アスリートは納得感のあるスポーツキャリアの構築を!
このnoteでは、スポーツセクターの構造や仕組みについて「心のスイッチを切って」見てきている。共通して最も重要であることは、選手自身が自分自身で納得して、納得感をもって取り組むことであると考えている。
特に引退が近くなってから
「こんなはずではなかった。」
「教えてくれなかった。」
「知らなかった。」
では後の祭りである。そうなる前に、客観的な構造と仕組みを早い段階から知っておくことは重要である。
しかし、スポーツセクターの構造として、スポーツキャリアをスタートさせる小学校前後・中高生では、この仕組みは大変見えづらいものである。もしかしたら、業界の事をよく知らない周囲の大人や親でさえも分からないかもしれない。さらに高校くらいまでは1歳でも年上だとだいぶ上に見えた。この状態でスポーツを引退する前後の30以上の親よりも少し若いかな位の人達くらいになった時の話なんて現実味をもって受け入れられないのは仕方がない面もある。
さらにこの頃の主な受動的な情報源はテレビや周りの先生やコーチ位である。もちろん自分から探せば見つかるだろうが、「アスリートの引退後」について自分から調べるような人がどれくらいいるだろうか。さらに広告や自分の立場で話をすることで余計に負の側面は見えてこない。
筆者自身もこのような客観的な事実は運営側に関わって初めて鮮明に見えてきた部分がある。コンサルや物理学の構造や仕組みに注目する思考・日本代表選手の視点・協会運営の視点から見ると、いろいろと見えてくるものがあった。
勿論仕組みに注目をすると、感情に反することも多く出てくる。それでもこれは知識としても知っておいた方が後々役に立つ。
特に新型コロナウイルスの影響でスポーツに関係する活動が休止になっている中、改めて考える良い機会なのではないだろうか。
納得感のあるキャリアを築くには、現状を正確に把握することから始まる。構造を見ていきたい。
アスリートのキャリアは宝くじ
アスリートのキャリアは宝くじに似ている。限られたごくわずかの人物が当選するが、1桁でもズレるとハズレになってしまう。優勝者と準優勝者の差にはキャリアに雲泥の差が出来る仕組みになっている。
これは引退後にも言えることで、アスリートの引退後として真っ先に思いつくのは、監督やコメンテーターなどであろう。しかしそれらになるような人は、いわば「運と才能と努力も含めた宝くじが当たった人」である。この実力と運に恵まれた限られた人のみが、テレビで取り上げられるようなキャリアの人物である。この人数は極めて少ない。しかしながらこちらばかりが取り上げられており、スポーツのキャリアのイメージはこちらが主であろう。
以下の議論は上記の「当たった人」以外の傾向について注目していく。
スポーツ大会は古代ローマのコロッセオと同じ構造
現代の教会やスポンサー企業が大会を主催し、スポーツ選手が試合をする光景を、観客に見せて楽しませるという構造は、パンとサーカスでおなじみ古代ローマのコロッセオでの剣闘士の殺し合いとほぼ同じ構造をしている。引退後のキャリアもほぼ同じである。詳しくは以下の記事を参照いただきたい。
アスリートは志願奴隷の位置づけ
そのローマ時代のコロッセオ中で、現代のアスリートは剣闘士と同等の位置づけになる。
