだされる。[…]神々やその眷属やアイテムなどの「項目」は、自由に変更してもかまわない。こうして「項目」を変更してもそのテキストが発するメッセージは不変でなければならない」

中沢新一 『精神の考古学』 pp.304-305

「埋蔵経典」は、”西暦何年に誰それがどこどこに埋めたものが、それからうん百年経って、とある人に発掘されました”というものではない。それは歴史的な”過去”の地層から発掘されたものではなく神話的思考が脈動する心の深層から浮かび上がったもの=発掘された言葉、である

現代の自然科学的な分別に慣れ親しみつつ、神話的思考におけるありとあらゆる意味分節の発生の深層のことをどういうわけだか気にも留めなくなってしまった私たちからすると、「埋蔵経典発掘者」を称する人が、自分で、経典を「創作」しているのだと言いたくなるところである。

しかし、埋蔵経典の発掘において起きていることは「作者」による「創作」ではなく、”テキスト自体がテキストを生み出していく”運動であるという。

ーーー

あるテキストでかっちりと分別されたものとして書き込まれたある二つのΔが、一つに短絡されたり、一瞬どちらがどちらか区別がつかなくなった時、そのΔ×2は新しい八項関係のうちのいずれかのβ項の位置を切り開く。そこからまさに”自動的”に、残りの7項のポジションに収まる三つのβと四つのΔが既知の二項対立のなかから自在に選ばれ、呼び込まれ、新しい意味するということが始まる。

ここでは「神々」がいずれの神であるか、その眷属がだれであるか、その持ち物が何であるかは、自在に入れ替わることができる、が、比較的かっちりと固まって見える同一のパターンを反復されがちなΔ四項と脈動するβ四項とが重なり合った八項関係は、けっして変わることがない。

創造ということ

この八項関係を振動させ、自在にΔ項たちとその置き換え関係(意味すること)を発生させつづけることこそが「創造」の一番深いところで起きていることなのである。

創造の要素を含むものは、神話的思考の空間をくぐり抜ける必要があることを、テルマ(埋蔵経典)の実例は教えている。宗教や政治は真理を語る言葉や文章が、固定されることを求めている。宗教や政治の言語に神話的思考が侵入すると、自在な変形と増殖の運動に、真理の言説を委ねてしまうことになるからである。ところがテルマはそれとは反対に、真理は自由な創造的変換の中からしか生まれえないと考える。チベットの政治・宗教史の中で、ニンマ波はつねに権力からほど遠い周縁部に置かれてきたが、そのことは彼らの聖典であるテルマの制作原理と深くつながっている。」

中沢新一 『精神の考古学』 p.307

この一節、非常に大変なことが書かれていると思う。

神話的思考の空間を潜り抜ける「創造」。


この「創造」は、いわゆる”真理”をも”創造”する。

ーー真理は、創造されたりされなかったりするものではなく、厳然と定まっているからこそ真理なのではないか?ーー というようなことを考えてみたくもなるところであるが、ある何かが真理で、そのある何かの反対は真理ではない、という言説を紡ぐ時、私たちはほぼ自動的に、

真理/ 非-真理
||    ||
A /非-A

という分別(二項対立関係の対立関係を固める)をして、「Aこそが真理である!」とやっている。

”Aも真理だが、真逆の非-Aもまた真理”などというと、なにやらうまいこと深いことを言っているという感じにはなるが、政治的な集団や信仰の集団を組織しようという場合には、「Aでも非-Aでもどちらも真理」では、皆の見ている方向が同じにならず、混乱の元である、と。

「Xが真理である」という時に、Xに何を入れるかが「自在な変形と増殖の運動」に委ねられてしまうとマズイ、というところで人類は一糸乱れぬ、構成メンバーを交換可能な、息の長い組織を営んできたのである。

+ +

ところがところが。

「真理はAである(非-Aは真理ではない)」「そうだそうだ!」

とやっているところに「私にとっては非-Aこそが真理です」と言って憚らないひとが現れた場合、「真理A」集団は、この非-A真理の人に、どのように対応したら良いのか?

