パンデミックSF ジャック・ロンドン「赤死病」を毎日訳す

2013年にパンデミックが起き、何十億もの人の命を奪った"赤死病"…

パンデミックSF ジャック・ロンドン「赤死病」を毎日訳す

2013年にパンデミックが起き、何十億もの人の命を奪った"赤死病"。その60年後、唯一の生き残りである男が孫たちに当時の惨禍を語る……。およそ100年前に書かれた未来予想図、ジャック・ロンドンの「赤死病」("The Scarlet Plague")を毎日ひっそりと訳していきます。

記事一覧

ジャック・ロンドン「赤死病」#18

ムール貝はエドウィンの指千本分だったな。つまり四千はムール貝四十個分、そのくらいまで病原菌は拡大できたんだ、顕微鏡さえ使えばな。また時代が下れば、"動画"という方…

ジャック・ロンドン「赤死病」"17

「わしは申し分なく幸せだった。食に関しては言うことなかったからな。食料を自分で採らないわしの手は固くならず、汚れひとつないきれいな体に肌触りのよい衣服を――  …

ジャック・ロンドン「赤死病」#16

 話は少年らの理解の範疇を越えてしまっていた。少年らは老人の話や思考が脇道に逸れても放っておいた。老人の語りはしだいに取り留めのないものになっていった。 「食料…

ジャック・ロンドン「赤死病」#15

「疫病の蔓延が始まったとき、わしはまだ二七歳だった。住んでいたのはここからサンフランシスコ湾を挟んだ向こう側、バークリーという場所だ。エドウィンは憶えとるだろ、…

ジャック・ロンドン「赤死病」#14

「サンフランシスコの人口は四百万、つまり歯四つ分だった」  少年らの目は、百万を表す歯からそれぞれの掌の上のものへと移り、それから百を表す小石、十の砂粒へ動き、…

ジャック・ロンドン「赤死病」#13

第2章  少年から昔話をお願いされた老人はご満悦のようだった。ゴホンと咳払いをして、老人は語りはじめた。 「二、三〇年前であれば、みな興味津々でわしの話を聞きた…

ジャック・ロンドン「赤死病」#12

 少年たちはテキパキと機敏に手を動かした。誰がどの歯を貰うかの熱い話し合いの最中には、みなとにかく早口になった。少年らの単音節の言葉と、短く断続的な文の区切りは…

ジャック・ロンドン「赤死病」#11

 フーフーはうつぶせに寝転び、つま先で砂を掘ってつまらなそうにしていたが、突然声をあげたかと思うと、まず自分のつま先の爪を、それから掘ったばかりの小さな穴を調べ…

ジャック・ロンドン「赤死病」#10

「ねえ、"キョウイク"って何?」エドウィンが口をはさんだ。 「赤を緋色って呼ぶことだよ」ヘアリップは嘲るような調子でそう返し、ついで老人に向き直った。「父さんから…

ジャック・ロンドン「赤死病」#9

「無常の世界は泡のように消え去る」老人は何かの引用らしき言葉をつぶやいた。(訳注:アメリカの作家George Sterlingの詩"The Testimony of the Suns"からの引用)「そう…

ジャック・ロンドン「赤死病」#8

 老人はさらにぺちゃくちゃと喋りつづけていたが、少年たちは無視を決め込んでいた。彼らは老人の長話にはふだんから飽き飽きしていたし、老人の使う言葉の大半は少年たち…

ジャック・ロンドン「赤死病」#7

 たちまち老人の表情に喜びがあふれた。匂いをかぎ、ついでぼそぼそと何か口にし、そしてカニにありついた。喜びのあまり、鼻歌すら漏れ聞こえてきそうだった。しかし少年…

ジャック・ロンドン「赤死病」#6

 カニに対する老人の底抜けの熱意はどこか痛々しくもあった。老いてこわばった手足をなんとか動かして砂の上に腰を落ち着け、焚火の中から大きなムール貝を棒でつついて取…

ジャック・ロンドン「赤死病」#5

 実際には、少年はこのとおりの言葉を発したのではない。むしろそれとは似ても似つかない、喉音性でかつ破裂音が多く、修飾語も少ない言語だった。ただ、老人の喋る言葉と…

ジャック・ロンドン「赤死病」#4

 と、そこでエドウィンは何かを見つけて立ち止まり、弦につがえた矢を放った。立ち止まったのはちょうど道が一瞬途切れている場所だった。盛り土の下を横切っていた昔の水…

ジャック・ロンドン「赤死病」#3

「目が悪くてな」老人はぼそっと言った。「エドウィン、何年の硬貨かちょっと見てくれないかい?」  少年はけらけら笑った。 「ほんとすごい」少年は嬉しそうに声をあげた…

