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自論②⑥:「現とは何かを考える」

これは宗教から学んだものではなく、人から教わったものでもない。

自分が根に持っているオリジナリティそのものであり、この世界でふと思いついた自分の考えである。


「現」とは、「現代」の現である。

しかし、本来の意味はそうではない。

「現」とは、「現れたる」という意味であり、

あまねく宇宙のとある星には、現れたる世界が展開されている。

それは「現人」「現国」「現神」によってユートピアが構築されているのであり、その源にあるものこそ「法」である。


私が過去、宇宙人であったときは、この言葉が使われていた。

「現」とは、人とか、物でないもの。

それは、「お金」(※別世界で"gen"といわれるもの)であったり、霊的なものだったりする。

この目に見えない力であるところのモノ、すなわち、「現」とは、大まかに2つに分けられる。

一つは「人工的なもの」で、もう一つは「自然的なもの」である。

「人工的なもの」とは、山だったり、川だったり、海だったり、雷だったりと、人の手でつくられないモノということになる。

そして、「自然的なもの」とは、「神聖な」であり、単にモノとは言わない。それは、人間人それぞれにある仏性であり、仏神から宿っているのであって、それは「勇気」「愛」「慈悲」「調和」「智慧」などなどである。

この仏神から生み出すエネルギーであるところの「自然的なもの」(ex;勇気,愛,光,真理,生命,‥)と「人工的なもの」(ex;山,空,動物,ブラックホール,分子原子,‥)といったものはあらゆる世界との衝突によって起きる産物であると考えられる。

これを人間界におとせば、「人間摩擦」(激しい人間関係のことを指す)ということになる。


さて、この世界を取り巻く実態には3つに分かれて考えられる。

「人」とは、姿なき思考体としての「霊」と、階級によって個的に別れ出るところの「者」であったりする。

「物」とは、サービスだったり商品だったりするし、ガラクタや廃棄物だったりする。

「現」とは、富つまり物質的金銭だったりするけど、本来は、人工的なものだったり、自然的なものだったりする。


このように、仏神の手で造られた世界は、色取り取りに散りばめられているのである。

そういう意味で、人それぞれに各人に「魂」が宿っているのであって、それは「現」という言葉にすり替えられる。それを糸繋ぎして支え合って守っているのが「法」である。それを法律だったり、真理だったり、鉄則だったりするけども。それを個人に落とし込むと「現法」になり、それが各人に備わっているのであって、それによって個性を発揮しているのである。それは、各人が己の掟を守って生を受けているということになる。

これを学ぶために「現学」があるのであって、現の存在意義を学んでこそ、人間がこの世とあの世とそれ以外の世界で貫いて生活している本当の理由が分かるであろうからだ。

《完》





どうも、丸々です!ァディオ───(`・ω・´)ノ───ス



こんなこと、書いてみました((ヾ(*ゝω・*)ノ☆゜

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では、ばいじゃદ=๑๑( ੭ ε:)੭ु⁾⁾




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