「私たちとは逆ですが、それもありですね!」

と言うことができればそれで良いのだが、どうも人類はこの数千年間、そうは言えずに、なんとか非-Aさんの考え方をA派に変えようと(あるいはAさんの考え方を非-A派に変えようと)、説得したり、教えたり、頼み込んだり、脅かしたり、と、頑張ってきたように見受けられるが、どうだろうか。

神話の思考では、「真理」もまた、

真理 / 非-真理

の二項対立の一方の極である限り、それは先ほどのβ四項とΔ四項に二重の四項関係=八項関係の脈動の中に、はじめて生成する=創造されるものであると考える。この脈動野中では、真理/非-真理の対立が、他のどのような対立と、どちらの向きで重なり合うのかは、常に変換され続ける。

・・

人類がもし「多様性」ということをさらに深く理解するならば、つまり異なる「真理」や、異なる「正しさ」を分別するひと同士を付かず離れずに共存させるためには、いくつものの、無量の、「真理」分節の四項関係たちを次から次へと置き換え・変換することを可能にする神話的思考の論理を常に思考と言語の表層の直下にまで、浮かび上がらせておく必要がありそうである。

もし人類社会の構成員の”多数”がこの「創造的変換」を理解でき、日々の発語発話書字の瞬間瞬間に明晰に意識し続けることができるようになったなら、人類の”未来”はおおいに”救われた”ものになるだろう。


心臓からの光と、脳からの光

このような神話的思考から「創造」された埋蔵経典に記されていたのが、中沢氏が取り組むことになる暗黒瞑想である。

前回までの記事で紹介した「ゾクチェン」のヨーガでは、明るい野外で「太陽の光や青空」を見つめることで「金剛連鎖体」と呼ばれる光の流れを、青空と重ねてみようとする。

それに対して暗黒瞑想では、人間の脳〜視神経が”観る=発生させる視覚〜光を、真っ暗闇に「投射」するということが行われる(p.308)。

大脳内のパルスが直接に眼球奥の視神経を刺激していく。大脳にあらわれるパルスは、心臓にあらわれる生命的パルスよりも激しい活動を予測させる。それは静かに空の青の中を動いていく金剛連鎖体とは異なる発光現象をもたらすであろう。」

中沢新一 『精神の考古学』 p.308

私たちの”生物としての”眼は、動いているとか止まっているとか、明るいとか暗いとか、私たちの身体の「外部」から眼球へと入ってくる光の変化や差分を検出している。

それに対して上の記事で紹介したヨーガでは、ただ「外部」から「入ってくる」光を見るというのではなく、”水晶管”と名付けられた心臓と眼のあいだで脈動する感覚のパターンとでも呼べるようなものが視覚に浮かび上がらせるクオリアを、青空に重ね合わせて観る

そして暗黒瞑想では、眼と心臓の間で共振する水晶管ではなく、脳からのパルスが視神経を激しく刺激する振動を”光として観る”

ここで中沢氏は、このような内部からの光を見ることは、チベット仏教の伝統にのみみられることではなく、オーストラリアの先住民に伝わる瞑想や、ラスコーの洞窟に壁画を残した旧石器時代の人々が洞窟の闇の中に見ていたことと、同じことなのではないだろうかと書く。

旧石器時代から人類は「トゥガル」の現象を体験的に知っていたのである。真っ青な空を長時間じっと見つめたり、日の出や日没の太陽を凝視したりしながら、人類は空に光点の連鎖や虹色の輝きやさまざまな幾何学模様の出現を観察していた。それと同時に、真っ暗な深い洞窟の中でいろいろな名前で呼ばれた「超越的なもの」と対面する儀礼をおこなっている最中に、イニシエーションを受けていた若者たちは、まばゆい光の発光現象のおこるのを観察していた。」

中沢新一 『精神の考古学』 p.310

この辺りの話については、例えば下記の文献も参考になる。

この『洞窟の中の心』は私も新刊で買って蔵書しているが、目が眩むような価格になっている。

ところが、人類史上のある時から、この光を見る伝統は各地で失われていった。

「ところが、人類の脳に「象徴革命」が起こってからは、「超越的なもの」はおもに言語と象徴を介して思考され、体験されるようになったものだから、しだいに旧石器時代以来の「超越的なもの」の直接体験はおこなわれなくなってしまった。しかし、チベットの精神文化には、それが残されたのである。」

