“ビル・ゲイツの妻”が途上国支援に取り組む理由(篠田真貴子)
「篠田真貴子が選ぶすごい洋書!」第8回
“The Moment of Lift” by Melinda Gates 2019年4月出版
『いま、翔び立つとき』 著: メリンダ・ゲイツ 訳:久保 陽子
光文社 2019年11月19日発売
マイクロソフト社創業者にして世界有数の大富豪のビル・ゲイツさんは、2000年に慈善団体を設立しました。財団の名前はビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団。メリンダさんはビル・ゲイツさんの妻です。設立当初、財団名を知って、私は「ふーん、奥さんの名前も入れるのか。税務対策かな……」とぼんやり思っていました。その後、TEDにご夫妻で登壇された動画を見て、初めて彼女の人物像に触れ、「メリンダさん、素晴らしい! 財団名も、ただ名前を冠してるだけじゃなかったのね」と印象を改めました。そして先日、メリンダさんが初めての著書を出版したとSNSで知り、どれどれ……と興味本位でオーディオブックのサンプル音声を聴きましたら、いきなり心をぐっと掴まれ、これは本腰入れて読まなくては、と電子書籍を入手した次第です。
著書のタイトルは“The Moment of Lift: How Empowering Women Changes the World”。「離陸の瞬間:女性を解き放つと世界が変わる理由」といった意味ですね。
本書は、メリンダさんが取り組んで来た途上国支援、なかでも保健(栄養改善や疾病予防)と、女性の社会的地位を向上させる活動について、詳しく説明しています。そうした支援活動がなぜ必要なのか、女性の社会的地位向上と保健はどう関係があるのか。本書は、メリンダさんが活動を通して、これらの課題への理解を深めていく道のりを、一緒にたどるような構成になっていました。ゲイツ財団の仕事と、メリンダさんの生い立ちやビル・ゲイツさんとの夫婦関係などのプライベートが、互いに響き合いながらハーモニーをなしていくようで、私は夢中になって読み進めました。
メリンダさんの仕事とプライベートを共鳴させるベース音は、女性として経験してきた「痛み」であり、痛みに気づき、それを直視して、静かな力に変えていくしなやかな強さです。そして、その「痛み」は東京で暮らす私の中にもある。最貧国で水汲みと炊事だけで1日が終わってしまうような生活をしている女性と、東京で暮らす私の抱える課題が実は地続きであると、私は強く感じました。
保健衛生の本質的改善のため「家族計画」からはじめなければならない理由
ゲイツ財団では、「全ての生命の価値は等しい」との信念のもと、設立初期から、子どもの感染症対策に手探りながら着手しました。メリンダさんは援助の現場に足を運び、なるべく現地の人たちの話を聞いたり、可能ならホームステイしたりして、生の暮らしを肌で感じるようにつとめています。
あるとき、マラウイで、メリンダさんが子どもの予防接種の現場に足を運ぶと、15キロ、20キロ離れた村からお母さんたちが子どもを何人も引き連れ、徒歩でやってきていました。お母さんたちに話を聞くと何人もから「私の注射は?」と尋ねられました。彼女たちが言っているのは、Depo−Proveraという長期的に避妊効果のある注射のことです。「用意してないんですよ」と答えていたメリンダさんですが、ニジェールなど他の国でも聞かれるので、なぜそこまで避妊注射の要望が強いのか、調べていきました。そこで少しずつ分かってきたのは、女性たちが自分でコントロールできる避妊手段がないことの、重い意味合いでした。避妊できないと、自分の意志に反して、家の経済力を超える人数の子どもが、近い間隔で次々に生まれてしまい、子どもたちに十分な栄養や医療、教育を受けさせることが出来ず、貧困の連鎖が続く、という構造です。体が弱いのに妊娠してしまうため、死産も、妊娠が原因となった女性の死亡も多い。逆に女性を中核にした家族計画、保健、教育に投資をすると、社会全体が良くなることが、データでも経験上でも分かってきました。
家族計画が進まない理由は、データを見るだけではなかなか分かりません。例えばマラウイでは、医療機関は避妊対策は十分だとアンケートに回答しますし、実際コンドームが十分に配布されています。それに対してメリンダさんは、現地で女性たちと直接話し、妻が夫にコンドームをつけてほしいと言えば、夫に殴られることを把握していました。コンドームはHIV予防策のイメージがついており、夫の不貞を疑っているか、自分がHIVかもしれないと示唆するようなものだからです。
