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【漫画】清少納言ってどんな人? ー 離婚・再婚、宮仕え! ー

日本最古の随筆『枕草子』の作者、清少納言。
『枕草子』執筆に至るまで、彼女はどんな人生を歩んでいたのでしょうか?

紫式部のライバルと言われることも多い清少納言。
ですが、清少納言は993〜1000年頃、紫式部は1006、7年頃〜と、2人が宮中に出仕していた時期は異なり、実際には面識はなかったのではと言われています。

しかしそうは言ってもこの2人の才女に共通点が多いのも事実。『枕草子』が生まれる以前の清少納言の人生を見ていきましょう。


下級貴族の家に生まれ身分相応の結婚を

清少納言は966年頃、和歌の名手・清原元輔のもとに生まれます。
この父・清原元輔は出世が遅く、60歳を過ぎてからようやく従五位下の位を賜ったという人物で、一家は長らく下級貴族の身に甘んじておりました。
しかし清少納言は父・元輔が58歳の頃生まれ、物心つく頃には父は既に受領になっていたため、中級貴族の娘として育ったと思われます。

ここで「中級貴族の娘」というと紫式部と同じように聞こえますが、実際は家格にもう少し開きがありました。

紫式部は、彼女の父こそ中級階級ですが、血筋としては名門・藤原北家の流れを汲んでいます。実際、曽祖父の兼輔や定方はそれぞれ中納言、右大臣と政治の中枢に及ぶ位まで出世しました。
特に父方の曽祖父・藤原兼輔は堤邸と呼ばれた自宅に紀貫之や清原深養父ふかやぶ(清少納言の曽祖父!)ら歌人を招きサロンを開くような人物で、紫式部は曽祖父から受け継いだこの屋敷で生まれ育ちます。
彼女の親戚には、後に藤原道長の妻になる源倫子や、皇族の具平ともひら親王など上流の人々もおり…没落してしまった自分の身の上を嘆かずにはいられないような環境に育ったと言えそうです。

それに対し清少納言はどうでしょう。

清少納言も同じ受領階級に生まれ、曽祖父・深養父、父・元輔ら和歌の名手の系譜を継いでいます。しかし彼女の家系からは政治の中枢に関わるような人物は出ておらず、そこに「没落感」はないのです。

父の周防守任命に伴い、子ども時代を田舎で過ごした清少納言は、981年頃、橘則光と結婚します。則光は後に陸奥守などを務めたことから、清原家と同じくらいの家格の出身で、年齢も清少納言の一つ上。
清少納言はおそらく、12歳で京に戻り、裳着(当時の女性の成人の儀式)、そして結婚と、順調に人生のステップを重ねていったのでしょう。


当時の婚姻制度と清少納言の結婚の謎

ところが夫・橘則光とはあまりうまくいかなかったらしく、2人は別れてしまいます。その後、清少納言は摂津守・藤原棟世むねよという20歳以上年上の人物と再婚し、娘・小馬命婦こまのみょうぶをもうけるのです。

しかしこの離婚・再婚がいつどのように行われたのか、はっきりとわかっておりません。

平安時代の正式な結婚というのは両家の合意のもと行われます。
妻の父親が、婿となる人物を家に招き入れ、3日連続通いがあればめでたく結婚成立というわけです。
当時は夫が妻の家に通う「妻問婚」ですから、夫の通いがなくなれば2人の関係は解消されてしまいます。これを「夜離よがれ」「床去り」などと言うのですが(この悲しみから多くの歌や物語が生まれました)、これがそのまま現代の離婚にあたるかはちょっと疑問です。

律令制では、夫が妻と離婚したい場合は、妻側に原因があれば祖父母や父母に伝え別れることができたようです。
では妻のほうが夫と別れたい場合はどうなのかというと、夫が逃亡した場合などに、妻の家から離婚を申し入れることができた様子。再婚についても「夫が他国に行き、5年間(子どもがいない場合は3年間)帰らない場合や、夫が逃亡し、5年間(子どもがいない場合は2年間)出てこない場合は再婚できる」とあります。

つまり、どんなに夫との仲が冷え切っていても、夫の消息がはっきりしていたり、時々手紙があったりすれば、基本的には妻側からの離婚は成立しないし、再婚もできないというわけです。

清少納言に話を戻しましょう。

『枕草子』第84段「里へまかでたるに…」に橘則光のことが書かれているのですが、そこでは彼との別れについて次のように述べています。

さて、かうぶり得て、遠江の介といひしかば、にくくてこそやみにしか。
(その後昇官して遠江の介になり、縁も切れてしまった。)

清少納言『枕草子』第84段
現代語訳は大庭みな子

橘則光が遠江の介に任官されたのは998年。上に紹介した律令制にならえば、その後5年間(2人の間には子どもがいたので)便りがなければ離婚が成立し、清少納言も再婚できるようになります。
ここから、清少納言が藤原棟世と再婚したのは1003年以降、つまり中宮・定子が亡くなり女房を辞してからであるという説が導き出せるのです。

ところがこの説には穴があり…。

清少納言と藤原棟世の間には小馬命婦という娘がいるのですが、彼女は1008年頃に皇后・彰子(清少納言が仕えた定子のライバル!)のもとに出仕しているというのです。
清少納言の再婚が1003年頃とすると、小馬命婦はわずか5歳で女房となったことになってしまい、さすがにこれは早すぎます。

そこで「小馬命婦1008年出仕」を基準に逆算して考えると、993年の清少納言の出仕前に、既に最初の夫・橘則光と別れ、再婚していたという説が浮かぶのです。


最初の夫・橘則光との関係と『枕草子』

ところが『枕草子』では藤原棟世については一切触れられず、別れたはずの橘則光が清少納言と「せうと」「妹」と呼び合う公認の仲として幾度か登場します。

『枕草子』第82段の「草の庵」のエピソードでは、藤原斉信ただのぶが送った謎かけのような文に清少納言が見事な返しをするのですが…その文を見た殿上人たちが、橘則光を「せうと、こち来、これ聞け」と呼んでいます。
皆が清少納言を褒めるのを誇らしく思った則光は、彼女の部屋を訪ね「自分の出世よりうれしい」と伝えるのでした。

則光本人は歌の才がない者として描かれていますが、それでも彼の善良で皆に愛される人柄や清少納言との気さくな関係が窺える話です。

このとき橘則光と清少納言はどのような関係にあったのでしょう?
既に別れた後で友人や本当の兄妹のようなさっぱりとした間柄だったのか、それともまだ夫婦関係が続いていたのか、はたまた一度別れたものの宮中で再燃したのか…真実はわかりません。
『枕草子』には他にも多くの男性たちとの交流が描かれていますが、清少納言と彼らが実際にどういう関係だったのかは読み手によって解釈が分かれるところです。

元々上流階級とはあまり縁のない身分に生まれ育った清少納言。彼女が華やかな宮廷生活で何を思い、その奥にどんな感情を抱いたのか…じっくりと読んでいきたいと思います。


【参考】

紫式部著、山本淳子編(2009)『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫
大庭みな子著(2014)『現代語訳 枕草子』
吉門裕監修・文(2024)「紫式部と『源氏物語』の真実」『歴史道 完全保存版 藤原史 1300年の映画の謎』朝日新聞出版
※律令制における婚姻制度については、レファレンス協同データベースを参照しました。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000249283

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000101302


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