ジャック・ロンドン「赤死病」"17

「わしは申し分なく幸せだった。食に関しては言うことなかったからな。食料を自分で採らないわしの手は固くならず、汚れひとつないきれいな体に肌触りのよい衣服を――
 老人は自らのみすぼらしいヤギ皮を嫌な顔で眺めた。
「あの頃はこんな代物着るなんてありえなかった。奴隷でさえもっとましなのを着ていたからな。そしてわしらは誰よりも清潔だった。毎日顔を洗って、ことあるごとに手を洗っていた。お前らが手を洗うのは川に落ちたときか泳ぐときくらいなもんだろう」
「じいさんも一緒でしょ」とフーフーは老人に言い返した。
「そのとおり、今ではすっかり小汚い老人だ。でも時代のほうが変わったんだ。今日び手を洗う人なんてどこにもいない。石鹸なぞ六〇年も見ていない」
「石鹸とは何かわからんだろうから教えてあげよう。これは赤死病にもつながってくる。体調が悪い、というのはどういうことかわかるだろうな。昔はそのことを"病気"といった。数え切れない種類の病気が、"病原菌"によって引き起こされた。この言葉「病原菌」を覚えておくんだぞ。病原菌はとても小さい。春の森を駆け回った犬にくっつくダニくらいなものだ。こんなに小さいのは病原菌くらいだ、小さすぎて人の目に見えないことだって――」
 フーフーが笑い出した。
「じいちゃん変だよ。目に見えないものについて話すなんてさ。もしほんとに目に見えないならどうやって知ったの? まずそれが訊きたいな、見えないものをどうやったら理解できるの?」
「いい質問だ、とてもいい質問だぞ、フーフー。でもな、ほとんどの病原菌はたしかに目に見えるんだ。昔は顕微鏡や、超顕微鏡というものがあった。目をくっつけて覗き込むと、実際よりも拡大された姿を見せてくれる。顕微鏡なしではまったく目に見えんものもたくさんあったよ。一番性能が良い超顕微鏡なら、病原菌を四千倍に拡大できたものだ。

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