見出し画像

自分を大切に愛して 今を感じて生きる事~思いやりの気持ち 感謝~



痛みを感じながら、この向き合いをしてきて、私なりに学んできた事を思い出していました。

私は私でいい。私は私を生きていい。
自分を愛する事。全肯定、全受容する事。
自分を1番大切にする事。

自分にとって、今、何が大事なんだろう。
それは自分を守る事。もう絶対に傷つけないように、何にも囚われないように、自分の心を守る事。

自分の心が無理、負担を感じる事をしない、しようとしなくていい。今の私にとってはこれが大事で、譲れない事だと思いました。

心地よく生きていい。
頑張らなくていい。
「もう、今、今のままでいいでしょ?今のまま、変わろうとしなくても、いいでしょ?」
自分の中から優しくそう聞こえてきました。


手紙を書く事は、今の私には、心に無理をして、頑張ってしまう事になるんだ...と思いました。
心の中の気持ちに気づく、気づく事が大切、気づくだけでいい。気づいた気持ちを大切にして、何も言わないでいい。気づいたからと言って、急いで動かなくていい。動こうとしなくていいんだ。
動けない時は、動かない時。まだ、動く時では無いんだ、と思いました。


気づいて、その気づきを大切にして、
今の幸せに感謝して生きる。
そして自然の流れに任せる。委ねる。


今の私にとっては、それがニュートラルだと思いました。それで良い、と思いました。
ニュートラルで、今のまま、このまま、変化しようとしなくていいんだ、と思いました。

変化しない、のでは無くて、
変化しようとしない、変化しようと思わなくていい、という事。

変化していくために、無理をして変化しない。
変化していくために、変化しようとしなくていい。

必要ならば、いつの間にか変化してる。
今ここ、今、目の前の事に集中して生きて、
目の前の事に、精一杯取り組んでいたら、
必要ならば自然に動いているし、
変化に見えない変化をしてると思いました。

そう思いながら、同時に罪悪感も感じました。
それでも伝えなくてもいいのか...と。

葛藤は、この葛藤だったとわかりました。得体の知れない恐れや不安は、この時との対峙を無意識に察知した為かもしれないと思いました。
受容出来るまで、腑に落ちるまで、横になり布団の中で痛みに耐えて冷や汗を拭いて、唸って苦しみ、時を通過しました。

そうしながら、2つの矛盾する気持ち、
そのどちらも本音本心だから、どちらの気持ちも持ってていい。両方の気持ちを抱いて生きたらいい。そう思いました。

あぁ、そうか と思いました。両方あっていいんだ。
どちらの気持ちも本当の本音本心なんだから、どちらかを否定したりしないで、どちらも持ち合わせて生きていたらいいんだ。
体験や感情はいつもそう、そうだった...。表と裏、光と闇、白と黒、愛と憎しみ、ポジティブとネガティブのように、相反する二面性があって、そのどちらも大切で、どちらも必要。中庸という事。

心の深い処の、感情の矛盾を受け入れて生きる事。

矛盾する気持ちを持っている自分を許す、受け入れる事。
恨みも後悔も深い感謝も自分で抱えて生きる。
弱い自分も、完璧じゃない自分も、そのまんまでいいと、許して、受け入れて生きようと思いました。
ありのままの自分で生きたいと思いました。
少しずつ、身体の痛みは消えていきました。


学びの解釈、読み解き方は未熟で全然足りないかもしれません。
これから気づく事もきっと沢山あると思いました。
それに、1度気づいても、私はよく忘れてしまいます。気づき続けながら、ゆっくり歩もう、と思いました。
今はこの段階までしかわからないから、それでいいと、思いました。
心を楽に心地よく、今を生きようと思いました。

そしてまわりに感謝して、幸せを感じていく事。
何が幸せかは、1人1人違っていて、その人の心が決める事だから、それぞれがそれぞれにとっての幸せを感じて生きる事。
私は私の幸せを感じて、自分の心に従っていきたいと思いました。


そして、不思議な事に、気持ちに気づいたからか、何となく、両親に会えるかもしれないと、そんな気がしています。
怖さも無く、悲しみ等の気持ちは感じません。会えたら、私は普通に話しが出来そうに思い、わくわくする気持ちがあります。今まで、こんな気持ちを持った事はありませんでした。
きっと会える。ような気がする。予定はありませんが...。
必要な事は、然るべき時に然るべきように起こる。
両親が私に会いたいと思ってくれた時と、私が両親に会いたいと思った時が重なる瞬間に、会える気がしています。