古代ローマのコロッセオと現代のアスリートの決定的な違いは、剣闘士は戦争捕虜や奴隷を彼らの意思によらず殺し合いをさせていた。一方で、現代のアスリートは、少なくとも自分の意志でスポーツキャリアを続けている。いわば志願して奴隷になっている志願奴隷のような位置づけにある。
剣闘士は売春婦のような社会的地位は低かったようだが、現代のアスリートはイメージが良い。おそらく長年のメディアのマーケティングのたまものである。
現代社会では奴隷制度は禁止されているし、試合に負けても処刑されることはない。それでも仕組み的には同等の位置づけのように見える。
プロセス自体に直接的な価値がない
仕事にはざっくり大きく分けて2種類の価値がある。第一は存在価値である。トップ選手はこれに該当する。しかしトップとそれ以外の差は歴然で、本当に限られたトップが数年間享受できるポジションである。著作権なんかもこちらである(しかし基本的にスポーツに著作権はない)。
一方で大多数はプロセスである。労働集約型の労働とでもいうべきだろうか。手を動かすことによって価値を生み出すことが難しい状況である。要するに元々が遊びであるスポーツを行うことによって、他人に価値を出すことが難しい。
スポーツのスキルは、この手を動かすことによって「他の人を助ける≒ビジネスとして成り立つ」部分が非常に少ない。プログラムが書ければ仕事になる。経理が出来ても仕事になる。しかしスポーツでは、スポーツ自体を自分で行った際のエンドルフィンが出る、といった自己満足を上回ることが非常に難しい。そしてこの自己満足は、スポーツ元々の語源の余暇・暇つぶしと一致している。
よってスポーツを直接生かすには、強いて言えば肉体労働になる。例えばこのような状況だろうか。
アスリートの鍛えた身体を使って働くこともできる。格闘技で鍛えた肉体を使って警備員のアルバイトが出来る。段ボールを運ぶ仕事もできる。
野球選手のバットを握るスキルを活かして、駅前のパチンコ屋の看板を握る仕事へ生かせる。
ラケットを振るスキルも、ティッシュを配る腕の動きなどに生かせる。
ボールをゴールへシュートするスキルも、ポリ袋を収集車へシュートして集める仕事へ生かせる。
弓で的を射るスキルや、剣で人を刺すスキルは、銃刀法違反で禁止されているので、直接的には使えない。しかしそれでも鍛えた身体の部分は生かすことが出来る。
長く走ること自体にも価値はある。脚力を生かして飛脚や、かご引きを行えばいい。毎回駅まで走ればバス代や電車代を浮かすこともできる。
粉飾決算の株価
上記のようにスポーツに取り組むこと自体には、他社に対する直接的なメリットが少ない。しかしながら、スポーツは長年のメディアによるマーケティングでイメージがいいことと、取り組んでいるときの脳内麻薬などの影響、日本人の頑張ること自体を評価する国民性と相まって、実態以上に持ち上げられる傾向にある。
さらにスポーツの身体能力は、引退前後から急激に衰える。
これらを組みまわせると、スポーツ選手の価値は、粉飾決算の株価のように、中身以上に一時的に吊り上がっている状況に近い。引退前後で暴落する。
「粉飾なんてしていない!」という気持ちはよく分かる。そんな気がないこともよく分かる。しかし「心のスイッチを切って」考えればメディアや宣伝で、実態以上に持ち上がっているという構造は酷似していないだろうか?
引退したら30代・40代フリーター
仮にプロセス自体に価値を見出すのが難しいスポーツだけにひたすら集中して取り組んでいたとしよう。引退は30前後とする。するとどうなるか?