中沢新一 『精神の考古学』 p.310

象徴革命は新石器革命(定住農耕の開始)と同時に発展した。

『精神の考古学』の冒頭で、中沢氏は人類の精神(心)を多層モデルとして仮に記述している。それはすなわち、下記のような具合である。

精神(心)
表層分別を固める=秩序を固め守る神、神像
┃   →言語的思考、象徴まみれ、記号まみれ
┃   →社会的に組織化されている想像界と象徴界
   新石器革命(農業革命)に始まる増殖的な象徴体系
浅い地層:「言語のように構造化された」無意識

深い地層:法界、法身、セムニー(心そのもの)
     ・・「人類の心の普遍的構造」の真の土台
     ・・自由に流動する力である「精霊
      >>「/」の共鳴体・β四項の脈動

人間の心には、分節済みの記号と象徴で満たされた「表層」と、その下の深い地層が蠢いている。

表層の心は新石器革命を経て、穀物でも貨幣でも、「次なる増殖」の原資となる項をそれ以外の項からはっきりと分節し、次なる増殖の原資となる項だけを守り、固め、増やし続けることに邁進しようとする。これは因/果のΔ二項関係である。

ところが、心の表層の下の方には、表層の分別をそもそも可能にしている「自由に流動する」、”Δ1/Δ2”でいえば”/”の共鳴体のようなものがしっかりと隠れ、動いている。これはβ脈動である。

水晶管からの光を見る行は、表層のΔ分別心を通して、その向こうに”/”が走り回るβ脈動を二重写にして観る。また暗黒瞑想は、どうやら”/”が走り回るβ脈動そのものから、Δ/Δ分節がいくつも発生しては消えていく流れというか漣のようなことを観る。


まとめ

松長有慶氏は岩波新書『密教』で次のように書かれている。

宇宙に充満する声なき声は、シンボルという信号をわれわれに常に発信しつづけている。われわれ人間も、宇宙と同型のミニチュアであるから、もともと天の声を捉える受信装置は完備しているはずである、近代の主知的な文明に対する危機感から、もう一度、東洋の英知に耳を傾け、宇宙の声に耳をすます姿勢を、人類はいま思い出そうとしている。」

松長有慶『密教』p.236

「宇宙に充満する声なき声」。
この「声なき声」「天の声」を、わたしたち人間は、諸々の「シンボル」に変換された形でもってこの現世の「耳」できくことができる場合がある。

もちろんこの「耳」は「宇宙の声に耳をすます」耳であり、日常において愚痴を聞き合ったり、誰かがなにかを貶める悪口を聞いて溜飲を下げたりするような耳のままではいけない。

修験道でいう「耳にもろもろの不浄を聞いて、心にもろもろの不浄を聞かず」でいえば、「宇宙に充満する声なき声」を聞く耳は、後者の「心」のモードに励起された耳である。

空海の思想に「果分可説」というのがあるが、果分が説する(説法する)ことは可能であるのだが、それを「聞く」ことができるかどうかは、聞く方の耳の組み方にかかっている。

松長氏は『空海』の冒頭に次のように書く。

「空海は[…]「果分の可説」を主張した。無限の世界に属することも、さまざまな象徴を通じてその内容が披瀝され、瞑想を通じてそれを身体的に把握することが可能であると説いた。」

松長有慶『空海』p.9

宇宙に充満する声なき声」も、ここでいう「無限の世界に属すること」である。それは現世の人間の身体・言葉・意識(イメージ?)においてはもろもろの「象徴」という姿形をとる。

この「象徴」たちの変容を通じて「説かれる」ことを「聞く」ということは、耳において、鼓膜で空気の振動を感覚するということを超えて「瞑想を通じて」「身体的」(全身的)に「把握する」ことになる。

修験道で「三昧法螺聲、一乗妙法説、経耳滅煩悩、当入阿字門」というのを聞いたことがあるが、たとえば法螺貝の鳴り響く「声」を「宇宙に充満する声なき声」のシンボルとして聞き、通常の耳の奥に残響している日常の煩悩を分別してやまない言葉や声や音たちを滅してしまって、「耳」(心と直結した)を「阿字」すなわちまさに「宇宙に充満する声なき声」の世界への入り口に変容させる。

そうしたところで「説かれ」「聞かれ」する「声」あるいは「ことば」というのは、私たちの日常の思考を構築している言葉とはまったく違った姿をしている。しかしもちろんこの「宇宙に充満する声なき声」こそが、私たちの日常の言葉が生まれ始めた場所であり、日常の言葉の深い深いところはいまでもそこにつながっている。

