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【読書ノート】37「国際政治 改版 恐怖と希望」高坂正堯

著者は京大教授。この本は1966年に出版された国際政治の名著でロングセラー。50年以上前の作品であるが現在でも十分に参考になる内容。また、平易な言葉で書かれているので読みやすい。国際政治に興味のある方は一度は読むことをお勧め。
 
以下、簡単に抜粋と要約と感想

1)第一次世界大戦前後の国際情勢の変化

第一次世界大戦前:

  • 国際政治は力と利益の考慮を基本原則

  • 普遍的な秩序は求められず、勢力均衡が与える不完全な秩序に満足

第一次世界大戦後:

  • アメリカ・ソ連は権力政治を否定

  • より確固たる秩序が求められるようになる。⇒ 秩序を求めて権力闘争が行われることになる。⇒ いかなる平和を求めるかという形で権力闘争が行われている。

  • 国際政治が平和のもとに語られるようになる。=平和外交のイデオロギー ⇒ しかし権力闘争が無くなったわけではない。 ⇒ 日本の外相幣原喜重郎は理解できず。

日本の政治家も国民も、平和の志向とイデオロギーという二つの要因が加えられることによって大きく変わった国際政治を正しくとらえる想定を持っていなかった。それが国論の分裂を生み、「複雑怪奇」という言葉を生んだのである。 そしてその欠点は、今日もなお存在し続けているのではないだろうか。少なくとも、第一次世界大戦後に始まった新しい国際政治の状況は今日も続いている。

P10-11

第一次世界大戦後、国際社会では平和が大きな課題となり、1921年から22年まで史上初の軍縮会議であるワシントン会議が開催された。ここでの「海軍軍備制限に関する条約」「中国に関する九国条約」「四国条約」などの取り決めは、大戦後のアジア太平洋地域における「ワシントン体制」の基盤となった。外相幣原喜重郎はこのワシントン体制に沿った対英米協調を基本とした国際協調,経済外交優先,中国内政不干渉を3本柱とする「協調外交」を展開したが、筆者はこの幣原の協調外交を否定している。

19世紀に始まる工業発達:
より大きな破壊兵器 & 大衆を兵士として全国民を動員可能
⇒ 多くの死傷者 ⇒ 勝利者にとってその犠牲はその果実よりもはるかに大きい。

近代初期の思想家たちは、国家と国家の間の争いで国家が致命的な打撃を受けることはないと考え、それによって勢力均衡体系を正当化していた。いまやその前提が崩れたのである。

P35

その第一は、工業化に基づくドイツの統一と強大化が、それまでヨーロッパ大陸において成立していた勢力均衡を破壊したことである。 ドイツの統一と強大化は、鉄道の発達によって代表される工業化の進展を離れては考えられない。・・・19世紀の前半、ドイツは数多くの諸侯が分離する国家であった。それが19世紀の後半に統一されえたのは、鉄道が発達し、ドイツ内の経済交流が盛んに行われたからである。

P86

第一次世界大戦後の平和志向は、軍事テクノロジーの発達&ドイツ強大化が戦前の勢力均衡体系を破壊したことに起因していると著者は分析。
ドイツの統一と強大化に鉄道網の発展が関連していたことは初めて知った。現在、人口世界一になりつつあるインドは急ピッチで国家の弱点である鉄道網の整備を行っているが、これは将来インドの強大化にどれくらい貢献するのか興味深い。

2)世界政府と国際法による平和について

こうして、ルソーとカントは強制力を持った国際法による平和が不可能であるだけではなく、望ましくない事を、二つの理由から主張した。その一つは当然それを樹立することの試みが、実際には一つの強国による政府という形をとることである。もう一つの理由はそうした秩序はたとえ実現されても、法の支配ではなく、かえって無政府状態を招くということである。そして、これは一見別々のことを言っているように見えるけれども、 よく考えてみると、結局一つの論点に帰着する。すなわち国際社会における秩序は、ただ単に力を一箇所に集めることによって得られるような簡単なものではないということである。

はじめに述べたように 、すべての秩序は力の体型であると同時に価値の体系がある。われわれの国家にしても、それは単に中央権力のおよぶ範囲を言うわけではない。国民が基本的な価値体系を共有しているからこそ、そこに秩序が成立しているのである。それなしに力だけがおよんでも、それはカントの言うように専制になるか、または無政府状態になってしまう。人々は共通の行動様式と価値体系という目に見えない糸によって結ばれて初めて、国家の制度を構成することができるのである。しかし、共通の価値体系が育ちさえすれば、それで秩序ができるわけではない。やはり権力による強制がなくてはならない。正確に言えば、権力による強制の支えがなければ共通の価値体系も育たない。

・・・ところが、国際社会にはその基礎となるべき価値体系は存在していないのである。そこには各国のそれぞれ異なった価値体系が存在する。国際社会には複数個の力が並立しているだけではなく、そこには複数個の価値体系すなわち複数個の正義が並立しているのである。そうした状況においては、力を集中することだけを試みても、決して成功しない。共通の正義の概念によって裏づけられていない力の集中は、例え実現されたとしても、ある正義による他の正義の支配になり、したがって少なくとも支配される正義の側から見れば専制ということになってしまうのである。