おそらく「30代フリーター」のような位置づけになりがちである。引退年齢が速いスポーツならまだ転換が易しいが、高くなるにつれて余計厳しいことになる。日本の年功カルチャーとの相性も非常に悪い。いわゆる崖っぷちからスタートすることになる。
さらに、幸か不幸か鍛えた身体とスキルを使う肉体労働系の仕事とも相性が良い。先述のような仕事は、選手からすれば感情的に受け付けられない仕事も多いことは察しが付く。しかし客観的に見ると、こうなってしまいがちな仕組みになっている。
人間の社会性が仇に
引退したら、元に戻ればいいじゃないか。と思うのは自然なことである。
スポーツ選手と同じ位置づけの興行に猿回しの猿がある。猿は猿回しを引退しても、他の檻で餌をもらいながら飼われている。もしかしたら水準は何も下がっていないどころか、猿回しのトレーニングをしなくていいだけQOLが上がっているかもしれない。
一方で社会的な動物である人間は、一度上げた水準を下げることが難しい。周りの目もある。せっかくスポーツで築き上げた(と感じていた)ものが何もなくなるのは厳しい。確かにトップ選手の注目のされ方は凄いし、技術も目を見張る。しかし引退してしまったらもう映像くらいしか残るものがない。ここに悩む選手は多い。その気持ちもよく分かる。
ゲーム・ネトゲ廃人に近い
スポーツは、プロセス自体に価値が無く、一部のトッププレイヤーだけが利益を享受できる場合がある構造である。そしてハマる要素が多い。スポーツは良いイメージが付いているので非難はされにくいが、猛烈に非難される対象で、規制までかかってしまったものもある。
ゲームである。特にネットゲームのやり込みすぎて、社会生活に影響が出てしまっているネトゲ廃人と、スポーツをやり込みすぎて社会生活に影響が出てしまっている人は、構造が酷似している。
eスポーツなども出てきているが、これも同じ構造でトップレベルの選手のみがプロとしての利益を総取り出来る構造は変わらない。
アスリートの方が、先述の宣伝による対人コミュニケーションが得意な傾向などはあるだろうが、結果として先述の直接的なスキルになりづらいという点、続ければ続けるほど方向転換が難しくなる点などにおいても、構造がかなり近い。
スポンサー
スポーツは、学歴・職歴は関係ない!多くの人がそう思うことだろう。確かにスポーツの競技中は関係がない。しかしながらコート外では大いに関係があるという事実がある。これももう少し考えてみよう。
スポンサー企業はどのような企業が多いだろうか?端的に言えば、規模が大きくなるほど、いわゆる一流大企業が担当していることが多い。そのような一流大企業の意思決定をしているのはどのような人だろうか?一部はいるだろうが、残念ながら大多数はアスリートではない。日本では新卒採用の歴史が長く、そのような大企業に就職する人材は共通点がある。そうである。学歴フィルターである。(実際には日本以上に学歴社会であるグローバルでは、高学歴が多い。)その中で競い出世していったものが意思決定をしている。
仕組み自体をすぐに変えるのは不可能に近い
これらの仕組みの上に、様々な人たちが仕事をして暮らしている現状がある。よってこれらの仕組み自体を変えることは非常に難易度が高く、時間もかかるものである。一人の一生のキャリアでは足りない。個人的な最適では、うまく立ち回るほうが効率が良い。
どんなにライトを当てようが、飾りつけをしようが、高いところから手を離したボールは下に落下する。ライトや飾りつけは広告で、物理法則は仕組みと構造に対応する。
また、アスリートの一身に努力する力を他の分野に生かせる、というのはもっともな指摘なのだが、これを生かすには相応の知能・学力が必要である。よってスポーツと並行して知能も積み上げていければ別なのだが、しかしスポーツだけをやってきている場合、これはなおざりにされがちである。さらに幼少期からのコーチや監督・企業や協会は、あなたの引退後のキャリアの事なんて考えなくても問題がない構造になっているため、これを自ら律して取り組むのは非常に難しい。
納得感のあるキャリアを!
多角的に見てきたが、スポーツセクターの構造は上記のようなところである。本当にごく一部の宝くじに当てたような人材を除き、大体の場合、以下のような単語で形容しても過言ではない状況である。
志願奴隷
猿回しの猿
高齢フリーター
捨て駒
全財産をかけて買ってハズレた宝くじ購入者
さらに詐欺に遭いやすいときたら、何とも厳しいものである。
スポーツでトップを目指す人は、こういった状況にあることを、なるべく若い軌道修正が利きやすい間に認識することが、納得感のあるキャリアの形成につながる。
スポーツだけに絞るということは、このような大変なハイリスクを抱え、さらに他の分野に蓄えた力も転用が難しくなり、結果として100年人生で30前後で引退した際、残り7割程は惨めな思いをしかねない。(規制などが出来るのであれば、話は別である)
これだけ厳しい環境にあることを認識し、それでも選手たち本人が納得して取り組んでいれば、本人にとっても周りの関係者にとっても問題ではない。是非、「心のスイッチを切って」改めて考え、納得感のあるキャリアの形成を目指していきたいものである。
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