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【漫画】紫式部ってどんな人!? ー 無職の父と遅い結婚 ー

言わずと知れた『源氏物語』の作者・紫式部。あまり知られていない彼女の前半生をご紹介したいと思います…!


ところで、父親が長年無職だったと聞くと「その間一体どうやって暮らしていたの!?」ということが気になりませんか?
当時の紫式部の暮らしぶりを知るために、父・藤原為時の経歴を少し詳しく見て見ましょう。

無職の父との暮らしぶり

為時は文章生もんじょうしょう(当時の役人養成機関の学生)として紀伝道を学んだ、歴史と漢文学のエキスパート。
紫式部が生まれる前の968年、播磨権少掾はりまごんのしょうじょうに任じられ官位を与えられます(官位は恐らく従七位上…?)。
円融天皇の時代の977年、まだ東宮だった後の花山天皇の御読書始において副侍読という重要な役割を務め、その縁で、花山天皇の即位後、六位蔵人や式部丞に任じられたという人物です。

式部丞は官位相当制でいうと従五位下。天皇の生活空間である清涼殿に昇ることの許された「殿上人」の中では一番低い位でしたが、それでも為時の身分としては最高位の役職です。
ここから中級貴族の仲間入り、というわけで、お給料が出るし、従者もつけてもらえます…!

といっても当時は貨幣経済ではないので現物支給。もらえるのは田地(位田)や布など(位禄)です。それでも為時の官位・従五位では現代の貨幣価値に換算して1540万円ほどの(!)年収があったと考えられているのです。

その後、花山天皇の退位とともに官位を辞すのですが、この無職の期間、収入がなかったかというとそうでもなく…散位の状態でも位禄はあったそうです。つまり官職についてはいないけれど、以前の位に応じたお給料は出ていたようで…。
しかも為時は、文人としての名声が保たれていたのか、この間も宮中の宴に招かれたりしています。
曽祖父・藤原兼輔の遺した邸宅で、娘や息子に教育を授ける時間の余裕もあったのかもしれません。(ちなみに曽祖父・藤原兼輔は中納言まで昇り、現在の京都市上京区にあるこの家で紀貫之ら歌人を支援していたという人物です。)
こうしたことから、父・為時の無職の10年間は、見る角度によっては中々優雅な日々のようにも思えてしまうのです。

父の越前守任命と紫式部の結婚

しかし、たとえ生活に問題がなかったとしても、当時の貴族の階級社会で官職についていないというのは相当肩身が狭かったことでしょう。
紫式部は当時としてはかなり遅い結婚だったのですが、そのことにもこの辺りの事情が影響していたと思われます。

当時は女性にも相続権があり、結婚後、夫の生活の面倒を見るのも生まれた子どもを育てるのも妻の実家の役割でした。夫にとっては妻の父親の社会的立場というのは非常に重要だったのです。
年頃の娘たちを抱えた父・為時は(紫式部には姉がいたと言われています)、それ相応の仕事を望み、焦る気持ちもあったのでしょう。

ここでようやく、国司に任ずるという除目が出ます!

ところが、10年ぶりの任官に喜んだのも束の間、振り当てられた国が淡路だったため、為時はがっかりしてしまいました。
当時、諸国はその国力によって大国・中国・小国・下国の4段階に分けられており、淡路国は最も低い下国でした。官位相当表によると下国の守は従六位下に相当するので、以前より位も下がってしまうわけですね。

そこで為時は、一条天皇に申文を送り、任国替えを願います。その際に添えた漢詩が次のようなもの。

苦学寒夜 紅涙霑襟 除目後朝 蒼天在眼

(自分は凍えるような夜も一心に勉強をしてまいりましたのに、除目で見ると、こんな下国にやられるとは。私の努力や才能が何一つ認められなかったので、今朝はそれを見て悲観して泣いております。)

現代語訳・瀬戸内寂聴

これを見た一条天皇は、このような学才のある者をなぜ認めてやれなかったのかと恥入り、食事も喉を通らない状態になってしまいます。
そこで一計を案じたのが、当時政治の実権を握ったばかりの藤原道長です。
道長は、除目の日からわずか3日という早業で、大国・越前守に任じられていた源国盛と任国を交換させたのでした。

為時にとっては朗報でしょうが、気の毒なのは源国盛のほうです。彼は名門貴族の出身でこれまで大国・上国の国司を歴任してきた人物。官位は従四位上で、おまけに藤原道長の乳兄弟でもありました。
何の落ち度もない彼としはショックで仕方なく、ついには病気になってしまいます。秋の除目で大国・播磨に国替えとなりますが、時既に遅し、そのまま亡くなってしまうのです。

裏でこのような経緯があったにせよ、めでたく越前守に任ぜられた藤原為時。娘の紫式部も一緒に越前へ赴きました。
この越前下向の行列は数十人にも及ぶ使用人たちを伴ったものだったらしく、やはり為時には当時既にそれなりの経済的基盤があったことが想像できるのです。

紫式部は越前下向の1年半後、藤原宣孝と結婚しますが、このとき彼女は27歳前後。夫の宣孝は親子ほど歳の離れた人物で、しかも妻子持ちです。
一見すると婚期を逃した末の…というふうにも見えますが、当人たちは仲が良く、幸せな日々を送っていたようで…。紫式部にとっても、父・為時にとっても、ようやく訪れた春だったと言えるのかもしれません。


【参考】
瀬戸内寂聴(2008)『寂聴源氏塾』集英社文庫
紫式部著、山本淳子編(2009)『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫
松井美緒・文、佐多芳彦監修(2023)「『源氏物語』をより楽しむための平安時代基礎知識」『東京人 2024年2月号』都市出版株式会社



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