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【百年ニュース】1921(大正10)10月8日(土) ワシントン会議の随員が追加発表される。石射猪太郎はじめ在ワシントン日本大使館の書記官らが全員随員となったほか,海軍大佐の永野修身らが任命される。全権大使は3名で,米国大使幣原喜重郎,海軍大臣加藤友三郎,徳川家達貴族院議長。

11月11日に開催される予定のワシントン会議への随員が追加発表されました。石射猪太郎はじめ在ワシントン日本大使館の書記官らが全員随員となったほか、海軍大佐の永野修身ながの おさみ(のち海軍大臣、軍令部総長)のちの海軍らが任命されました。全権大使は3名で、米国大使幣原喜重郎、海軍大臣加藤友三郎、徳川家達貴族院議長でした。

ワシントン会議に入るに当たって,わが大使館では幣原喜重郎大使が全権に,その他の館員は,一同全権随員に命ぜられた。会議は11月11日開催ときまり,それまでに加藤友三郎,徳川家達両全権を始め,陸,海,外その他の諸省からの随員が,陸続としてワシントンに参着した。ワシントン一流のホテル・ショーラムが,全権団の宿所としてほとんど借り切られ,全権団事務所には,マサチューセッツ街2000番の手広な借家が手に入った。

ワシントン大使館以外の外務省側随員の主なる顔ぶれは,埴原正直次官(事務総長,のちに全権),松平恆雄欧米局長(のち事務総長),出渕勝次参事官,木村鋭市,杉村陽太郎,斎藤博の諸氏。海軍随員には加藤寛治,山梨勝之進両少将,永野修身,野村吉三郎,上田良武,末次信正の四大佐がおり,陸軍からは田中国重少将が来ていた。また内閣から横田千之助法制局長官が来た。右のほか河上清氏,スタンフォード大学助教授市橋倭氏が招せられて,カリフォルニアからやってきた。なお日本の各大新聞からの特派員も大勢にのぼった。

(中略)わが三全権のうち誰が首席か決まっていなかった。当初は徳川全権が加藤,幣原両全権から首席に立てられたが,名実伴わず,自然加藤,幣原全権が立役者であった。徳川さんはわが全権団内ではなはだ不評判であった。本来骨髄まで貴族的であるのに,強いて外面に平民ぶりを示そうとする表裏の矛盾が,接触するほどの者にすぐ感ぜられて,好感を持たれないのであった。

加藤全権は,およそ不愛想これに過ぐる人はあるまいと思われるのに,来る早々から会議の内外に信頼と名声を博した。新聞は加藤全権に深く魅力を感ずるとさえ報じた。形影相伴うごとく,加藤さんに扈従した市橋助教授は,識見高く容易に人に下らない人であったが,加藤全権には無条件に心服した。加藤(寛)少将のような猛者が,反対意見を立てて食い下がっても ,加藤全権にはてんで歯が立たないのだという噂であった。すべて加藤全権の卓越した人格と,力量の致すところであった。

石射猪太郎『外交官の一生』中公文庫,1986,96-100頁

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永野修身


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