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【漫画】平安時代の華!?五節の舞って何のこと? ー 権威と出世と舞う少女 ー

古典紹介シリーズ第3弾!今回は、王朝文学で頻出の五節の舞についてご紹介いたします。


現在でも天皇即位の際に披露される五節の舞。この行事が最も華やかに賑々しく行われていたのは平安時代でありました。

しかし、雅で華やかな世界の裏で複雑な謀が渦巻いているのもまた平安時代。五節の舞も決して例外ではありません。そこには、当時の貴族社会における政治的調略や女性の立場の難しさが見え隠れしているのです。


華やかで注目を集めた五節の舞

五節の舞は、一年の収穫を祝う宮中行事、新嘗祭しんじょうさい(「にいなめさい/にいなめのまつり」とも読む。天皇即位の年は大嘗祭だいじょうさい「おおなめまつり/おおにえのまつり」)に合わせて行われる舞踊です。
新嘗祭の翌日に開かれる豊明節会とよあかりのせちえという宴の席で披露される、非常に華やかな催しでした。

舞姫の人数は4人(大嘗祭の年は5人)。公卿の娘から2人、受領・殿上人の娘から2人、10代前半の年若い少女が選ばれます。
さらに舞姫1人につき童女わらわ2人、下仕えの少女2人、その他世話係の女房らもつくので、少なくとも24〜30名以上の少女たちが、それぞれに意匠を凝らした姿で催事に臨むことになるのです…!

彼女たちの出番も、1日だけではありません。
舞の本番は新嘗祭の翌日、豊明節会の日なのですが、その3日前から、次のような日程でリハーサルが行われました。

1日目(丑の日)「長台の試」…常寧殿で、長台の中の天皇を前に舞うリハーサル
2日目(寅の日)「御前の試」…清涼殿で、天皇などを前に舞うリハーサル
3日目(卯の日 ※新嘗祭当日)「童女御覧」…舞姫に付き添う童女と下仕えが天皇に謁見
4日目(辰の日)「豊明節会」…神に新嘗を捧げ酒宴を開き、舞姫が舞う本番

※なお「丑の日」、「寅の日」などは十干十二支を当てはめた、当時の日にちの表し方。新嘗祭は11月の中の卯の日に行われた。

紫式部著・山本淳子編
『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 紫式部日記』(2009)
p.138(一部加変)

このスケジュールからもわかるように、リハーサルと言っても天皇の前で踊るわけですから、これはもう本番と同じです。

歴史的な史料とは異なりますが、『源氏物語』でも第21帖「少女おとめ」で五節の舞が描かれています。
京都にある風俗博物館では、『源氏物語』の世界が1/4の縮尺模型で再現されているのですが、以前そこで五節の舞が取り上げられたことがありました。
それによると、舞姫たちは2度のリハーサルと本番でそれぞれ衣装を替えていたことがわかります。確かに、天皇は同じ舞を3度も見るわけですから、その度に衣装が異なるほうが楽しみも増しますよね。

天皇や皇族らしか見ることの許されていなかったリハーサルの日も、ちょっとでも舞姫たちの姿を見たいと覗き見する者もいたようで…
そうしたことからも、この行事がいかに華やかで、人々に注目されていたか想像できるでしょう。


舞姫たちのプレッシャー

このように非常に目立つ舞姫たち。
直接天皇にお目にかかれることもあり、舞姫に選ばれることは大変名誉なことでした。舞姫を務めたあとそのまま天皇に召され后になった者もいたと言われており、寵愛を受ける(つまりは出世を遂げる)チャンスでもあったわけですね。

しかし平安時代中頃には、高貴な女性が人前に姿を見せることを良しとしない風潮が広まっており、舞姫の役目も避けられるようになりました。

平安貴族の女性たちにとって、男性に見初められ良い縁組を得ることは非常に重要でした。当時の貴族社会で女性一人で生計を立てることは到底不可能だったからです。(宮中への出仕という選択もありましたが、これには父親など後見となる人物が必要だったのではないかと思います)
しかし、男性と接点を持とうにも、自分から声をかけることも、表に姿を現すことも禁じられていたため待つしかない。
そのような状況では自然と、「評判」というものが重要になってきます。

五節の舞姫のような目立つ役目を引き受け、良い評判が得られれば良いでしょう。天皇に見初められるとまでいかなくとも、他の男性から声がかかるかもしれません。
しかしもし、悪い評判が立ってしまったら…?
舞姫になることでどの家の者かは周囲に知られてしまっています。舞姫として何か粗相をしてしまったら…その娘の将来の縁組は絶望的と言えるかもしれません。

舞姫を引き受けるということは、大きなリスクでもあったのです。

公卿など身分の高い家では、このようなリスクを避けるため実の娘を舞姫に出すことはせず、自分より身分の低い家から代わりの者を立てるようになりました。
『源氏物語』で光源氏が自分の乳兄弟の惟光にしたように、部下に娘を差し出すよう命じるということが行われていたわけです。