また、インド中央部のある地域では、女性は、父や夫の許可なく家を離れてはいけないという価値観が根強いそうです。そうした地域でも、子どもの世話をするのは女性です。ゲイツ財団が支援する現地の援助団体が、子どもの保健セミナーを開いても、男性しか集まらない。また、母親が子どもに予防接種を受けさせ、病気の子どもを医師に診せたくても、「俺の飯はどうなるんだ」という父親の一言で出かけられない、といったことが起きてしまう。ましてや避妊の話題などは、女性に届きそうにない。そこでは、地域に密着したコーディネーターたちが伝統的な価値観を尊重しながら、地域の人たちに子どもたちの健康、栄養、教育を改善する機会を作る方法を考えてもらうという、とても細やかで難しいアプローチが必要になります。
このようにしてメリンダさんたちは、途上国の保健衛生改善に貢献するには、医薬品の開発や配布だけでは不十分で、家族計画から着手せねばならないこと、地域ごとの価値観に寄り添うこと、さらにはそれぞれの地域の価値観の中にいる人々が自ら「変わりたい、変えよう」と動き出さない限り本質的改善は実現しないことを深く理解して、支援プログラムとして実践するようになりました。
私はこれらのエピソードを読み、そんな厳しい社会状況があるのかと一つ一つ驚く一方、特に女性の立場については、日本で私の周りで起きている状況との共通点も感じずにはいられませんでした。例えば、一家の稼ぎ手である父親が死亡したり病気になったりして、母親に経済力がないために希望する進学先を諦めたり、卒業に苦労したりした知り合いが、私には何人もいます。今でも日本ではまだ女性のほうが就業率が低く、賃金も男性より25%も低いのです。父子家庭の平均年収は360万円なのに対し、母子家庭は181万円しかありません。女性のほうが経済力が劣るために子どもたちの教育機会が閉ざされる、という点では、世界の最貧国と同じことが起きているわけです。
また、男女の役割の価値観については、数カ月前、ある女性ファッション誌が「『きちんと家のことをやるなら働いてもいいよ』と将来息子がパートナーに言わないために今からできること」という特集を組み、大いに話題になりました。
日本はあらゆる面で、メリンダさんが例に挙げたような最貧層より恵まれていますが、女性の社会的地位や経済力が相対的に低く、それが子どもたちに影響してしまう構造がまだまだあります。最貧層の女性たちと私たちの境遇は、実は地続きなのです。
「内なる声」に耳を傾け、声を挙げはじめた女性たち
ゲイツ財団の支援先に、インド北部にあるPrernaという女子校があります。最下層のカーストの女の子たちを集めた全寮制の学校です。そこに入学したばかりの女の子たちは、誰とも目を合わせず、声が聞き取れないほど小さい。誰にも相手にされず、ひどい扱いを受け続けたからです。この学校では空手を教えています。みんなどんどん強くなり、ある年とうとう全国大会でいくつもメダルを獲得し、日本で国際大会に出場できる子も現れました。狭い伝統社会の底辺に押し込められていた女の子が、自分の力で外国行きを勝ち取り、自分たちを差別せず丁寧に扱ってくれる社会があることを知ったのです。「私にお辞儀をしてくれた!」と。これまで虐げられてきたのは、自分のせいではなく、社会構造に原因があることが彼女たちにも明白になりました。
“Voice” という言葉には、話し声や歌声の「声」のほか、“Find your voice”という言い回しにあるように「心の奥底にある、内なる切実な声」という意味もあります。この学校の女の子たちは、教育を通して自分たちの内なる声に気づき、自分の勇気と周りの支えによってその声を表に出したことでその声と行動が周りに届いて、実際の声量も大きくなっていったのですね。
自分の内なる声に気づき勇気を持って一歩踏み出す最貧国の女性たちに、メリンダさんは大いに刺激され、影響を受けました。メリンダさんも、自分の内なる声に耳を傾け、無意識だった自分の「痛み」を見つめなおすようになったのです。自分がvoiceを持たなかったら、つらい境遇で勇気をもって声を出し始めた女性たちを本当の意味では支えられず、裏切ることになってしまう、と。
メリンダさんが内なる声を向けた先は、夫でありゲイツ財団の共同議長であるビル・ゲイツさんでした。ビルさんは、財団の年次報告の冒頭に掲載する文章を書く仕事を、とても大切にしてきました。2013年初に発表予定の草稿を準備していたビルさんは、文章の中で家族計画についても触れようとしていました。メリンダさんも、女性の課題に主体的に取り組んできています。かなり迷ったものの、メリンダさんは「家族計画の取り組みは、私も深く関わってきたし、私が語ったほうが多くの人たちに届くテーマでもあると思うの。私が書いた方がいいんじゃない?」と提案します。しかしビルさんは「これは僕の文章だから」と、取り合いません。大げんかになりました。お互い殺しあうんじゃないかというほど対立し「これで、もう離婚だと思った」とメリンダさんは回想しています。
