見出し画像

自分の先天性中等度色弱と強近視の人生とは? 電気電子の高校を”苦学”しながら得られた事 

通う高校周辺は”バラックな雰囲気” 学校内は”規律と厳格行動”といったギャップの激しい環境だった

現在、自分の卒業できた高校(自分が通っている当時から、まあまあ名が知られている学校であった)は男女共学となり、制服も違い、雰囲気から全く!違う!
前記事に書いたとおりで”荒れる学校と暴力団などの抗争活発時代”であったが、学校内は”とても厳格な学校”であった。
詰め襟で黒色である事から、校則も”独特のもの”があった。
また「反省房」と呼ばれる部屋も存在し、”問題”を起こした生徒は、朝から夕方まで入れられ、反省文も書かされるようなところも存在した(そこへ入った奴は、ほとんど退学している)。
学校周辺には当時であっても、コンビニも存在していなかったし、町工場と総合病院ぐらいがある以外は、先の大戦後であっても空襲がなかった地域もあり、先の大戦前の昭和時代初期の長屋借家が、たくさん残っていた。
近所は高速鉄道、国鉄時代からの在来線、とある大手私鉄があり、関連施設の車両整備工場などもあった。
ただ学校周辺が”バラック”な雰囲気のため、当時ではタカリ、ユスリなども学校近所にたびたび発生したり、グレた連中による喧嘩や暴力団同志の抗争の延長上で、その近所では発砲事件も何件か発生していた。平成時代になり暴力団等対策法が出来た後、その周辺も”急速に”普通の住宅村化していったようだ。現在では、あの頃のような雰囲気は、あまり感じられない・・・。


文章始めの上の写真は、中学生の技術で作るラジオキット。この写真は自分が8歳の時に、初めてはんだづけを体験し、電子回路を手作りしたAM放送専用ラジオの中身であり、バーアンテナやバリコン(空気コンデンサ)などが、当時のものである。

本当に学習してみたい(モーターや通信技術など)気持ちで入った学校だったが・・・”苦学で極超多忙な生活”だった自分・・・でも、国家資格免許取得、実験、実習(レポートなどが大変だった)、実戦訓練(電気工事関係での専用ケーブル工事関係などの)は、自分なりに大変過ぎるものばかりだった。

ちなみに4年制大学での電気電子科を専攻すれば、ほぼ同じ課程を受ける。これは修士や博士を持つ教員から教えてもらった。
自慢ではないが、もし?この当時から日本にも”飛び級”があったとする!彼らがこう言ってくれた・・・
「なあ?おまえ!ここの授業だけでは、つまんねえだろ?大学や大学院のキャンパスとか?色々なメーカーの開発の部署へ行ってみたいだろ?俺達の事、言ってくれていいから、時間を組んで、御邪魔してこいよ!」
自慢ではないが、彼らは母校の先輩でもある。自分の好奇心や成績、意欲と行動があまりにも強い事がわかっていたらしく・・・さらに上の高等教育や実社会の実践現場を紹介してくれた。

いまだに言える事!

「得手に帆をあげて」

本田宗一郎さんのような台詞は当たっている気がする・・・(その他、松下幸之助さん井深大さん藤澤武夫さん出井伸之さんなど経済界、産業界の大尊敬する人達が”本当の人生の先生であり、大先輩”だね!)

同時に”苦手な分野”もあったが”普通に突破できた事!”が、いまだに自分の励みにもなっているからだ。

担任教員の事・・・3年同じだったが”土地主財産家の坊ちゃん育ちで現代武道の段持ち”といった奴・・・言葉にならんぐらい呆れる存在の一人だっただけ!

それよりも、電気や機械の専門担当の教員の中では”実社会現場から派遣されてきている講師の教えや台詞が、とても説得あり!”だった。だから”初めて実践専門学習の面白さ”が実感できていた気がする。

最後に、改めて自慢とつまらん事と書いておくが・・・
2クラスで、103人は補欠合格も含めて、電気科へは入ったが、卒業時、”本当に卒業できた”のは、そのうちの”たった35人”!
卒業時の成績表では”学年全体で60人”としているが、あとの25人は”仮の卒業”であり、3月末日までに”本卒業”になるのか?どうか?「補習」などを受けていた筈!
また、学年の中で、成績1番から20番の成績の連中(自分は、そこに入っていたから、学費がとても安くなっていた。)の点数差は”1点ずつ!だけだったらしい・・・
(例として、1番の奴が総合得点100点とすると、2番の奴が総合得点99点、3番の奴が98点といって、学業成績以外の生活態度とかを独自に結果をつけ、最後は”5段階”評価で決まっていたそうだ)

3年で卒業は出来たが・・・この後”完全に実社会へ放り出される”!だが”大津波のバブル経済弾けた直後の社会”であった・・・。自分の”本格的な戦争突入”は、ここからが本番!と言えるのである。


今回は、ここでお粗末様!・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?