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繰り返す不条理

2022年12月12日(月)午後10時から、NHKでは「映像の世紀 バタフライエフェクト」が、フジテレビでは「エルピス」が放送された。

『映像の世紀 バタフライエフェクト:ナチハンター 「忘却」との闘い』
【1962-1962年 アイヒマン裁判】
第二次世界大戦中、ホロコーストに関与した親衛隊中佐アイヒマンは、ユダヤ人のアウシュビッツへの大量輸送「死の列車」の最終指揮官であったが、戦後アメリカ軍の捕虜収容所から脱走し、偽名を使いアルゼンチンで生き延び、1960年イスラエルへ送還され、1961-1962年エルサレムで裁判にかけられた。
アイヒマンは「上官の命令だった」「抵抗しても無駄だ」「焼け石に水だ 蒸発して終わり」「私たちが生きたあの時代、犯罪が国家によって正当化され、その責任は命令者の側にありました」と弁明して最期まで無罪を主張した。
アイヒマンを追い、捉え、裁判にかけるために尽力したヴィーゼンタールは「アイヒマンを突き止めたことの本来の成果はどこにあったのだろうか。何百万人もの人を殺すためには、何も狂信的で病的ともいえるようなサディズムは必要なく、指導者に対する服従があれば、こと足りる。大規模な大量殺人は社会に適合した人物がいれば可能となることを私たちは初めて知ったのだ」と語った。
アイヒマンの「上官の命令に従っただけ」の主張は認められず、人道に対する罪など15の犯罪で有罪となり絞首刑となった。
【大量殺人の共同実行者】
ユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、第二次世界大戦前にデンマークへ亡命し、1949年西ドイツへ帰国し、「大量殺りくのための機械を操作したものには、たとえ何を行ったにせよ、殺りくに加担したことの責任があります。収容所に所属していたものはみな、大量殺りくに対して責任を負わねばなりません」と述べ、命令の有無にかかわらず大量殺りくに関わったすべての人物の罪を問おうとし、強制収容所で要職ではなかった人物23名を起訴した。バウアーはこの裁判の最中、「地下室クラブ」というテレビ番組(1964.12.)において、「23名の被告は《贖罪の羊》に過ぎません。平時には、良き夫・良き父であったドイツ市民が、アウシュビッツでは平然と残虐行為を行ったのです」と語った。
裁判での生存者の証言として、番組では次の内容が流された。
「16才の男の子がいました。彼は小屋に閉じこめられ、文字通り血の海を泳いだのです。こんな少年でも収容所で何が起きていたのかを知っていました。それなのに、あなたたちは何も知らなかったというのですか」と。
番組のナレーションは「裁判の過程でアウシュビッツの大量殺りくの真実が次々と明らかになっていった」「1965年4月、終身刑から証拠不十分による無罪までの判決が下る」と続ける。
【責任】
戦時中ナチ党員として外務省で働いていた経歴を持つゲオルク・キーシンガーは、1966年、西ドイツ首相に就任した。1939年生まれのドイツ人ベアテは、1968年11月ベルリンでの党大会にて首相を平手打ちし、禁固1年の刑を受ける。そして次の問答が記録された。
議員:「国民が選んだ首相だぞ」
ベアテ:「ヒトラーも国民が選んだのよ」
【ドイツの為政者の言葉】
第6代西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーは、1985年の「連邦議会」で「目を閉じず、耳をふさがずにいた人たちなら、《死の列車》に気づかないはずはありませんでした。(中略)あまりに多くの人たちが、実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのです。(中略)罪の有無・老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けなくてはなりません。過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも盲目となるのです」と述べた。
第8代ドイツ連邦首相メルケルは、2019年アウシュビッツにて「ドイツ連邦共和国はナチス支配下での犯罪の責任を負っていることを認めます。当時何が起きたかを忘れてはなりません。その責任から、平和と国際的秩序を追い求めていくという私たちの義務が生まれるのです」と語る。

『映像の世紀 バタフライエフェクト:ナチハンター 「忘却」との闘い』
制作著作 NHK

『エルピス:少女の秘密と刑事の工作』
岸本「あなたの知りたいに まっすぐ(看板のことば)」
浅川「ごめん本当に」
岸本「ま、しょうがないんじゃないんすかね(後略)。浅川さんも「ニュース8」って番組守んないといけない立場で、真実とかよりもそっちが大事ってことですもんね」
浅川「(前略)真実がどうでもいいなんて、そんなわけないでしょ。ただ現場って本当に一筋縄じゃいかない、複雑なんだよ。でも出来る限りのことはする」
岸本「出来る限りのことはする。みんなそう言いますよね。(中略)出来ないんなら言わなきゃいいのに(後略)」
浅川「だって私だけの番組じゃないんだもん。潰すわけいかないじゃん。みんなそれぞれの生活があって、ぎりぎりのバランスの中で精一杯やってる。私は今そういうスタッフたちに対する責任がある」
岸本「わかってますよ。でも僕が今、そうして浅川さんも大変ですもんねって言って、何か変わります?世界がましになります?浅川さんの気が楽になるだけですよね」
浅川「君は(中略)養わなければいけない家族もいない、経済的な心配もない。だからそんな理想を言ってられるんだよ。でも他の私たちは、そうじゃない。妥協しないといけない時だってあるんだよ」
                           脚本 渡辺あや
  プロデュース 佐野亜裕美
  演出 北野隆