近代の文明の日常の思考を成り立たせているのは、大きく言えば二元論、分別心が分別した二極のどちらかを選んでいく操作を連鎖させるというやり方である。

松長氏は「近代」の「主知的な文明」の思考について、それが「物心の二元論的な把握」であり、「自と他を明確に区別する」考え方であり、さらにこの「物」「心」「自」「他」など二つに切り分けられた二極のそれぞれを、さらに分けて分けて、「要素に細分化」することでその本質を理解しようとする「還元主義」の思考であると指摘する(pp.229-230)。

この自/他の二元論と物/心の二元論が重なり合って、ちょっと乱暴に言ってしまうと「”自”分の”心”が満足できるのであれば、”他”の”物”は煮ようが焼こうが壊そうが捨てようがどのようにあつかってもよい」という考え方が出てくる。「他」も「物」も、”自分の心”とは予めはっきりと分離された他所の、自分がまったく預かり知らない、無関係で無縁なことである、と。そうであるからして、空や海や山になにをどう捨てようが自分の心とは何の関係もありません、という感じになる。「自」(自分)が快適になるように、「物」を好き放題にバラバラにし利用し、必要がなくなったものは放棄し、不快だと思う「物」は完膚なきまでに破壊してしまうといったことが平然と行われるようになる。

・・とまあ、こういうことの皺寄せが「他」の「物」の塊である地球環境に積もりに積もって、人間たち”自”の”心”たちを脅かすようになっている、というのが人新世たる現在のありようである。「他」の「物」に対してやりたいう放題の人間の営みが、「物」に与えた負荷が、翻って人間の生活環境を脅かし、人間自身を苦しめるようなことに転じてくる。そうして実は人間もまた「他」と「物」と、まったくの地続きで他の物から”切り離されて”独立自存して固まっているわけではない、ということが気づかれ始めたのである。

* *

このような、「一連につながっているけれども分かれているようにも見える」、「分かれているのだけれども繋がってもいる」というような、あいまいで複雑なこと(”分かれているのか、繋がっているのか、どっちだ、どちらか片方を選べ”という二元論的思考からみれば「あいまい」で複雑なこと)を思考することを可能にするのが「東洋の叡智」である。

そして「宇宙に充満する声なき声」を「シンボル」の形で人間が「聞く」ことを可能にする密教の論理もまた、この東洋の叡智のひとつの極めて洗練された姿である。

「密教の考え方からすれば、自と他、個と全体、物と心というように一般的に対立的に考えられている存在は、もとより一体である。[…]対立的な思考を捨て、全体的に把握することによって、ものの真実があらわれるとする。自我を中心として対立的に世界をみる近代思想から、宇宙的な視座をもって全体的、相互関連的に世界をみる立場へ[…]」

松長有慶『密教』p.230

自/他を二つに分けて、”「自」のことだけを考えていればOKで、「他」は「自」の役に立つならばらばらにして「自」に取り込むし、「自」に害があるなら排除する”。この考え方の始まりには、自/他はあらかじめ別々に分かれているという確信がある。

これに対して密教は、この”二つに分かれているはずだ”という思い込みを破るところから考える。

***

ところで、決して容易ではないのはこの「全体的、相互関連的に世界をみる」を実践することである。近代の二元論がこれほどの強大な力を得たのは、それが人間の言語の表層と極めて親和的だったからである。

「最初のうちは、猛烈な拒絶反応に襲われる。しばらくの間、このようなお堂に立ちすくんでいると、肉体のあちこちの部分、内も外も一拠にバラバラになっていくように思え、人間の感覚が一瞬なりをひそめ、目も鼻も耳も、それそれの働きが急停止するようだ。お堂全体にあふれんばかりのエネルギーが、確実に存在していることを、その時知るのである。」

松長有慶『密教』p.188

こちらは松長氏による、チベット密教の護法堂の中での体験である。

目、鼻、耳、すなわち、前五識とも呼ばれる、人間の身体に特有の神経系がほぼ自動的に動かしていく分節を「急停止」される。この感覚的分節が効かなくなったところで「あふれんばかりのエネルギーが、確実に存在していること」を、おそらく分別知とはよく似ているが少し異なる叡智でもって、「知る」ことができる。

暗闇に篭ることもまた、同じような具合に感覚の組み方を組み替えることだろう。


つづく


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