ジャック・ロンドン「赤死病」#18

ムール貝はエドウィンの指千本分だったな。つまり四千はムール貝四十個分、そのくらいまで病原菌は拡大できたんだ、顕微鏡さえ使えばな。また時代が下れば、"動画"という方法で四千倍の病原菌をもう何千倍も大きくできるようになった。こうしてわしらは肉眼では見えないものの形を確認できたわけだ。砂粒をひとつ手にとってみなさい。それを十個に割って、そのうちの一つをまた手にとって、また十個に割ってみなさい。それをまた

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ジャック・ロンドン「赤死病」"17

「わしは申し分なく幸せだった。食に関しては言うことなかったからな。食料を自分で採らないわしの手は固くならず、汚れひとつないきれいな体に肌触りのよい衣服を――
 老人は自らのみすぼらしいヤギ皮を嫌な顔で眺めた。
「あの頃はこんな代物着るなんてありえなかった。奴隷でさえもっとましなのを着ていたからな。そしてわしらは誰よりも清潔だった。毎日顔を洗って、ことあるごとに手を洗っていた。お前らが手を洗うのは川

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ジャック・ロンドン「赤死病」#16

 話は少年らの理解の範疇を越えてしまっていた。少年らは老人の話や思考が脇道に逸れても放っておいた。老人の語りはしだいに取り留めのないものになっていった。
「食料をとってくる者、それは"自由人"という呼び名だった。むろんこれはジョークだ。我々支配階級にあったものが、土地やら機械やら、ありとあるものを所有していたからな。食料をとってくる者はな、いわばわしらの奴隷だったんだ。確保された食料のほぼすべては

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ジャック・ロンドン「赤死病」#15

「疫病の蔓延が始まったとき、わしはまだ二七歳だった。住んでいたのはここからサンフランシスコ湾を挟んだ向こう側、バークリーという場所だ。エドウィンは憶えとるだろ、コントラコスタの山を降りるとき、でかい石造りの建物がたくさんあったのを。わしはあそこで暮らしていたんだ。わしは英文学の教授をしていたからな」
 老人の話のあらかたは、少年らの頭の上をただ通り過ぎていくだけだった。とはいうものの、少年らも少し

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ジャック・ロンドン「赤死病」#14

「サンフランシスコの人口は四百万、つまり歯四つ分だった」
 少年らの目は、百万を表す歯からそれぞれの掌の上のものへと移り、それから百を表す小石、十の砂粒へ動き、最後はエドウィンの指で止まった。ついで今度は反対に単位を増やす順番で目を動かしながら、想像も及ばない数字の大きさを理解しようと努めていた。
「とんでもない数の人だね」ようやくエドウィンが口にした。
「きっとこの浜辺の砂くらいあるぞ。砂粒一つ

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ジャック・ロンドン「赤死病」#13

第2章

 少年から昔話をお願いされた老人はご満悦のようだった。ゴホンと咳払いをして、老人は語りはじめた。
「二、三〇年前であれば、みな興味津々でわしの話を聞きたがったものだ。だが最近は誰も興味を示さな――」
「また始まった!」ヘアリップは不満げに叫んだ。「どうでもいい前置きはいいから大事なとこを話してよ。わくわくする話は? 赤ちゃんじゃないんだからちゃんと話して!」
「黙って聞こうよ」エドウィン

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ジャック・ロンドン「赤死病」#12

 少年たちはテキパキと機敏に手を動かした。誰がどの歯を貰うかの熱い話し合いの最中には、みなとにかく早口になった。少年らの単音節の言葉と、短く断続的な文の区切りは、一つの言語というにはいくぶん難解にすぎるものだったが、とはいえその言葉にはうっすらと文法構造がうかがい知れ、何らかの高等言語における活用のなごりも感じ取れた。少年たちはもとより老人の話す言葉もひどく乱れたもので、もし仮に一言一句そのまま書

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ジャック・ロンドン「赤死病」#11

 フーフーはうつぶせに寝転び、つま先で砂を掘ってつまらなそうにしていたが、突然声をあげたかと思うと、まず自分のつま先の爪を、それから掘ったばかりの小さな穴を調べだした。二人の少年もフーフーに加わって、みなで穴をざっざっと手で掘り進めると、やがて三つの骨が土の中から出てきた。二つは大人の骨、もう一つは成長途中の子供のようだった。老人も腹ばいになって、掘り出された骨をじっと覗き込んだ。
「疫病の犠牲者