『エルピス:少女の秘密と刑事の工作』
制作著作 8カンテレ

―小説  『20160118』ー
沢山の人に涙を流させてしまった「あの放送」に。
今でもずっと胸に刺さっている。
あの日に、僕は放送作家として、終わった。
(中略)
当日に一部とはいえども急遽生放送にすることは初めてだった。
一言でいうと「ありえない」ことだが、ありえないことを実行しなければならなかった。
(中略)
だが、やるしかなかった。
(中略)
自分たちでやるしかないのだ。

小説「20160118」 鈴木おさむ
『月刊 文藝春秋』202212

 2016年1月18日、犯罪である人権侵害(強制謝罪と擬似葬儀)が、TV番組として制作され、公共の電波に乗せて壮大に放送された。
 あの日、スポンサーは、人権侵害の内容を知りながら番組制作に出資したのだろうか、知らずにいて、後に何らかの折り合いをつけたのだろうか。
 政府は国を挙げて、いじめ・ハラスメント・人権侵害等を「撲滅」と謳いながら、総務省も文科省も厚労省も、なぜ動かなかったのだろうか。何に基づいて動かなかったのだろうか。(2016年1月18日当時:総務大臣・高市早苗、事務次官・櫻井俊、文部科学大臣・馳浩、事務次官・土屋定之、厚生労働大臣・塩崎恭久、事務次官・二川一夫、)
 番組を視聴した門外漢は、様々な不条理を消化できず落とし処もない状態で番組の内容はしこりとなった。
 番組を放送したTV局や、結果的に放送を助長することになったマスコミならびにスポンサーは、あの日、利権に隷属して命脈を絶ったのだろう。
 その内幕が、2022年冬、加害者の手による「小説」として世に明かされた。

 あの日、5人を蹂躙するため、主犯に従って段取りをした〔著者〕は、2022年、あの日の5人が今以て自ら口にしない内容を、「小説」では明かされない何者かの依頼を承けて「かすかな希望をもとめて(著者ツイッター:12月8日)」、「5人に感謝をしていること」と「彼らの優しさ」を「暴露の意図も告発の意図もない」小説として活字にしたという。しかしこれは、今「小説」にする意味になり得るのだろうか。さらに、執筆が「依頼」であった事を明かすのは、「小説」執筆の責任回避のためなのだろうか。それとも依頼者がそうする事を含めて依頼をしたのだろうか。

 〔著者〕は、あの日の自身の在り方と向き合う覚悟を放棄して、自己完結による責任逃避の自覚もないまま、言葉巧みに、目に明らかに、罪を自覚している体裁で、懺悔と感謝と当時語られなかった内幕を、被害者を自認する立場で語り続ける。
 〔著者〕は、アイヒマンの言葉を借りれば、「結果的に犯罪に手を貸したけれど、《上官の命令に従っただけ》だから、自分も被害者」なのだろう。
 浅川の言葉を借りれば「いろんなしがらみがあるから、《現場って本当に一筋縄じゃいかない》し、《妥協しないといけない時だってある》」のだろう。
 〔著者〕は、「小説」に「自分はどうしようもなかったから被害者なんだ」の念を漂わせ、「小説」という名でマスコミを通して明かすことで、業界の内外を問わず、有象無象に「著者の勇気」だ、「モデルとなった人たちへの愛」だと讃えられ、また、被害者自認の心理で綴られる「加害内容」を基にした「壮大な人権侵害」の顛末を「映像化して欲しい(社会学者ツイッター:12月10日)」とエールを送られ、〔著者〕自らそれらの言葉をリツイートして「ありがとう」と交歓し合っている。
 こんな現状は、5人を「誰も悪くない」「みんなやさしい」等々のスーパーヒーローとして、劇的に描き上げるためのリトマス試験紙で、犯罪に手を貸した者たちの「贖罪」という美名の自己満足への布石なのだろうか。
 しかしそもそも、5人はあの日のヒーローになる事を望んでいるのだろうか。

 あの日、オルゴールの音色が流れる中、喪服のようにスタイリングされた彼らに謝罪させ、最後まで頭を下げ続けさせたあの内容を、どの様な形であろうと映像化することは、見守り支え共に歩み画面の前で見届けたファンという当事者たちにとって「セカンドレイプ」となることを想定しないのだろうか。社会学者が、この状態で「映像化」を希望する・・社会学とは何と浅い学問か。

 どの様な罪であれ、明らかにならなければならない真実は、明らかにされなければならない。しかし、「小説」の〔著者〕は「従うしかなかった被害者」を自認しながら、〔著者〕をして加害の一端を担わせたという主犯も、思いこみの権力を振り回すことで公共の電波を私的に利用できてしまう業界の構造も、法治国家である日本にあって、しかるべく訴え、俯瞰的視点に立って公的に罰する手段を取らない。
 マスコミを生業とする〔著者〕が、あの日声にできなかった声を挙げ、「讃美」が免罪符となって降り濯ぐ業界にあっては、狭い界隈でおためごかし仕合い続けて溜飲を下げた気になれる、そんな環境を手放したくないのだろうか。
 それとも、〔著者〕たち業界人は、門外漢の感慨はすべて織り込み済みで、その上で「小説」を出さなければならない理由があって、それでも自他共に「これで良かった」と納得するために、公に讃え合わなければいられないのだろうか。

 「楽しくなければテレビじゃない」と謳い、そんな現場に悪意が在ってはならない…を前提に、与えられ立場を全うしたあの日の5人が今まで何も語らないのは、「誰も悪くない」を、身をもって示すためではないだろうか。たとえ流す事の出来ない感情があろうと…
 あの日以前も、あの日からも、5人はエンターテイメントを貫いている。

 多くの人が多幸感に包まれる素敵なShowの幕が開きますように。

 見たかった景色はこれではない…という感慨を、書きながら整理しながら、すべてが杞憂であることを願いながら。


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