P128-130

筆者はルソーとカントを引用して国際法や世界統一政府による平和樹立の可能性を否定している。実際、現在国際社会は主権国家による「無政府状態」(国際法が機能していない)と化しているが、仮に世界政府が出来ても「専制」となり機能しないと言う。その原因を「国際社会にはその基礎となるべき価値体系の欠如」にあるとしている。
 
国民国家は「国民が基本的な価値体系を共有している」から秩序が成立しているという筆者の考えは、ベネティクト・アンダーソンの「想像の共同体」で述べられた説明(「想像の共同体」(=国民国家)の根源には、ある一定地域で共通する言語が重要な役割を果す。つまり印刷物や出版物により出版語を読むことを通じて大きな共同体の一員であることを感じる)を彷彿とする。

ウクライナ戦争や中国の膨張、タリバンによるアフガニスタン制圧などのニュースを目にしていると、欧米とそれに付随する日本などの「民主主義と自由な社会」といった価値観と相容れることのない価値体系が並立(=「複数個の正義が並立」)している。どのように人類全体の平和を確立していくかは今後も大きな課題である。
 

3)国連の意味

こうして、理論的検討も現実の研究もともに、強制力を持つ国際機構を作ろうとすることが不可能でもあり、望ましくもないことを示している。 そして、現実に国際機構は異なる方向において発達してきた。・・・ 現在の国際連合は決して無力な存在ではない。しかしその力は、連合憲章の起草者たちの考えたように、強制力から生まれているのではないのである。 国際連合の力とは一体何なのだろうか。

一般に、国際連合は安全保障理事会を中心とした強制力を持つ機構としては発展しなかった代わりに、総会を中心とする国際世論が形成されるフォーラムとして成長したということが言われる。そして、それは決して間違った見方ではない。

P137-139

おそらくアメリカとソ連が、その巨大な力にも関わらず、国際世論に彼なりの敬意を払ってきたことの基本的な理由は、国際世論による非難が、権力政治の上から見て大きな損失であるという事情にあるだろう。こうして、我々は現在の権力政治が過去のそれといかに変わったものであるかを問題にしなくてはならない。それはまた、国際連合の意味をより明確にするのを助けてくれるだろう。

P151

こうして過去の記録は、国際連合が紛争を解決することはできず、それを局地化し、中立化することができるだけであることを示している。紛争の解決を狙った朝鮮における努力は失敗し、目的を限定したスエズにおける努力は成功した。 国際連合にできることはこの機能を活用することしかない。現在の国際連合の中心機能出るUNプレゼンスによる防止外交は、こうした認識の上に立ち、紛争を局地化する国際連合の能力を、より広く、そしてできるだけ先制的に、用いようというものである。

P170

国際世論で思い出したのが、2015年の国連サミットで採択されたSDGs(持続可能な開発目標)はSDGs の17のゴール・169のターゲットを定めたが、「SDGsは強制力のない目標であるが、賛同するものが増えることで、それが社会的な規範となり、国際的な規範となっていく。国連が本来持っているのは、このような規範構築へ向けた国際世論形成能力である。」(「SDGs(持続可能な開発目標)」蟹江憲史)ということである。国連は現在でも国際世論が形成されるフォーラムとして機能していると言える。また、国連が(特に5大国に対して)強制力を持たず、紛争の解決が出来ないというのは現在も同じ。(イラク戦争、ウクライナ戦争など)

4) 現実への対処

これらの規定(国境の規定と戦争法規)は強制力によって保証されてはいなかった。しかし、その規程を破ることで法外な利益を受け取ることができるならばともかく、かえって損害を受けるような場合には、それは各国家によって守られる可能性が強かった。したがって各国家は、それを行動の準則とすることができたのであった。

P194

こうして国際社会における混乱状態に直面した場合、人々の態度は二つに分かれる。その一つは、こうした混乱状態を直接になおそうとするものである。この考え方はある大国の力と結びつかない時には、国際連合や国際法を強化しようという考えになる。しかし、国際社会の分権的性格がそういう解決方法を管理しているのである。 国際連合の力を増大しようという考え方が、いかに不可能であり、望ましい ものでもないかはすでに述べた。その議論は国際法についてもそのまま適用することができる。

国際法は強制力によって裏付けられていないから、各国が一般的に承認している原則以上のものを作ることはできないし、また、作っても破られることが確実なのである。ルソーの言葉を借りれば、 それは「ありえない」計画なのである。逆に大国の力と結びつく場合にはあり得る計画となる。しかしそれは当然すでに述べたように現代の十字軍戦争を生み出してしまうのである。

P197

ここでも筆者は繰り返し国際社会の分権的性格ゆえに国連や国際法の強化を否定している。国際社会は現在混乱状態に陥っているが、これは国民国家における軍隊や警察などの「暴力装置」(マックス・ウェーバー)を国際社会が所有していないことに起因している。(そのため大国の暴走は止められない、核兵器削減が出来ない、紛争は長期化する。)
 
私は世界政府はともかく、何らかの強制力によって裏付けられた国際法の整備(もし可能であれば)が今後の人類の課題ではないかと考えているが、これはルワンダ虐殺後に提唱された「保護する義務」の概念などが、その取り掛かりにあたるのではないだろうか。(ただし「保護する義務」は現在まるで機能していない。)「強制力により裏付けられた国際法」(もしくは世界政府)によって、世界中の核兵器が必要最小限にまで削減され、きちんと管理される日はやって来るのだろうか。

(2023年2月9日)


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