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ジャック・ロンドン「赤死病」#10

「ねえ、"キョウイク"って何?」エドウィンが口をはさんだ。
「赤を緋色って呼ぶことだよ」ヘアリップは嘲るような調子でそう返し、ついで老人に向き直った。「父さんから聞いたんだけど、ちなみにそれは父さんの父さんが死ぬ前に言ってたことらしいんだけど、サンタローザ出身のじいさんの奥さんは、からきし駄目な人だったんだってね。赤死病の前はキュウシニンをやってたんでしょ。キュウシニンが何か知らないけど。教えてよ

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ジャック・ロンドン「赤死病」#9

「無常の世界は泡のように消え去る」老人は何かの引用らしき言葉をつぶやいた。(訳注:アメリカの作家George Sterlingの詩"The Testimony of the Suns"からの引用)「そう――消え去るのだ、しかもはかなく。この世の人間があくせく頑張ったところで、それはしょせん泡のようなものにすぎない。人間はこれまで自分たちに有益な動物を家畜とし、反対に無益な動物を絶滅させ、野生の草木

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ジャック・ロンドン「赤死病」#8

 老人はさらにぺちゃくちゃと喋りつづけていたが、少年たちは無視を決め込んでいた。彼らは老人の長話にはふだんから飽き飽きしていたし、老人の使う言葉の大半は少年たちに馴染みのないものだった。おもしろいのは、このとりとめのない老人の独り言には、英語の構文や言い回しに独自の進化が認められるということだった。しかし少年らと面と向かって話す際には、その良さは大方消え、従来のぎこちなく無味乾燥な英語に戻ってしま

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ジャック・ロンドン「赤死病」#7

 たちまち老人の表情に喜びがあふれた。匂いをかぎ、ついでぼそぼそと何か口にし、そしてカニにありついた。喜びのあまり、鼻歌すら漏れ聞こえてきそうだった。しかし少年たちは、老人のこうした姿にまったくといっていいほど興味を示さなかった。しょせんは毎回恒例の見世物にすぎなかったのだ。老人が時折あげる感嘆の声や、何やら発する言葉にも、まるで興味を示さなかった。老人が何を言っているか少年たちには理解できなかっ

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ジャック・ロンドン「赤死病」#6

 カニに対する老人の底抜けの熱意はどこか痛々しくもあった。老いてこわばった手足をなんとか動かして砂の上に腰を落ち着け、焚火の中から大きなムール貝を棒でつついて取り出した。充分に火が入って殻は開き、身はうっすらとピンクに色づいていた。はやくありつきたいと手を震わせながら、親指と人差し指でごちそうをつまみ、口まで持っていった。だが次の瞬間、あまりの熱さに老人は貝の身を口から吐き出してしまった。やけどし

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ジャック・ロンドン「赤死病」#5

 実際には、少年はこのとおりの言葉を発したのではない。むしろそれとは似ても似つかない、喉音性でかつ破裂音が多く、修飾語も少ない言語だった。ただ、老人の喋る言葉とは遠い類縁関係にあるらしく、いっぽう老人の言葉はおおよそ英語といってよかったが、長い年月を経て乱れや崩れが生じたものだった。
「ねえ教えてよ」エドウィンは続けた。「なんでカニのことを『繊細な味』とか言うの? カニはカニでしょ? そんな変なふ

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ジャック・ロンドン「赤死病」#4

 と、そこでエドウィンは何かを見つけて立ち止まり、弦につがえた矢を放った。立ち止まったのはちょうど道が一瞬途切れている場所だった。盛り土の下を横切っていた昔の水路が土を押し流してしまったのだろう、今では小さな川が小道を分断していた。向こう側では線路の一端が突き出ていて、絡まった蔓の隙間から線路がさびているさまが垣間見えた。さらにその奥、茂みのそばに、何が起きたのかわからず震えながら少年を見つめるウ

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ジャック・ロンドン「赤死病」#3

「目が悪くてな」老人はぼそっと言った。「エドウィン、何年の硬貨かちょっと見てくれないかい?」
 少年はけらけら笑った。
「ほんとすごい」少年は嬉しそうに声をあげた。「じいちゃんに言われると、こんなちっちゃい印にも深い意味がある気がしちゃうんだもん」
 老人はいつものように残念そうな顔をしながら、硬貨を取り戻して自分の目に近づけた。
「二〇一二年だと」声の調子が高まり、それから不気味な引き笑いになっ

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