色々な思い込みを作って身に着けて生きていた私のように、父親も母親も同じであったなら、両親も生き辛く、と言う事は、2人とも、たぶん、物事の受け取り方には身に着けていた癖があったはずです。
そんな2人にとって宗教を信仰する事は、生きる為の支えとして必要な事だった。
当時、両親は信仰心に気持ちがフォーカスしていた(現在もそうかもしれない)。それにより思い込みも加わっていた。
両親も私も、お互いに多くの思い込みをした状態で関わっていた。
気づいていなかった当時は、お互いに、お互いへの思いやりの気持ちは足らなかった。全く無かったのかもしれません。
その状態では、相手に伝わるように、言葉を選んで気持ちを伝える事や、気持ちを受け取る事。理解し合うという事は、困難な事だったように思います。仕方がなかった...と思います。
僅かかもしれませんが、私は、気づけてよかったと思います。
自分の本当の気持ちに気づいて、その気持ちに正直に生きる事。その、自分を大切にしようとする事と同じように、相手の話しを聴きながら、相手の気持ち、生き方、考え方、心地よさを大切にしようとする事。自他尊重の気持ち。愛。感謝。ニュートラルな状態で。
自分の思い込みで、物事を、自分の見たいように見ていないかな?、受け取りたいように受け取っているのではないかな?という視点を持つ事。
気づけた気持ちを忘れず、いつか本当に言葉を伝えられる時が来たらいいなと、お互いに思いやりの気持ちを持って会える時が来たらいいなと、そう思っています。


私は今まで、何かを望む事、希望する事を、無意識に避けていたように思います。わくわくしないように、きっと叶わないから期待しないように、期待してがっかりしないように。
なので、今、私にとってわくわくする感覚はとても新鮮で貴重に感じます。
今までの人生で、わくわくするとか、何かを楽しむという感覚を、心の底から感じて生きて来なかったからです。
今、これから私は、わくわくする事を感じて生きていける事にわくわくしています。心から感謝の気持ちを感じます。


今1番身近なわくわくは、苺の苗を植える事。ハウス内に青々と葉が育ち、その姿を見る事。そこで深呼吸をする事です。
今こんなふうに、わくわくを新鮮に感じられるのも、ある意味両親の育て方のおかげかもと、複雑で変な気持ちですが、不思議とそうも思います。


あくまでも私の体験と、私の気づきでした。
過去の未完了の感情との向き合いの終了時もそうだったように、今現時点へ繋がる感情との向き合いが終了のような気がしました。
あの時と同じように、気づきが短期間で連続で起きた為です。(note記事 初めてのセラピー体験)
感情の揺れを感じ、気づきに到るまでの時間は辛かったですが、落ち着いて向き合って受容して、そこを越えてからは、心が楽になり、今はすっきりとしています。
もしかして、これからは、今後の自分との向き合いになるのかも...。
来世に持ち越さずに、今世で味わう感情との向き合い?等をしていく事になるのかな?等と、漠然と思いました。
それが、何なのか、どんな今後なのか...、全くわかりません。わからないから、楽しみにして、まずは目の前の事に集中したいと思っています。


     ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎  ﹎


今日まで暖かく見守ってくださいました皆様、
この記事は節目になるように思いましたので、お伝えさせてください。
noteの中で出会った皆様の記事、音声配信、動画などに、本当に助けて頂いて、支えて頂きました。
いつも気づきを得たり、癒されたり、勇気を頂いて、本当にどうしようも無く拗れた自分自身の感情を解きほぐす為に向き合いを続けて来る事が出来ました。
私自身としては、辿り着きたかった心の中心の深い処に来る事が出来たと感じています。
本当に、ありがとうございました。
各記事に、いつも素敵な写真やイラスト等をお借りしました事も、本当に、ありがとうございました。
これからは、どんなふうにnoteを書けるのか、今はまだわかりませんが、焦らずゆっくり、心の赴くままに...と思っています。
皆様のnoteにもまた時々お邪魔させてください。


お読み頂き、ありがとうございました。


hana/コブクロ





この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?