結局その年は、ビルさんの文章とは別に、メリンダさんによるコラムが年次報告に掲載されました。翌 2014年は、主要3テーマのうち二つをビルさんが、一つをメリンダさんが執筆しました。そして2015年、とうとう二人の連名による文章が年次報告書に掲載されました。夫であり事業のパートナーであるビルさんの意向に反する声を挙げるまで、メリンダさんは大いに葛藤したのではないでしょうか。でも、葛藤を乗り越えるだけの「内なる声」をもって粘り強く行動したから、最終的にビルさんを説得でき、結果も出せて、仕事上のパートナーとして新たな関係が築けたのでしょう。
「内なる声」は、それを本当に聞いてもらえて、初めて「声」となります。メリンダさんが本書で紹介する女性たちのエピソードは、読んでいてつらい気持ちになるものが少なくありません。それをメリンダさんは、本人が涙ながらに語るのを、現場で聞き続けているのです。
インドである女性に「子どもはあと何人欲しいですか」とメリンダさんが何気なく尋ねたら、長い長い沈黙のあと意を決したように「この子たちをあなたと一緒に連れていってください。私といてもこの子たちに未来はない」と懇願されたことがあるんだそうです。また、別の機会には、教育もお金も身よりもなく、売春で生きていくしかない女性が「自慢の娘が私の職業のせいでいじめに遭い、首を吊った」と語るのをじっときいたんだそうです。私がもし、貧困地域で直接そうした「痛み」を語られたら、本当に「聞ける」だろうか。何か言えるだろうか。とても自信がありません。
「縁辺」に追いやられた人々の「痛み」が社会秩序を刷新する
メリンダさんがつらい状況にある人々の話を聞き続ける理由は何でしょう。遠くから来た部外者である彼女が貧困地域のなかで最も弱い立場にある人たちに、少しでも意味のある存在になろうとするならば、人々の話をよく聞き、同じ景色を見て、痛みを一緒に感じるしかないから、とメリンダさんは書いています。あるインタビューで、メリンダさんは、現場でさまざまな話を聞いたあと、しばらく一人になって自然の中を歩くんだと語っていました。そこで、話を聞いて生まれてくるあらゆる感情ーー怒り、悲しみ、無力感や絶望を素直に出し、味わい尽くすんだそうです。最後に残るのは、その人たちが辛い状況に陥っている理不尽な社会構造に対する悲しみや怒りと、使命感だ、と語っていました。身体能力や思考力を鍛えることができるように、私たちは心も鍛えることができます。メリンダさんのように、自ら心を鍛え続けた人が為せる仕事の大きさや深さに、私は感銘を受けました。
メリンダさんは、『ファクトフルネス』著者のハンス・ロスリングさんに長らく教えを乞うていました。亡くなる前の最後の対話で、ロスリングさんはメリンダさんへ遺言のように「社会の縁辺にいる人々のところに行くんだ。彼らのことを社会が忘れないように。いいね」と涙ながらに伝えたそうです。
何かの慣習や仕組みによって縁辺に押しやられる人々ーー例えば女性、障がい者、貧困層などがいるのは、その社会の中心に「自分と違うものは縁辺に押しやりたい。見たくない」という考えの人々がいて、その人たちが社会秩序を作るからです。縁辺にいる人々が、自分たちの悲しみや痛みの奥にある「内なる声」を聞き合い、その痛みを他の誰かにぶつけることなく「内なる声」に向き合って、手を携えて「声」を出していけば、「中央 vs 縁辺」の構造を作っていた社会秩序自体が刷新される。ガンジー、キング牧師、マンデラ大統領など、暴力に訴えずに社会変革を率いたリーダーたちは、みなそうやってきた。メリンダさんは、ゲイツ財団の活動を通して、自分たちの活動姿勢と意義について、洞察と使命感を深めていったのです。
私たちが日本における様々な課題に関心を持つとき、そして一番身近な社会である私たちの家庭内の課題をまず直視するにも、メリンダさんの経験と洞察は、たくさんのヒントと勇気を与えてくれます。我が事に照らしながら読める一冊でした。
執筆者プロフィール:篠田真貴子 Makiko Shinoda
小学校、高校、大学院の計8年をアメリカで過ごす。主な洋書歴は、小学生時代の「大草原の小さな家」シリーズやJudy Blumeの作品、高校では「緋文字」から「怒りの葡萄」まで米文学を一通り。その後はジェフリー・アーチャーなどのミステリーを経て、現在はノンフィクションとビジネス書好き。
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