そうして選ばれた舞姫たちはおそらく皆、中流貴族の娘で、本来であれば天皇の前に出ることのないような、不慣れな者たちだったと思われます。
けれど、さほど身分は高くないとい言ってもやはり貴族の姫ですから、家の中では一目に触れないよう大切に育てられていたはず。それがいきなり公衆の面前に晒されるわけですから大変です。
天皇や公卿たちの前で失敗は許されない。だけど酒の席だから下世話な視線も飛んでくるし、舞姫どうし比較される。

紫式部も日記に、

…(中略)…歩み並びつつ出で来たるはあいなく胸つぶれて、いとほしくこそあれ。…ただかくくもりなき昼中に、扇もはかばかしくも持たせず、そこらの君達に立ちまじりたるに、さてもありぬべき身のほど、心もちゐといひながら、人に劣らじと争ふ心地も、いかに臆すらむと、あいなくかたはらいたきぞ、かたくなしきや。

(…(中略)…童女たちが並んで歩み出てくるのを見たらただもう胸がいっぱいになって、見ているのがつらくなってしまった。…私のようなものはただ、こんなにも明るい昼日中に、顔を隠す扇すらもちゃんと持たされず、沢山の公達も混じる見物人の前で、もちろん童女は人に見られるのが役割だし覚悟もして来ているとはいいながら、負けん気もどれほど怖気づいているだろうかと、人事ながら無性に心が痛んでしまって…本当に偏屈な私だこと。)

『紫式部日記』より
現代語訳は山本淳子

と書き、こうした状況に置かれた少女たちに同情を示すほどなのです。


舞姫を出す家の政治的野心と少女たちの"競演"

大変だったのは少女たちだけではありません。舞姫を出す家でも準備におおわらわでした。
舞姫を差し出すことで天皇の外戚になろうとまでの目論見はなくとも(古くはそうした狙いで舞姫を出すこともあったようですが)、舞姫を美しく調えることで自らの権勢を示したいという思惑はあったことでしょう。

舞姫を出すにあたってまず重要なのが人選です。
風俗博物館の『源氏物語』の童女選び・下仕え選びの展示を見ると、思い思いに着飾った少女たちを大勢集め、オーディションのようなことをして童女や下仕えを選んでいる様子が窺えます。

人が決まったら、次は衣装。舞姫、童女、下仕え、それからお付きの女房に至るまで気品あふれ美しく見えるようにそろえます。
それから内裏に参上する際の牛車も、それを引く係の者も必要。
舞姫たちが出番を待つ間過ごす「五節の所」という局も設営しなければならず…となればそこに置く几帳など諸々の道具もいるはずです。

舞姫に舞を指導する人物を雇い、本番まで稽古をつけてもらわなくてはなりませんし、もしかしたら童女たちに行儀作法を教える人も必要かも…

これらのこと全て特別に用意するとなると、その費用は相当なものでしょう。
逆に言えば、細部まで気を配り全てを美しく調えることは、舞姫を出す者のセンスや財力を見せつけることになるわけで…
清少納言も『枕草子』で、主人である皇后・定子が出した舞姫や童女を褒めたたえることで間接的に定子を讃美していたのでした。

五節の舞の背後に「権力の誇示」という目的があるならば、そこには当然競争意識が芽生えます。
「4人(もしくは5人)の舞姫による演舞」と聞くと、私たちはつい息のあった協演を想像してしまいますが、実際には競演といったほうが適切かもしれません。

各家がそれぞれ競い合うようにして趣向を凝らすわけですから、当然舞姫たちの衣装はバラバラだろうし(むしろお揃いだったのは同じ家の舞姫と童女たちのほうでしょう)、舞姫たちが互いに顔を合わせることも考えにくい。
当日までそれぞれ自分の家で練習を重ね、天皇の前で踊る「リハーサル」で初めて他の舞姫たちと一緒に踊った、というのが実状ではないでしょうか。

しかも当日側に仕える者たちも、日頃から慣れ親しんだ侍女ではなく、この日のために新たに選ばれた見知らぬ者たちである可能性が高い。

このように一つ一つ見ていくと舞姫たちの孤独な立場が想像されて、緊張で倒れてしまう者がいたというのも無理のないことと思うのです。

それにしても、雅で華やかな世界の裏に見え隠れする、政治的な思惑や貴族社会で生き抜くことの難しさ…。五節の舞には平安時代の貴族社会の光と闇が凝縮されていると言えるのかもしれません。


【参考】

紫式部著、山本淳子編(2009)『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫
川村裕子著、早川圭子絵(2022)『はじめての王朝文化辞典』


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今後の記事はこちらにまとめていく予定です。


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